その3【4世紀〜5世紀の朝鮮半島】

 広開土王碑が建てられた時代を、私たちは意外と知らないのではないでしょうか。 朝鮮半島にはさまざまの勢力が政治的な権力の確立に向け動いていた時代です。 整理しきれないほどの動きですが、とりあえず見ておくことにします。

 おなじみの邪馬台国論争は、3世紀前半の倭国の話題ですが、邪馬台国論争の対象となる時期以後の東アジアの歴史を概観することになるわけです。

吉田晶著『七支刀の謎を解く』より


 まず中国です。 卑弥呼の遣使でお馴染みの三国時代の覇者・魏は後に司馬氏の晋に帝位を譲ります。 その晋が3世紀後半には中国を統一したのですが、その支配は決して安定したものではなかったようです。 中国王朝の混乱し政治体制が不安定になることで、朝鮮半島情勢も流動化します。 313年には高句麗が楽浪郡を滅ぼし、さらに316年には晋は匈奴によって滅亡してしまうのです。 北方騎馬民族の建国も含む五胡十六国時代の始まりです。 そのうち鮮卑族の慕容氏は高句麗にとっても脅威となった存在でした。 慕容氏はのちに前燕を建国します。

 そこで次に高句麗に目を転じます。 楽浪郡を滅ぼしたのは美川王時代ですが、その子の故国原王の時代には慕容氏に敗北を余儀なくされたのです。 ところがその慕容氏は、370年前秦に滅ぼされます。 めまぐるしい勢力交替の時代ですね。 こうして西方の脅威が取り除かれた高句麗が南方に進出し始めるのはそれからのことになります。 もっとも燕はすぐに再興され、後燕となり広開土王と外交関係を結びますのでややこしいです。

 故国原王は広開土王の祖父にあたるのですが、371年百済の近肖古王の攻撃の前に戦死してしまいます。 しかし、その報復に高句麗はさらに南進政策をすすめることになります。 次の小獣林王、そして391年即位した広開土王は征服事業を推し進めるのです。 この391年が辛卯年に当たるのですから碑文の「以辛卯年來」を、辛卯年このかた(西嶋定生説)、つまり広開土王の即位以来と読むのは妥当性があると思われます。 この結果、百済は4世紀末にはかえって領土を縮小することになります。

 新羅はどうだったのでしょうか。 382年には前秦に使者を派遣していると伝えられていますが、中国との結びつきはさほど強くなかったようです。 私たちは後の時代、新羅が唐と連合して、倭・百済の連合軍を敗北させた白村江の闘いを知っていますから、不思議に思いますが、むしろ倭との関係を気にしたほうがいいようです。 新羅からの立場に立つと、「倭」からの侵略が絶えずあり、高句麗の援助を求めざるを得なかったこともあるようです。 この軍事的緊張関係はさまざまな提携関係を生み出しますので、外交関係の歴史は一方向から見ていても掴みきれないように思います。

 もう一つ伽耶を忘れてはいけません。 「任那」として広開土王碑文にも登場する地域に関連します。参謀本部が解読した碑文の「任那」は政治的利用された過去をもっていますので、慎重に言葉を選び書いています。 任那=伽耶ともいいきれません。 また3世紀の朝鮮半島に馬韓・辰韓・弁辰の三韓がありそのうちの弁辰がのちの伽耶ともいわれます。 しかしそう単純化するのも歴史的ではないようです。 これまで概観してきたように、朝鮮半島における支配領域は、流動化しており、周囲の大国の動静に振りまわされながら、自立を模索し、小国連合を展望していた地域としておきます。 (田中俊明『大加耶連盟の興亡と「任那」』、吉川弘文館、1992年 などを参照しました。)

 駆け足で、書きついできましたが、めまぐるしく諸勢力が活躍します。 活気があるというか、動乱の時代です。 生活する人々には、不安な時代でしょうが、英雄的人物も登場する時代ともいえましょう。広開土王はそのヒーローの一人であったともいえるのでしょう。

 日本列島に住み暮らす私たちには想像しがたい「国家」、「国境」。 どれほどの想像力を駆使しなければならないものでしょうか。

 広開土王碑文に書かれた時代、朝鮮半島の列国と倭の関係が常に気になるところです。 とりわけ倭と関係が深かったと思われるのは百済です。 石上神宮に伝来の七支刀銘文の解釈を考えてみます。 解釈次第では時代が異なることとなる史料ですが、4世紀の史料として理解し、釈文と解釈を掲げます。

