2005.1.1 By さわらびT

シンポジウム 「朝鮮通信使と関宿藩」に参加して

2004年10月24日(日)シンポジウム「朝鮮通信使と関宿藩」が開催されました。(主催シンポジウム実行委員会、千葉日韓関係史研究会 後援 柏市教育委員会、千葉韓国教育院、「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」)

事前にご案内を主催者でもある鈴木英夫先生からいただきましたので、さっそく「さわらび通信」にてもご案内し、当日は楽しく参加させていただきました。行なわれたのは、次の各氏による講演と討論でした。

講  演    「朝鮮国礼曹参判書契の伝世と老中久世家」 仲尾宏氏(京都造形芸術大学客員教授)
特別報告  「書契・仕宦録の伝世と亀井家」  亀井薫氏
報  告   「関宿藩の歴史」 鈴木英夫氏 (國學院大學講師)
       「通信使を迎えた藩士たち−『仕宦録』と藩重臣−」
                松本松志氏 (千葉日韓関係史研究会)

このシンポジウムのきっかけとなった朝鮮通信使と関宿藩の交流を示す新史料の発見の経緯ですが、亀井氏の報告に詳しいので後述します。すでに京都ではこの史料の公開が行なわれていたのですが、関東では初めてこのシンポジウム会場で公開・展示されることになりました。

展示されたのは、「書契」ならびに「仕宦録」という文書です。シンポジウム会場の一角に、ガラスケースの中に大事に収められ陳列されていました。その史料ですが、仲尾宏先生が講演でお話しになられましたが、出所も明確であり、紙質の調査という科学的分析も終え、本物と証明されたものです。

鈴木先生から前もってご連絡いただきいたおかげで、こうした貴重な史料を拝見する機会を得ることができたのですが、まだ多くの方々にとっては未知な部分が多いのではないでしょうか。この史料から読み解かれる史実も極めて興味深いですし、発見の経緯そのものもドラマティックだったことを知りました。

右の写真が「仕宦録」、下が「書契」です。撮影のご了承をいただいたのですが、ガラスケースの上からの写真ですので、わかりづらいのはご容赦ください。

このシンポジウムでは、@これら文書がなぜ関宿藩・久世家とかかわりがあるのか Aこれらの文書が京都で発見された経緯 Bこの発見が通信使研究の中でどのような意義を持つか C「仕宦録」の発見がもたらしたもの(関宿藩のように朝鮮通信使が通らなかった藩での対応)等を明らかにしたいと、最初に問題提起がなされました。

「書契」とは、正確には「朝鮮国礼曹参判書契」という文書です。李氏朝鮮国において、対日外交の窓口となったのが「礼曹(れいそう)」という部局です。差出人が「礼曹参判 金演」とあり、「日本国執政源公閣下」宛てになっています。参判(さんぱん)とは副大臣に当たり、「執政」は老中のこと、朝鮮国の外交副大臣から幕府の老中に送られた外交文書ということになります。

今回発見されたのは、享保4年(1719)、吉宗が新将軍になったことによる通信使の来聘に関わる文書です。

実は、この文書のどこにも関宿とは書いていないのですが、なぜ久世氏に宛てたものとわかるのでしょうか。
仲尾先生のご講演でうかがったことを記します。

当時の老中は4名いたのですが、この文書が発見された亀井家と関係あるのは久世重之という人物です。

「書契」に書かれている内容ですが、新将軍・吉宗の襲職を祝い、朝鮮国王として友好な外交を続けるために使者を派遣する旨を告げています。さらに当時老中の職にあった久世重之に対し新将軍を輔弼されるよう伝えています。日本において、「書契」の現物はこれまでわずか2点しか存在していなかったので、従って今回で3点目の発見となるとのことです。

久世家ですが、久世広之の代に将軍家綱のお側衆から一代で城持ち大名になったという異例の大出世が光っています。その経歴ですが、明暦元年(1655)家綱襲職による通信使の来日時には、小姓組番頭として道路検分のため大坂に出向いています。また江戸城においても将軍警護、饗応時の給仕の役目を果たしたそうです。子の重之も奏者番から老中になった人物ですが、家宣襲職にあたっての通信使の来日は有名な新井白石の聘礼改革に直面します。老中あての書契は廃止されます。したがって、このときには「書契」は、存在しないことになります。新将軍・吉宗の代になって新井白石が、職を解かれたのもよく知られています。

朝鮮通信使は、室町時代から数えて20回を数えるといいます。江戸時代の通信使は秀吉の侵略戦争の戦後処理という政治課題から出発しました。将軍の代替わりごとにやってくる朝鮮国からの使者を江戸に迎えるため、通行する各藩が接待することとなっていたのです。しかしこの関宿藩は通行藩ではないにもかかわらず、藩主が老中のためなのでしょう、藩内はあわただしく接待のためのさまざまな準備にとりかかったようです。実は、その模様が記録されている史料があったのです。それが「仕宦録」です。しかも関宿藩は、こうした朝鮮外交と密接な関係を持っていたことによって発展したことを示しています。江戸時代の朝鮮外交を理解するのに大変役立つ史料が新たに発見されたという意義を持っています。

