2000年 5月3-5日 By.ゆみ

 

「一遍聖絵」の世界・熊野古道を歩く

 「最近、山やってる?」旧友からの年賀状の一言。
 そういえば北アルプスや上越国境縦走なんてもう記憶のかなた。
 名のある山行きは、1998年の鳥海山や1999年の早池峰でストップのままだ。
 「もっぱら古道や城跡を歩いています。」と私の答え。

 古道を歩くことの楽しさを知ったのは、十年ほど前、「塩の道」白馬村から南小谷まで千国街道を歩いたころだろうか。
 峠の祠、伝説の岩や巨木、石畳の坂や石仏、道標、そこには車のなかった時代の人の営みと心が残っている。
 そのアップダウンの山道を、荷を背負い汗を長し、ひたすら十数キロで歩き通すことに、体で歴史を追体験する感動があった。

 2000年5月、念願の熊野古道を訪ねた。
 信仰の地、いにしえ人憧れの熊野への道は、伊勢などに比べはるかに苦難の多い道だったという。
 この道を10〜13世紀、院政時代から鎌倉中期まで上皇貴族の百回におよぶ熊野御幸が続く。
 大阪の窪津王子から熊野三社まで、熊野権現の御子神をまつる九十九王子を巡拝しながらの参詣であった。
 この険しい山道は中世の「一遍聖絵」にもその景観が克明に描写されている。

 ほんの少しでもいいから、その山道をたどってみよう。
 私は1日目に滝尻王子〜高原熊野神社〜栗栖川約6キロ、2日目に牛馬童子口〜継桜王子約6キロの中辺路コースと、本宮〜湯峰温泉2キロの大日越えコースを歩くこととした。

  朝、羽田をJASで飛び立つと、南紀白浜空港から特急バスで11時には滝尻に着く。
 ここは神籠る山から流れ出る冨田川でいにしえ人が身を浄めた聖山の入口、滝尻王子を拝してから王子社の裏の急坂をいっきに登る。

 一部石を敷いた坂もあるが、杉林に入ると網目状に地を這った木の根が足がかりになる。

 やがて胎内くぐりなど修験の岩くらを経て、剣山山頂を通る尾根道へ出た。
 ハイキングコースのように明るくのどかな山道だ。
 経塚・針地蔵・夫婦地蔵や深い谷を青山がおりなす展望を楽しみながら、2時間ほどで高原熊野神社に着いた。
 楠の巨木のもとにたたずむ美しく可憐な桧皮葺の社殿は、室町時代の創建時の様式を伝えるという。

 

 「きみいてら」の道標や「青面金剛」碑もあるここは峠の分かれ道。
 「霧の里」休憩所の向うには700mの悪四郎山を経る健脚向きの古道が続くが、私は今日の宿、栗栖川の町へ降りることとした。
 この先の近露の宿がGWのため、山好きのグループからの予約でいっぱいだったからだ。

 近世の旧街道に面した「きけうや」という昔の旅篭のような旅館に早々と着き、一休みしてから富田川の川辺に出てみた。
 岸辺には藤の花が木々に色を添え、澄んだ水が足元に広がる。
 暮れなずむ空を見ると、鷹のような大きな鳥がゆうゆうと舞っていた。
 観光客も車もなく、文字通り「山紫水明」の秘境のようであった。

 翌日、早朝のバスで近露にむかう。
 7時前に牛馬童子口着。
 ここから継桜王子までの道は古道歩きでもっとも人気あるコース。
 朝もやの杉林に日の光がさしはじめた静寂な古道を行くと、箸折の宝筺印塔のもとに花山法皇の旅姿という牛馬童子の石像がある。
 さすがまだ人気は無い。

 


 日置川のほとりの近露王子に下り、明るい近露の里道を行く。
 「太平記」の逸話の主、大塔の宮を助けた野長瀬一族の墓所などを経て、道はまた尾根筋へと上がり、やがて千年杉が林立する継桜王子に至る。
 巨木の枝が那智の方向南へだけ伸びていることから「野中の一方杉」という。

 「紀伊」とは「木」のこと、鬱蒼たる森の世界というのが以前の姿だったのだらうが、近代からの伐採の犠牲で今は若木が多い。
 一方杉の巨木がかろうじて残ったのは、南方熊楠の心血をそそいだ伐採中止のはたらきかけのたまものだった。
 この杉のもとで、紀伊の名物高菜で包んだ「めばりおにぎり」の昼食をとり、はるか下の新道まで降りて、本宮行きのバスを待った。

 本宮はやはり参拝客や車が多い。
 静寂の中からいきなりにぎやかな門前にでて私はたじろいだ。
 神域に近づいていく過程を味わうためには、継桜から本宮まで数時間の山越えをすればよかったのだらう。
 味気ない新道を横着にバスで移動したせいか、ゴールへの感激は人波への疲れとなって出てしまった。