 (吉田晶『七支刀の謎を解く』新日本出版社、2001年 から引用させていただきました。アンダーラインを附した文字は吉田氏が他の釈文可能とされ、ご著書では□の中に文字を入れられておられますが、このWeb上では表示できませんので、□の代りに表示したものです。 なお上述の、新羅と倭の関係についても吉田氏の研究に負っています。 この新著をテーマにした講演を拝聴しました。上記地図も同書から引用しました。)

 《表面》  泰四年十月十六日丙午正陽造百練七支刀辟百兵宜供供侯王□□□□)  

 意訳:泰和4年(369年)11月16日、丙午(刀剣を造るのによい日)と正陽(よい時刻)をえらんで、よく鍛えた鉄で 七支刀を造った。この刀はあらゆる兵器による災害をさけることができ、礼儀正しい侯王が所持するのに相応し いものである。□□□□ の作ったものである (所持者は大きな祥(さいわい)を得ることができる)

 《裏面》  先世以来未有此刀百済王世奇生聖音故為倭王旨造伝示後世

 意訳:先世以来、このような刀は無かった。 百済王(近肖古王)の世子(近仇首王)である私は、神明の加護を 受けて現在に至っている。そこで倭王の為に(この刀を)精巧に造らせた。(この七支刀が)末永く後世に伝えら   れることを期待する。

 百済と倭の置かれた時代的環境は、結束を固めさせる必要を要求したのです。 誓いの表現がこの変わった刀です。 よく今日まで゙伝承されたものだと感心します。  七支刀からも、広開土王碑文にあらわされた高句麗の領土拡張時代の歴史的背景が、読み取れるわけですね。

 ところで、こうした朝鮮半島における戦乱は、日本列島に多くの渡来の人々を定着させる事にもなったようです。

 広開土王碑の記述に拠れば、永楽10年(400年)王は新羅救援のため五万の兵を派遣し、新羅・任那加羅になどに進み倭を退却させ、また安羅人を撃った、とあります。 高句麗の軍は倭兵を追って、加羅にまですすんできたようです。 加羅の人々は難を逃れて日本列島へ渡ったとしても不思議ではないでしょう。 朝鮮半島の戦乱を理解することなしには、日本の古代を考えることができないわけです。

 5世紀は倭の五王の時代になります。 倭の王権が南朝の宋に朝貢したより前に、百済は東晋にすでに朝貢した事実が知られています。 倭の王権は百済と競うように、朝鮮半島における支配権を求めています。 ただし高句麗にはさすがに手が出なかったようです。 ともあれ広開土王碑が示す朝鮮半島における軍事的興亡は、私達に人々の営みのきびしさをも教えてくれるのです。

 碑文の改竄をめぐる話題は、日本列島の歴史をも問い直しているのです。 広開土王碑は近代になってからも政治的にも利用されたわけですから、次に参謀本部による解読作業との関連も検討してみます。

 その4 【参謀本部と広開土王碑】

 戦後世代の私には、体験上でよく理解できないのは軍隊という存在です。 現行憲法の下ではわが国は、戦力を保持しないわけですから常設の軍隊は、存在していないのがたてまえですから、かろうじて自衛隊が、軍隊についてのイメージを彷彿させてくれる存在といえます。

 ところが明治新政府に始まる日本の近代社会は、あからさまに軍事優先が貫徹した時代でもあったといえるのではないでしょうか。 歴史を学んでみると痛感させられます。 日清戦争に始まる対外戦争の勝利・内政干渉による挫折はさらに次の戦いを生んだのではなかったでしょうか。 エスカレートした戦意高揚は愛国心を育てたのでしょうが、戦争は荒廃した精神も生んだのではないでしょうか。

 古代の社会を概観してみますと、日本列島に孤立して王権は確立できなかったことを知ります。 それにひきかえ、近代の戦争が生み出したアジア諸国の民を見下し屈服させていったような排外主義は、この国の歴史になぜかなじめないあり方なのだと思うものです。 (もちろん秀吉による朝鮮半島の人々への攻撃などの歴史も忘れることは出来ませんが、侵略の傷跡を家康以降の朝鮮通信使との交流を通じて回復に努めようとしたのも歴史です。)

 さて参謀本部について考えます。 明治11年(1878)、陸軍省の外局であった参謀局を廃止して設置されました。 参謀本部は、陸軍の軍令を管掌する機関でした。 いいかえるならば戦略・戦術を立案するのが仕事です。 軍令とは、作戦用兵にかかわる天皇の命令を指している言葉です。