こうした貴重な史料が発見された経緯は、当事者である亀井薫氏の発表で詳しくうかがうことができました。

2001年夏、亀井氏がご実家の屋根裏を整理中に、偶然発見した反故書類が気になられて友人の歴史資料館学芸員の方などを通じて佐々木克氏に相談、さらに関宿博物館にも連絡したそうです。こうした経緯を経て「仕宦録」は世に出たわけです。亀井家が主家となる久世家への仕官を記録した文書だったのです。

これで一件落着と思われたのですが、さらに重要な発見が待ち構えていたわけです。それは翌2002年の秋のことだったそうです。実家の居間の神棚近くに何気なく置かれていた紙切れが「書契」であったということですが、今回は仲尾先生にたどりつきました。仲尾先生の講演でもふれられていましたが、本物の史料であったことがわかるまでのこうした経緯は、スリリングでもあり大変面白いお話でした。亀井氏が関心を持って行動されたおかげで、この史料が世に出たわけです。

藩主の久世家から、家老職にあった亀井家に何らかの事情で受け継がれた文書なんですが、幕末から今日に至るまで、代々のご当主も苦労をされたようです。先代はシベリア抑留の体験をされたとうかがいました。そのような日々を暮らしながらも、伝えられた文書なのですが、朝鮮通信使の歴史をよみがえらせてくらる史料となったのは、私たち歴史愛好家にとってもありがたいことです。ご一族にとってもシンポジウムの開催は感慨深いとお話しになりました。

続いて鈴木英夫先生から報告「関宿藩の歴史」についてお話いただきました。1560年頃簗田氏が、上杉謙信の後ろ盾に城を奪還した際、奪われた側の北条氏康をして「かの地は一国を手に入れてもかえられない」と言わしめたほど戦略的価値のある土地だったようです。交通の要衝としての関宿の地理的条件が印象付けられるご報告でした。現在では、交通手段が限られてるようで、かなり不便な場所になっているようですが、戦国時代・江戸時代を通じて重要な場所だったようです。

左の地図は、城跡を示しています。左上の方に本丸・二の丸・三の丸・発端曲輪とありますが、三の丸から南に伸びる桜町通りが江戸川堤防に突き当たるところが大手門になります。右下の地図は現在の姿ですが、江戸川と利根川の合流地点に関宿城跡があります。江戸時代においては様相は現在とは異なりますが、利根川の水運の要衝でありました。

関宿築城には、応永年間(1394〜1428)簗田満助によるもの、もしくは長禄元年(1457)簗田成助の築城の2説があって決め手はないようですが、少なくともその時代には城は成立していたようです。(千葉城郭研究会編『図説 房総の城郭』、図書刊行会、2002)

簗田氏は反北条氏を貫き3回の関宿合戦ののち落城、一時は北条氏が領有しますが、いかにも戦国時代らしくそののち秀吉・家康と支配者は代わります。

久世広之がその領地として支配することになったのは寛文9年(1669)です。領地は下総国葛飾・猿島・相馬・常陸国新治・筑波郡、その後一時綱吉御用人の牧野成貞らが支配する時期はあるようですが、久世家は、幕末まで藩主をつとめていました。(以上、当日配布の資料から多くを引用しました。)

さらに、この「仕宦録」を読む作業を続けてこられた松本松志先生による聞き応えのある報告が続きました。松本先生は、186ページ分が同一人の筆跡であるとされました。つまりその箇所は清書したものであって、原「仕宦録」の存在を示唆しています。全部で256ページにわたる記載からは、年中行事や法事のありよう、久世家の嫡男及び姫、亀井家の養子のことと合わせて、朝鮮通信使の饗応が描かれていますので、大変貴重な資料であることを教えていただきました。

配布された資料から一例を記します。正徳元年(1711)の通信使(家宣襲職・新井白石による聘礼改革があった)が久世家を訪問した時の様子です。

「十一月三日朝鮮人今日登城御屋敷前 相通リ候ニ付、御物見江依被為出候、奥様江干菓子一折 源五郎様 千橘様江干菓子一折差上候」(松本先生の資料解説によれば、上屋敷の門を大きく開け「物見」の席を設けて、屋敷の前の行列を一同で見物したと解釈されます。この上屋敷の場所は特定できていないそうです。なお源五郎様とは久世家の嫡男、千橘様は姫様です。)

面白いと感じたのは、久世家2代目重之は凡庸であったがそれを支えたのが奥方であり、家老(亀井家の二代目の安平であったのではなかろうかと推測)であったとの説を展開されたことです。このシンポジウムには、久世家のご当主も参加されておられたので、恐縮ながらと断わっておられましたが・・・

最後に質疑応答の時間がもうけられ、仲尾先生はじめ報告者の皆様が丁寧に質問に答えておられたのが印象的でした。

歴史はときおりこういう形で、現在を生きているわれわれに、突然課題を投げかけてくるようです。日常生活では気づいていなかったことが、あるきっかけで、このように見えてきたりすることがありますね。もともと関心はあったのですが、こうした史実の発掘に、シンポジウムという形で、その意義を伝えてくださった方々のご努力に敬意を表するとともに、深い共感と充実感を覚えた一日でした。