2002.8.18 by

騎馬民族征服王朝説は検討に値するのか


T【日本列島に馬はいつから存在?】

 日本列島において馬の存在はいつから確認できるのでしょう。縄文時代や弥生時代の遺跡から馬の骨が出る事例が多くあるので、かってはそれが馬の存在の証明だったようです。ところが、近年フッ素含有量を調べることで骨そのものの年代測定ができるようになった結果、否定されるようになったそうです。ややこしいことですがなぜでしょう。貝塚というのは、後世に馬の死骸の捨て場として利用されることがあり、結果的に遺跡にまぎれこむことになったというのです。なくなられた佐原真先生の『騎馬民族は来なかった』(NHKブックス、1993)を参照していただくと、よくわかります。

 筑波大学の桃崎祐輔先生の講演でも、馬の存在時期を最初に話題にされました。日本列島が縄文時代であった頃、春秋戦国時代の中国においては東中国海を挟んだ日本列島の対岸である山東半島には戦車をつけた状態で発掘される屠殺馬が多くみられることから、縄文人が馬を入手した可能性は否定できないとも話されました。
 しかしながら、縄文・弥生の馬は証明されていないとお考えのようでした。ついで、馬具から馬の存在を立証できるか、という問いを発し、厄介なことに弥生時代馬具は宝物として一部を利用するのでそれだけでは証明としては危うさが残ると、話は続きます。それでは馬の存在を立証できるのは、何かといえば、古墳殉葬馬であると考えられたそうです。馬具によって年代もわかり、古墳に殉葬された馬こそは確実だというわけです。
 
 『日本列島における騎馬文化の受容と拡散―殺馬儀礼と初期馬具の拡散に見る慕容鮮卑・朝鮮三国伽耶の影響―」(『渡来文化の受容と展開』,1999)では「遺構に伴うものでも共伴遺物や理化学的分析が不可欠。資料の信頼度高い古墳殉葬馬の重要性」と表現しておられたことは、このお話でよく理解できました。


U【江上波夫氏と騎馬民族征服王朝説】


 日本列島における馬の存在を論じることで、「騎馬民族征服王朝説」にあらためて関心をいだきました。「古墳殉葬馬」の事例は、騎馬民族の風習ともかかわりのあることなのでしょうか。結論を急ぐ必要はないでしょう。

 そもそも「騎馬民族征服王朝説」とは何であったのか、少し考えてみましょう。この壮大な提言が江上波夫氏によってなされたのは1948年のことでした。当時の学界は、皇国史観への反動であったのでしょうか、唯物史観にもとづき歴史像を書きかえる動きが活発だったと聞きます。江上氏は、日本中心史観にあきたらずアジア史のなかに日本を位置付けられたようです。
 江上氏自身がしばしば述べておられることですが、これは決して独創的な見解ではないということです。喜田貞吉の「日鮮両民族同源論」(1921年)と見解を大筋のところで一致していると述べておられます。戦前の朝鮮支配の学問的根拠ともいえる論です。(この点、江上説を批判する立場からは問題点とされていることは後の記述をご覧ください。)

  江上氏は古墳時代前期と後期とでは、「突然変異的な変容」がみられることに着目しています。とりわけ副葬品の変化に注目されています。前期は鏡・玉・剣さらに車輪石・鍬形石など宝器的・象徴的・呪術的なものであり弥生時代と本質的には変わっていない、しかし後期になると生活・戦闘など実用的なものに変わるのだといわれます。食器・酒器などの容器、帯金具・耳飾り・冠など金工服飾装身具、盾・靱・鏃・刀・甲冑などの武器類、轡・鐙・鞍などの馬具類などに変わっているというわけです。

 こうした変化をいかに解釈するか。江上氏は、こうした「突然変異的な変容」は「その社会それ自身の内部的な発展によって生み出されるものでは決してなく、別種の社会形態をもった、別種の人間がそこに移動してきた場合に限って見られる現象です。」と考えられたのです。(「騎馬民族の渡来と倭国の統一」p18、『倭から日本へ』所収)

 歴史を学ぶとき、私たちは思考の枠をもっていると思います。人間は同じことを繰り返したきたとだとか、あるいは社会は進歩するもので生まれ変わって行くとか、様々に考えます。制度や組織はその社会内部の自生的な運動で進歩し発展すると私は考えてきました。しかし、日本列島の歴史は、朝鮮半島や中国の歴史と切り離したところにあるはずがない、と考えるのが自然です。歴史的変化は孤立し完結した社会の生産力の発展といった一元的な理解をして考えていては、解釈できないことを教えてくれます。

