2001年11月 by.ゆみ
秋深まる古城址をあるく
戦国時代、関東に覇をとなえたふたつの中世城郭を訪ねてみました。
上州の金山城と、下総の臼井城です。
両城址とも、ここ10年ぐらいの間に、城郭の構造などが発掘などであきらかになったり、また整備によってイメージが変わっていました。
秋深まる古城址の最新の情景をおたのしみください。
文明元年(1469)新田(岩松)家純によって築城、その後岩松氏重臣横瀬氏が実質的な城主となって、後北条氏が秀吉に討伐されるまで、難攻不落の城として、関東に覇をとなえました。
標高235.8mの金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる尾根上を造成、曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った山城です。
発掘調査で、石垣や石敷きが多用されていることがわかり、従来、戦国時代の関東の山城に本格的な石垣はないとされた城郭史の定説が覆されました。
主な曲輪群は実城・西城・坂中(北曲輪)・八王子山の砦の4箇所、山麓には、城主や家臣団の館・屋敷があったと考えられ、根小屋を形成していたとのことです。
2001.11.11撮影 実城大手虎口のケヤキ
印旛沼に面する臼井の台地をすべてとりこんだ「惣構」をほこる下総の城郭です。
12世紀、千葉氏の一族臼井氏が居城とし、1550年その重臣原氏が生実城から入って、秀吉の関東制覇まで戦国の城として機能しました。
台地の縁辺には、州崎・仲台・田久里・稲荷台・宿内の砦を配して外郭とし、惣構の外には、小竹・師戸・岩戸城などの支城を置いています。また、円応寺のある「江間」の発掘により、千葉氏の本拠の本佐倉城と水路で結ぶための、舟付き場があったことがあきらかになっています。
現在T郭・U郭が公園として整備され、またマンション予定地で滅亡の危機にあった宿内砦も、保存公開されています。
(宿内砦跡保存運動については、「史談八千代」第19号の拙稿をお読み下さい)
2001.11.17撮影 臼井城T郭
ついでに 近世の城跡の秋もどうぞ
慶長15年(1610)老中土井利勝が佐倉14万石を与えられ、鹿島台地に築城。 近世の城であっても、石垣はない。
徳川幕府は佐倉城を東の守りとして堀田氏など、代々譜代の大名を当てた。
本丸には江戸城にあった三階櫓を移したという天守閣と御殿が造営されたが、天守は文化10年の盗賊の放置した提灯による出火で全焼。その他の施設は明治6年にすべて取り払われた。
古今佐倉真佐子 に 「ごくごく深山の如くにして、漸く表より程遠きところより天守の屋根すこしばかり見るなり」 とある。
城の本丸より一段低い所に姥が池がある。 伝説に、昔、乳母が誤って若君を落としてしまい、乳母はそれを苦にしてそのまま入水したという。
2001.11.24撮影 姥が池