房総地域文化研究プロジェクト記録集
『房総を学ぶ』 (2005年3月20日 東京成徳大学人文学部発行)

   地域を学ぶことのおもしろさ
   −路傍の神仏・道標・咳神様の調査から−

                   蕨 由美


1. 通り道の風景
私が地域の歴史や文化財に親しみを持ったのは、十数年前のことだろうか。八千代市の勝田台団地に越してきて、子供が生まれ、やがて保育園に通う生活が始まった。その毎日通う勝田保育園は、旧村の勝田とその背後の台地を造成した勝田台団地の境にあった。自転車で送り迎えの道すがら、ふと目につく不思議なものがある。「青面金剛」という文字と「見ざる・言わざる・聞かざる」の三匹の猿が刻まれた石塔だった。場所は勝田台団地の西のはずれ、子供たちが「悪魔の球場」と呼ぶグランドの向かいの角である。この石塔を見てなんだろうと思ったことが、私が地域の歴史を知ることのきっかけとなった。
その石塔は庚申待を行った講中で供養のために建てる「庚申塔」という石仏で、庚申の本尊は「青面金剛」。神道では猿田彦神とされるところから、道祖神して信仰されることが多い石塔であった。
またこの石塔のある角は、昔「又兵衛割」とよばれた三叉路の角で、その塔には「右うすゐ道」「左下いちば道」という「道しるべ」も刻まれてあった。それは16号線や勝田台団地のできる前の千葉から成田道に至る古い重要な道を指し示していたのだが、そのころの私には石塔や道しるべの意味すらまだ知る由はなかった。

2. 不思議なものとの出会い
「八千代市郷土歴史研究会」というグループを知ったのも、ちょうどそのころだったろうか。保育園の行事で訪れた勝田台文化プラザでちょうど「郷土史展」という展示会が開かれていた。テーマは「八千代の古道」。路傍の道標や史跡、伝承などから開発や区画整理前の古い道を案内する内容で、さっそく私はその場で入会の手続きをした。
会の先輩方に教えてもらってあの保育園の近くの石塔が「庚申塔」であることも知り、休日には好奇心に任せて勝田の旧村を訪ね歩いた。
大和田排水機場ができるまで、印旛沼に流れていた勝田川。その流域に広がる水田と辺田道。旧家の屋敷門、産土の駒形神社、六地蔵が並ぶ円福寺。その坂を上ると梵天塚があり、かつての松林の台地は、団地の一角に梵天塚公園としてその姿をとどめている。また川に面した村境には、3基の庚申塔が立っていて、そのうちの1基はりっぱな青面金剛の浮彫り像。その姿はあたかも橋の向こうから進入してくる災厄からムラの平和を護るような雄々しい姿であった。
こんな身近な不思議なものとの出会い、そしてそこから地域の成り立ちを知り、里の風景を復元し、歴史的景観を知ること。「地域を学ぶ楽しさ」とは私にとってこういうことであった。

3. 八千代市郷土歴史研究会とともに
私が入った八千代市郷土歴史研究会は1974年に発足、研究機関誌「史談八千代」を創刊し、勝田や米本の調査研究などの実績があった。入会した1988年当時、活動している人は少なかったが、それでも古道調査、八千代八福神巡りの設置などの有意義な活動を続けていた。八千代八福神巡りは、まだ県内でも七福神巡りが3ヶ所しかなかったころ、歴史オリエンテーリングの楽しさと市内の名所づくりを目的に、八千代市仏教連合会に働きかけて実現した企画であった。
会員が増え会の活動力も充実してきた1998年からは、石造文化財である道標の市内悉皆調査を開始、八千代市の“ふるさと八千代”市民企画提案事業に応募して、『ふるさと再発見 八千代の道しるべ』を発刊した。特にこの調査の中で、成田街道新木戸交差点の「血流地蔵道標」の復元・設置を成し遂げたことは、路傍の文化財を調べ守っていこうとする市民の活動の成果であった。
そして会は今、開発の進む八千代市の現状を見据えつつ、上高野、高津新田、高津などをフィールドに、今記録しなければ失われかねない旧村の姿を調査し続けている。
その調査活動の中から、「血流地蔵道標」の復元と、私が最近興味を持って調べている「咳神様」について紹介したい。

