2002.3.24  ByT

「葛城氏」ってなに? 
  
 葛城氏に興味があって機会があれば一度訪れてみたいと思っていました。当時「氏」は成立していないと思われますので「葛城氏」とするのは仮の呼称と私は考えております。

 5世紀、倭の五王の時代に大和南部、葛城・金剛山麓を本拠とした集団があり、その首長は「ソツヒコ」を実在の祖先としていたことを井上光貞氏は述べておられます。

 記紀は雄略の即位を葛城系の皇子の滅亡と関連付けています。葛城はのちの蘇我氏のように「天皇」の外戚と意味付けられているのです。

 

 御所市は一昨年、鴨都波1号墳からの4面の三角縁神獣鏡出土で話題になりました。これは4世紀代の古墳ですから「葛城氏滅亡」以前の首長墓といえるものだったのかもしれません。

 

 当時もその地を見てみたいと思ったものでしたが、たまたま今回は運良く巨勢山古墳群の現地説明会の当日は奈良に滞在中であったのです。木炭木槨墓が出土した巨勢山室古墓は平安初期(桓武朝、9世紀初頭)、巨大石室・家形石棺で話題の條ウル神古墳は6世紀後葉の築造とされています。(説明資料によります)

 

 網干先生が到着されてお話されたことで印象深く感じたのは、葛城・蘇我・巨勢といっても同じ系統の人々だ(メモをとっておりませんので正確ではありません)とおっしゃったことでした。
私なりに解釈すれば、現地に根を張った人々がこの地と共に生きてきた、ということではないでしょうか。
史書は葛城の滅亡を伝え、あるいは蘇我の出自の地であることを謳い、また新興の巨勢氏を歴史の舞台に登場させていますが、こうした墳墓のありようは首長の交代劇を何度となく経験しながらも、地に根ざした人々の豊かな生き方をはぐくんだことをおしえてくれます。