 ただここからが問題です。江上氏が考えたのは、これらの変化を支配層そのものが変わったととらえたことです。「突然変異的な変容」があり、それは「騎馬民族の征服」によって説明できるとされたのです。はたして「突然変異的な変容」はあったのか、そしてもしあったとして、それは「別種の社会形態をもった、別種の人間がそこに移動してきた場合に限って見られる現象」であるという解釈だけが答なのか、疑問点が生じてくるわけです。


V【騎馬民族征服王朝説への批判】


 この江上説に対する反論は、登場したころからあったようです。小林行雄氏は、「上代日本における乗馬の風習」(『史林』34-3、1951)において、日本における馬具の出土例を検討し、騎馬の風習は5世紀末以降であり、古墳時代前期と後期の文化の移行は漸進的であるとされたのです。最初に紹介した佐原真『騎馬民族は来なかった』にはかなりきびしく江上説批判が展開されたことは記憶に新しいことです。この本のあとがきで佐原氏は、騎馬民族征服王朝説はまちがっていると主張し、「根絶」し「否定」することが「社会的責任」だ、とまで書いています。
 
 江上・佐原両氏による『騎馬民族は来た!?来ない!?』(小学館、1990)を読んでみますと、江上氏「たとえば中国人は中国料理以外食わないんだ。中国人にカレーライスを食えと言ったって食わないんだ。日本人は食うけれども。」「きっすいの農耕民族というのは固定しているんです」(p125)のあるいは、「要するに騎馬民族というのは、遊牧をしているときから、頭脳の民族だったってこと」(p128)といった発言があり、佐原氏がそれは、農耕民には知能がないと言っているのだと江上説の差別性を指摘しているのです。
「「知能」という言い方は、「騎馬民族的な頭の使い方」とおっしゃっていただいた方がよいと思います。そうしないと、農耕民あるいは狩猟民に対する差別的な表現になりますから。農耕民も狩猟民も頭を使っているのですから。」(p118)と佐原氏はきりかえしています。

 『歴史の旅』(秋田書店)1994年12月号が『騎馬民族征服王朝はなかった』という特集を組んでいます。巻頭論文「騎馬民族征服王朝説の虚像と実像」で鈴木靖民氏は説の成立と批判説を紹介し、「学問の進歩や苦悩・反省と無縁の騎馬民族説は大いに疑問とせざるをえない。」と書いています。「論証は必ずしも体系的でなく、断片的でおおざっぱ過ぎる。」とこれまたかなり手厳しい批評です。さらに佐原氏のいう「侵略や差別の思想に通じる伝説を否定し根絶することが現代に生きる研究者の社会的責任」との文章を紹介し、「ではそれと違った真の歴史像をどう提供するか。市民の歴史認識・歴史観形成の問題として、研究者の責務を痛感させることは佐原氏に同じである。」とも書かれています。

 江上氏の説を肯定する立場をとっているのは奥野正男氏です。『歴史の旅』の特集号に書かれた氏の文章を引用します。岡内三真氏、穴沢和光氏そして佐原氏の批判への答えを記したのちの文章です。
「江上説にコッシナ学説の影響を指摘するのはまだ学問研究の自由に属しますが、具体的な著述や行動もない学者にコッシナと同じ思想だとして「侵略主義」だとか「差別主義」などのレッテルを貼るのは、一種の魔女裁判のようなものです。」(コッシナ学説とは、ドイツ民族主義の立場からゲルマン民族の優位性を考古学的に示そうとした説のようです。)

 かなり激しい議論の背景を想像させます。肝腎の江上氏は、佐原氏をして「融通無碍」と表したほど屈託なく、説を変化させておられるようにも思います。騎馬民族の特質が、自らの文化に固執することなく、新天地の文化を受け容れることにあるとされることを、実践されておられるのでしょうか。

 江上説の批判者の一人、岡内三真氏の言葉もまた厳しいものです。

「この仮説は、現代では通用しなくなった戦前の喜田貞吉の「日鮮両民族同源論」を基礎にして、戦前・昭和初期の歴史教育を受けて北京に留学し、軍隊の庇護の下に中国東北地区を闊歩した江上流の資料収集法と旧式研究法に基づいている。無意識に吐露する現代論や人間感にはアジアの人々の心を逆なでするような言葉が含まれる。」

 前述した「日鮮両民族同源論」にふれています。江上氏も戦前の理論の継承者であることをはばからないのも不思議ですが、攻撃に近い批判の激しさも気になります。なぜなのか多少詮索もしたくなります。