4. よみがえった血流地蔵への道しるべ
1998年の夏、会のメンバーと誘い合って、八千代市内の道標をすべて調査しようと旧街道や畑や森の中の古道の石造物を探しに行く週末が続いた。まずは成田街道、八千代市の西の端、新木戸交差点には「成田山」の道標があり、そしてその向こう側のガソリンスタンドと歩道の境に、もう1基道標らしき石碑の一部分があった。
脇と裏に彫られた銘文から、享和三年(1803)江戸深川大工町の世話人(?)が建てた道標で、右へ行くと「成田」、左は「江戸」を示すと思われたが、肝心の正面の銘文が摩滅損傷していてわからない。かろうじて「流」という一文字、その上下にも文字の一部があるのだが・・・ 
ふと連想されたのが、吉橋貞福寺に伝わる本尊「血流地蔵尊」の伝承であった。吉橋には「吉橋城主高木伊勢守が北条軍に滅ぼされ、遺臣が主君の守り本尊を血流地蔵として貞福寺に祀った」という言い伝えがある。その吉橋へはこの交差点で分岐する木下道を行く。この銘文は「血流地(蔵?)」! とすると、成田山と共に江戸時代には霊験あらたかなこの血流地蔵尊にお参りする講や人々があったという貴重な資料となる。
聞き取り調査では、この道標の下半分は道路工事の際、ガソリンスタンドの角の側溝にまだ埋まっているらしいとのこと。研究会の調査活動の一環としてこれを発掘し、復元しようということになった。
調査から2年目の2000年7月、会員の見守る中、工務店の手で発掘の「工事」開始、カッターでコンクリートを切り、周りを掘って道標の下半分を発見。これをクレーンで吊り上げ掘出しに成功した。道標の下部は、度重なる道路のかさ上げと共に埋もれ、地上に出ていた上部は側溝工事の際に断ち割られて、一時は敷石などに使われていたらしかった。掘出された道標の下部分には、これを建てた深川の「川崎屋喜兵衛」と「石屋勘兵衛」のあざやかな銘文、そして正面はやはり「〜蔵道」の文字。まさしく血流地蔵尊への道しるべに間違いはなかった。
上下そろった道標は石工店の手でひとつに復元。さらに、翌2001年6月、ガソリンスタンドの改修工事を待って元の位置に建立、その翌2002年5月研究会と貞福寺さんによる説明板も設置された。古道の探索という歴史的な地理の把握をめざす中で、路傍の石造物を調べ、近隣の伝承と聞き取り調査を丹念に行ってきた日ごろから会の活動の成果であった。

5. 高津で見つけた「咳神様」
旧高津村は、八千代台駅の北西、旧検見川道沿いの古くからの村で、高津姫伝説、中世の館跡の土塁、三山七年祭やオビシャなどの民俗行事、両墓性の埋墓に残る観音堂境内など興味深い史跡・伝承が残されている。
2004年の1月、村の境を祭る民俗行事のひとつである辻切りを調べていた時である。大和田新田と高津の境の辻切りの場所を旧家の方にお聞きすると、「咳神様のところ」と教えられた。行ってみると「咳神様」とは、民家の塀に食い込むような敷地に祀られた石碑で、湯飲みが供えられていた。とりあえずその日は写真撮影だけして、後日研究会のメンバーと再度行ってみると、この民家の庭を広げる工事のため「咳神様」は撤去され、観音堂の入り口に移されてあったのだ。調べてみると、この「咳神様」の石には、「地蔵堂跡」と刻まれてあり、裏返してみるとなんとお地蔵さまの胴体部分であった。
この咳神様については、「逃げるときに咳をしてつかまったお姫様の供養の墓」と、「男女が、一緒に逃げようとして咳をして捕まり殺された」というふたつの伝承があるが、いずれにしても「お茶を供えると咳が止まる」と信じられていて、孫が風邪をひいたりした時は今でも拝みに来るという。
八千代市内で辻切りと同じ場所に祀られていた咳神様の事例として、桑納三叉路の「しゃぶきばあさん」の墓というのを見たことがある。また米本城址には、落城の際咳をして敵に見つかり殺された老兵の墓石と言うのがある。「咳神様」というのは、八千代市内外のあちこちの村にあるのかもしれない。そう思って、私の「咳神様」探しが始まった。

6. 北総の咳神信仰を探して
そういえば、咳神様としては、佐倉市臼井城跡に近い印旛沼のほとりの「おたつ様」が有名である。臼井城主の死後、後見人の叔父により殺されようとした若君は、下女のおたつの計いで脱出、おたつも逃げたが、印旛沼ほとりの葦原で咳をしたために捕らわれて殺された。これを哀れんだ村人が祠を建てておたつを祀ったとのこと。江戸時代の延享4年(1747)に造立された石祠が今も建っていて、お茶とむぎこがしを供えて祈ると咳がとまるという。この伝承は安政5年(1858)に刊行された赤松宗旦の『利根川図誌』にも記されている。
研究会の会員や友人から寄せられた情報をたよりに、近隣の咳神様を訪ねた。なるほどかつては、各村ごとに咳神信仰があったのではと思われるほど、数多くの事例があった。その私が訪ねた咳神様を類型別にまとめてみた。

