2005.11.28 By ゆみ
12.3更新
青砥氏の故地探訪5(京成青砥駅周辺を歩く)
住居表示に多い「青戸」は、平泉中尊寺文書に葛西氏代官「青戸二郎重茂」の名が確認でき、こちらのほうが「青砥」より古い正応元年(1288)です。

本土寺過去帳では「葛西青津」。
津と戸は同意で、青津→青戸→青砥と変化したのだと考証されています。

青砥藤綱の実名が明記されるのは、北条時頼の廻国伝説を述べる17世紀成立の『弘長記』からで、『太平記』は「青砥左衛門尉」とのみの記載だそうです。
史料では「康永三年(1342)室町幕府引付衆注文」の中に「青砥左衛門尉」という官途名の武士がいたが、実名は不明。
         →郷土と天文の博物館にて
右は、その松明五十文を費やして十文の銭を探させたという旧跡の碑。
下は青砥氏の邸宅跡前の「青砥橋」
参考資料:葛飾区郷土と天文の博物館平成17年度特別展図録
『親鸞と青砥藤綱−東京下町の歴史伝説を探る-』
2003.5.13
鎌倉市内にも青砥藤綱のゆかりの地が、その館跡や銭探しの旧跡などとして伝承されています。
今も昭和13年鎌倉青年団建立の石碑とともに、滑川の四季折々の風情ある景色を楽しむことができます。
2005.12.3