 今日の常識ではなかなか理解しがたいのですが、天皇の命令を天皇に成り代わって出す機関ということになるのではないでしょうか。 しかも内閣・国務大臣とは独立してですことが出来たというのです。 出きることなら、有識者の集団であってほしいものですし、シビリアンコントロールがはたらかねばならないと今日では考えます。

 明治新政府は天皇を頂点とする軍事機構を作り上げたのですが、実態は統帥権の名の下に軍部の一部が独走できる状況があったわけです。 ここに歴史上の人物として山県有朋が登場します。 佐賀の乱・西南戦争といった士族反乱を乗り越え日本陸軍の創設に重きをなしたことで知られます。

 山県は明治4年(1871)、西郷従道らとともに「軍部意見書」を時の政府に提出、ロシアの脅威を訴え大掛かりな軍備建設の必要を訴えたのです。 膨張主義の先鞭をつけた行動だといえましょう。 明治11年の参謀本部設置は桂太郎によって建議され条例制定が実現されたのですが、山県の意向が反映されているといわれます。 山県は、情報政治によって国政を牛耳った人物でした。(@大江志乃夫『日本の参謀本部』中公新書、1985年 A山田朗『軍備拡張の近代史』吉川弘文館、1997年など参照しました。)

 ですから、こうして設置された参謀本部の仕事はといえば、つまりスパイ活動ということになります。スパイ(密偵)の任務は、隣国の情勢を審らかにし、将来の戦争に役立てようとすることにあった、といいます。 明治初年からその活動は行われており、陸軍将校がその任に当たっていたようです。その一人が酒匂景信です。 広開土王の碑文をもたらしたのは明治17年(1884)、かなり強引な手段で拓本を手に入れたようです。 この年はまさに日清戦争が始まった年です。 このつながりを考えることなしに、広開土王碑文の検討はあってはならないのです。最初の問題に立ち返ることになります。

 ロシアが、中国東北部(満州)から朝鮮半島に進出するのに対抗してみずからの権益とその地に逆に進出して行ったのが、山県らの考えたことです。 日清戦争前後の朝鮮への政治関与は度を越しています。1894朝鮮王宮占領、三国干渉後の1895 王妃閔妃虐殺などは私たちの想像を絶する犯罪です。 戦争とは人間の尊厳と相反するものだと強く感じます。(中塚明氏の次の著書を参照しました。@『近代日本の朝鮮認識』研文出版、1993年 A『歴史の偽造をただす』高文研、1997年)

 中塚明氏が提起し、李進煕氏が碑文の検討を通じて伝えようとしたことは何だったのでしょう。あらためて自らに問いかけています。

 学問が政治に従属した時代の研究を、日本の歴史学そのまま引き継いではいないか、を問い直したのです。 ですから改竄があったか、否かを論じたわけではなかったのだと思います。 

 参謀本部がいかなる存在であったか、と考えますと、碑文の改竄があってもおかしくないのです。参謀本部主導の研究はそういうものなのです。 目的は戦争作戦の指導です。 私は、研究が原石拓本の検討により碑文のより精緻な分析がされることを歓迎します。 しかし建碑されてからの年月は、これほどの歴史史料を改竄(石灰塗布)から免れさせなかったことも事実なのです。 直接参謀本部が関与しなかったとしても、その意向が、石灰文字に反映していない、とは断定できないでしょう。

 李氏の投げかけた問いは今でも重いと、考えています。 碑文を無批判に根本史料とし、それによりゆがんだ歴史像を私たちが学んだことがあったことも事実です。 これからは日本における古代国家成立過程を、中国・朝鮮半島の揺れ動く歴史を重ね合わせて学ぶことが大事だと思うようになりました。 しかも文献・金石・遺跡さまざまな史料の重層的な検討を通じてです。 疑問を持ったら、目をつぶらず積極的に問いかける姿勢を失ってはいけないのでしょう。

「四、五世紀の日本列島には、国家とか民族といった概念がまだ生まれていない。したがって、土着の人びとは「隣ムラから珍しい技術を持ってやってきた人びと」といった程度の気持ちで渡来人を迎えいれ、彼らと共生したであろう。」(李進煕・姜在彦『日朝交流史』有斐閣選書、1995年、p44)
 私たちが住み暮らすこの国は、渡来の民と先住の民は共存し助け合って作り上げたのだと思います。

 そして、その子孫が私たちです。

(完)