@「しゃぶきばあさん」:桑納三叉路の「咳漱婆之墓」、佐倉市青菅の「しゃびき婆さん」観音石仏で尼の堂守りだという)、佐倉市下志津の「ちゃぶくばあさん」(上峠城址に隣接した畑の中の榎)、佐倉市大蛇町の「粟切り婆さんの墓」(粟を盗み咳をして捕らえられたという)
A地蔵像:米本の「すわり地蔵」、千葉市幕張町の「かぜひき地蔵」
B古い城跡の傍の墓石や板碑:臼井城跡の「おたつ様」、米本城跡の「しろぬし様」(落城の際咳をして殺された老兵の墓という板碑)、千葉市大井戸館址傍の「姥の墓」(板碑と五輪塔残欠)
C行き倒れの人のお墓:八千代市佐山の「乞食の墓」(ただし今は墓地に移転してから不明)、市川市下貝塚の「こんこんのんのんさま」
D男と逃げた女(姫)の墓:佐倉市土浮の「おわばさま」(信士・信女銘の墓石)、高津の「咳神様」
Eその他の墓石:村上の「けんけさま」(僧侶の墓石)、佐倉市先崎の「三五八さま」(「俗名佐五八」の墓石)、市川市国分の「腹切りさま」(酔った武士が切腹)
Fその他:佐倉市小竹の「風邪の神様」(梵天塚傍の大日如来像)、佐倉市上座の「咳神」(手繰橋たもとの道沿いの注連縄)

そのほか船橋市の事例として綿貫啓一氏が「船橋市域の風邪・咳の神様」『房総石造文化財研究会会報』第11号(1982)、また印西町の咳神信仰については榎本正三氏が「印西町の咳神信仰」『印西町の歴史』第11号(1995)で紹介している。

7.「咳神様」考
各村の境や村内の神社・寺院の境内には、病を癒す神仏が祀られてきた。川村純一氏の著書『石のカルテ』には、さまざまな病気ごとに平癒を祈願した石造物が紹介されている。中でも流行り病として特に恐れられた疱瘡については、「疱瘡神」と刻まれた石祠や「疱瘡地蔵」などが残され、また呪いや祭礼などの民俗儀礼も記録されてきた。
命取りの病であった疱瘡を無事に送る習俗に比べて、呼吸器の疾病を癒す「咳神様」は目立たないが、今でも「竹筒(たかっぽ)」を振り分けにつるしたり、湯飲みやペットボトルを供えたりと、その信仰がささやかながら続いているようだ。
とはいっても、その拝む対象は前章のようにさまざまで、信仰している当事者でないと特定できず、探し出すのも難しいものばかり。ただ共通するのは、そのほとんどの場所が村のはずれや境の場所。祀られているのは、老婆、または咳をして逃げそこなった人や行き倒れた旅人の霊で、これらを供養すると咳止めの利益があると伝承されていることである。
村の境界には古来より、柳田国男が『石神問答』(1910年)でいう「シャグジ」の神を祀り、その姿は男女一対の道祖神や石神(しゃくじん)であったりする。道祖神は、「塞(さえ)のかみ」。「さえ」とは塞(せ)き止めを意味する。関所の「関」、「堰」も同じで、その「せき」は「咳」に通じる。「石神」もまた「せきがみ」に通じ、「シャブキ」という音も「シャグジ」を連想させる。
境界にはまた目印の「関の御場石(おばいし)」などがあったとされていて、墨田区向島の弘福寺の大きな石の「咳の爺婆尊」については、柳田国男が『日本の伝説』(1929年)「咳のおば様」で「子供を守るウバ神が咳のおば様の原型」という視点で紹介している。
また、この世とあの世を隔てる境界「三途の川」には、奪衣婆(だつえば)というお婆さんがいて、亡者の衣服を剥ぎとって生前に罪の重さをはかるという話が、十王経などの偽経で説かれ人々に恐れられていた。江戸時代、咳神様として一番人気のあった内藤新宿の正受院「子育て老婆尊」は、まさに奪衣婆尊で、咳止めのお札に奉納された綿を被った姿で今も健在である。
咳神様のほとんどが石造物であるのに、佐倉市下志津上峠城の隣の咳神様は、大きな枝を広げた一本の榎であった。榎は境の目印の樹であったのだろう。その樹が芽吹きのころ訪ねて、畑仕事をしているおばあさんにお聞きすると、この樹は「ちゃぶくばあさん」といって、子どもの風邪に効く咳神様。今でも盆と暮れにはお茶と黄粉とお米をあげるという。黄粉をあげるのは、水分を摂らずに黄粉を口にするとむせて咳が出る、その苦しみを「ちゃぶくばあさん」に身をもって体験してもらい、咳に苦しむ子供の味方になってもらうためらしい。
咳神の何割かがお婆さんや姥、乳母というのは、疱瘡神とも共通しているが、子供の病気に力を貸さないではいられない老婆の姿を日常的に目にしていた生活の反映であったのだろうか。