 熊野の象徴、三本足の烏の意匠が本宮のそこここにめだつ。
 社殿の前で座して祝詞をあげる講のグループ、赤子の初参りの家族連れなどに交じって参拝し、宝物殿を見学した後、リュックを茶店に預けて、旧社地の大斎原に向かった。
 ここは明治22年の十津川台風で流されるまで本宮の旧社殿があった中洲だったところ。
 二つの石祠と昔の参道を思わせる大木の並木が若干残っているが、鋼鉄製の日本一の新鳥居がやたらと高くそびえ、青々とした芝生はイベント広場のようであった。

  本宮を去り、再び山道を登って湯の峰に向かう。
 「大日越え」というこの山道は、古代から多くの参詣の貴人たちが湯の峰温泉に湯垢離をとりに通った道である。
 磨り減るほどに歩きこまれた石段を上って振り返ると、熊野川に沿う本宮の町並みと島のような大斎原の杜が眼下に広がっていた。

 9年前、梅原猛脚本の歌舞伎「オグリ」を観て以来、湯の峰は永く私の憧れの地だった。
 照手姫との恋を関東武士の掟に反する無礼とみた照手の一族によって冥界に追われた小栗判官は、今業平といわれたその姿を業病患う無残な姿に変えられて蘇生する。
 「一度引けば百僧供養、二度引けば千僧供養」遊行上人一遍の信仰に帰依する人々の手で病者の乗る土車は熊野をめざす。
 青墓の宿に身を売られた照手も小栗と知らず車を引き、やがて湯の峰で小栗は薬師如来に絶望の淵から救われる。

 熊野修験と一遍上人への信仰、中世の説教節の世界が、この山道と峠の向うの湯の里に残っているにちがいない。

 土の感触が足にやさしい山道は、樹林の中の大日堂を過ぎ、鼻欠地蔵という磨崖仏が奉られている峠を経て下り道となり、やがて湯の峰に着いた。
 湯峰王子社、その下に共同浴場、湯胸薬師を奉る東光寺、さらに湯の谷の川中にある「壷湯」。
 人の賑わいの中には懐かしく落ち着いた旅館が並ぶ。
 そのひとつ「あずまや」に山靴を脱ぎ、古道を歩いた疲れを湯に流した。

 浴衣がけのまま、東光寺や90度で湧出する露天の湯筒へ散策にいく。
 東光寺の薬師堂内では、毘沙門像など優れた仏像を数多く見せていただいた。
 本尊の湯胸薬師は秘仏で拝観できなかったが、湯の花の天然の結晶がその御姿と聞いて興味深かった。

 いつまでも湯筒に卵や筍を茹でに来る人や飲用に湯を汲みに来る人、浴場の順番を待つ人々のさざめきの中、この小さな湯の里の、5月の長い日は暮れていった。

  翌朝も早く起きた。
 「壷湯」入浴の順番札を取ってから、東光寺の開祖が修行した不動の滝や、回復した小栗が力を試した力石などの伝承地を廻る。

 道沿いの崖には「一遍上人爪書の碑」があった。
 本宮での行を行い悲願をたてた一遍上人が「南無阿弥陀仏」の名号を直接崖に刻んだと伝えられている。
 摩滅が著しいので、拓本を採らないよう注意書きがあるが、ちょうど朝日が岩に当り、碑文はよく見ることができた。

 ひたすら救済を求めて熊野へと苦難の道を歩む人々、一遍上人は浄不浄、貴賎を問わずそれらの人に寄り添い、そして救いの道を示した。
 熊野路の旅で私が求めていた「一遍聖絵」の中世の信仰がこの湯の里にあった気がした。


 朝食後、やっと2〜3人づつしか入れない壷湯入浴の順番が回ってきた。
 小栗の病が奇跡的に治癒したという伝承の湯壷は、円く窪んだ天然の岩穴、底からは川の水とほどよい温度に交じり合った湯がこんこんと沸き出でている。
 昔からの姿を保ってきた湯壷、そのまろやかな感触と湯加減を心行くまで楽しんでから、バスで湯の峰を発ち、新宮へと向かった。

  新宮では、駅から近い徐福公園で自転車を借り、熊野速玉大社に参拝してから丹鶴城跡に登った。
 徐福が不老不死の霊薬を求めて渡来したというおだやかな海と、熊野の神々が降り立ったという神倉の山の濃い緑が美しく、皐月晴れの空に映えていた。

 昼過ぎの紀勢線特急で新宮から名古屋へ、さらに新幹線でその日のうちに帰京。
 はるか遠くと思っていた神秘の熊野は、現代の交通アクセスの恩恵で意外に身近なリゾートエリアであった。  ぜいたくが許されるなら、また「一遍聖絵」の深山幽谷の山道を歩いてみたいと思う。