W【騎馬民族征服王朝説を批判的に継承】


 激しい言葉を投げつけ、騎馬民族征服王朝説を批判することは学界の方々には意味があるのかもしれません。私たち古代を学ぶ市民にはその必要はないと思います。

 「四、五世紀の日本列島には、国家とか民族といった概念がまだ生まれていない。したがって、土着の人びとは「隣ムラから珍しい技術を持ってやってきた人びと」といった程度の気持ちで渡来人を迎えいれ、彼らと共生したであろう。」(李進煕・姜在彦『日朝交流史』有斐閣選書、1995)

 私たちが住み暮らすこの国が、渡来の民と先住の民は共存し助け合って作り上げたのだと広開土王碑文の検討をした際にも述べましたが、冷静に古代社会の変遷を展望してみたいです。

 「五世紀以降の古墳文化の表面的な変貌は、列島上の土着の倭(日本)社会が、いろいろな理由で小グループに分かれて次々と大陸から移住してきた渡来人の新しい技術や思想を選択的に受け入れて土着社会の要求に適合させたことで十分説明できるのである。」(穴沢和光・馬目順一「武器・武具と馬具」、『古代を考える 古墳』吉川弘文館、1989、p173)

 桃崎先生の論文「古墳に伴う牛馬供儀の検討―中国東北地方・朝鮮半島・日本列島の事例を比較して」(『古文化談叢』31、1993)を参照します。

 騎馬民族征服王朝説を「賛否双方の見地から極東地域の騎馬文化解明が意欲的に進められた学史的経緯がある」と評価し、しかし古墳殉葬牛馬問題が騎馬民族征服王朝説とからむと「理性的とはいえない姿勢」が理解を阻んでいるとも指摘しておられます。なぜなら「牛馬供儀の存在は征服王朝を傍証するものでもないし」また、日本に「殉葬や犠牲は少ない」という説は「俗信」であると述べています。含蓄がある表現ですので、じっくり考えましょう。

 江上説を評価して次の点を指摘しています。
 @牛馬供犠が騎馬文化の一環として受容された。
 A江上説では、後期古墳時代、「騎馬常習民族」が馬を伴なって多数渡来したとされるが、「騎馬常習民族」を 「馬匹飼育の専門知識を有する技術集団」と表現することで近い表現となる。
 B後期古墳の分布地域が「騎馬常習民族」に多いとする江上氏の指摘には「牧地及び騎馬常習民族」といいかえれば当てはまる。
 江上説の問題点は・・・・・「いくつかの骨子自体は、決して荒唐無稽の怪説なのではない。問題はそれが征服王朝論の傍証資料へと飛躍する点である。」(p114)とくぎをさしています。

 このように冷静な立場で検討するのが前向きだと思います。一方的に批判するとか、単純に継承するとかではなく批判的継承することはできないのでしょうか。

 穴沢和光・馬目順一「武器・武具と馬具」を再び取り上げます。征服ではなくゆるやかな文化接触の結果北方民族文化が伝わったと主張されておられます。江上説の批判者ではありますが、私は建設的提言として尊重できると考えます。ここで、藤ノ木古墳の金銅製馬具セットが示した、国際性に注目されています。この「金ピカ文化」は流行であったようですが、源流をたずねていくと、遊牧騎馬民族の文化との接点が見つかるようです。

 「金ピカ文化の伝播と受容の過程は、およそつぎのようなコースをたどったものと推測される。まず少数の精巧な品が舶載され、大王宮廷や大陸にコネのある有力な地方首長などの限られたエリートの威信財として歓迎される。つぎに主に畿内に定住した渡来工人やその技術を模倣した土着の倭人の工房で舶載品のコピー生産が開始される。…・」(p187)

 このように段階的に緩やかな文化受容がおこったとすれば大陸の戦乱の直接的影響を受けなかったこの国についてあらためて考えてみることが必要だと思います。
 馬具革命が@鏡板及び引手付き轡の出現(三世紀ごろ)、鐙の考案(四世紀初頭)A鐙が左右に吊される(五世紀前半)B後輪傾斜鞍の出現(六世紀初頭)の3段階だと、穴沢和光・馬目順一「武器・武具と馬具」には書かれています。これらの変化を日本列島でどのように受容されたのかを検討するのは意義のあることだと思います。このように騎馬文化の受容のプロセスを検討してみることが大事なのでしょう。

<風返稲荷山古墳出土の馬具(霞ヶ浦町郷土資料館パネル)>