8.語られるための「咳神様」
咳神様について、その付近のおばあさん方にお聞きすると、たいていは長く楽しい由来譚を語ってくれる。高津比盗_社のオコモリでお聞きした高津の咳神様の場合もそうであった。「チョウベの家には働きに来ていた男衆(おとこし)と女中がいて、どうも許されぬ仲だったらしい。ある日一緒に駆け落ちしようとして村の境の辻切りの所まで来た時、追っ手が来て、潜んでいたのに、女のほうが咳をして捕まり二人とも殺されたんだって。」さらに「チョウベの家は、長い塀のある御大家だったらしい」とか、語呂合わせの尾ひれがついた話が続く。一方では、逃げたのは女中ではなく、お姫様だったともいう。
丹波の栢原「おさんの森」には、近松門左衛門の人形浄瑠璃「大経師昔暦」ゆかりの祠がある。不義密通の疑いをかけられたおさんと茂兵衛は、茂兵衛の実家のあった柏原まで逃げ延びたが、おさんが 咳をしたため見つかって捕らえられた場所とされ、咳の病に効くといわれて、名所ともなっている。男女の話は、佐倉市土浮の「おわばさま」では、お姫様が男と逃げて捕まる話で、高津の咳神様もこの「おわばさま」にも「おさんの森」の話にも似ている。
歴史的な物語として臼井城のおたつの話も面白いが、源頼朝旗揚げの際の若武者の武勇伝が付随している咳神様もある。印西町草深の佐奈田神社は、咳神様として有名な小田原市石橋山古戦場の佐奈田明神を勧請した神社で、佐奈田明神のいわれとして、若くして軍功をあげながら喘息の持病から不覚にも命をおとした真田与一義忠のドラマが語られる。
また咳神様には、相撲取りの「関取」もある。鳥取の両国梶之助という関取の石碑にまつわる話しや、印西町小林新田の伊勢ヶ海という相撲取りの墓のいわれなどは、「咳」が、「関」「石」だけでなく、相撲の「関取」の語呂合わせからきているのであろう。そういえば、千葉市幕張町堂の山の「かぜひき地蔵」も、なぜか文政期の関脇・荒馬紋蔵の供養碑と同じところにあった。これらの咳神さまは、塞(さえ)として村境に祀られるべき異常な力の持ち主に、旅先でなくなったという「関取」の供養の話を重ね、咳神さまとしての効能と力士の一代記が一体となった物語ともなっている。
調べていくうちに私は、咳神様の実態とは、時代と共に「シャグジ」の神であったことを離れ、村びとに語られるための存在になったのではと思うようになった。咳をして非業の死を遂げた人の名として、戦国時代の人物や力士のシコナ、村の流行り病を鎮めるために入定した旅の僧の法名などが語られ、その証拠とばかりさみしい村のはずれにその墓石と称するものがあっても、実はそのほとんどが実在の不明な人物で、素性のはっきりした村人であることは皆無である。
場所と人物、時代が少々異なっていても、これらの咳神さま信仰には、柳田国男が『傳説』(1940年)で述べたような、「運ばれた伝説の異常なる統一」がある。村はずれのちょっと怖い場所に展開する哀れな奇談、咳神様の話は、そのささやかな病気治しの効能もあって最も親しみやすい「伝説」であり、娯楽だった。そしてだからこそ、どの村にも咳神様はおられ、その話は咳で眠れぬ子をあやしながら語る祖母や母親の特技であり、オコモリでの噂話の定番であったのだと思う。

9.地域に学ぶとは
私たちは自分の住む地域の歴史を知りたいと思って、調査を続けてきたが、八千代市や近隣のフィールドも今、開発によって大きくその景観が変わりつつある。里山が崩され、谷津田が埋められ、路傍の石仏や道標も壊されて、そこにはもう昔からの生活の営みがなかったように街が変貌していく。宅造地や道路を指差して、ここには遺跡があった、信仰されていた祠と森があったと説明しても、むなしい気持ちが隠せない。
祭りや行事を通じて村の方々と知り合い、お話を聞き、古民家や墓地や位牌、古文書を見せていただき記録するということは、とても手間と時間のかかる作業なのだが、村のたたずまいもその歴史も、急速に消えかけているのが現状である。調査が遅れれば、血流地蔵の道しるべも、高津の咳神様も、記録すらおぼつかなかったであろう。
地域に学ぶということは、もはや知る面白さにとどまっていてはいけないのではないかと、最近思うようになった。里山を管理し伝承や祭りを伝えてきた旧村の方々と共に学び、共に次世代に残すべきものをはっきりと示すこと、そして開発に伴う都市計画のコンセプトの中にそれを生かし活用させること、それが今の私たちの課題ではないかと思う。
知らないうちに失われてしまった歴史的景観は、もう二度と戻っては来ないのだから。