By.ゆみ 2004.4.16
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ツジギリと咳神様データ集

八千代市内の咳神様
1
桑納三叉路の「シャブキバアサン」

道標、墓地のある三叉路
2001年はツジギリをしていた(現在は不明)

「風邪の神様」という

参考文献:『よなもと今昔』13号 1998年

2001.1.19
桑納三叉路

2001.2.3
シャブキバアサンの碑
「咳漱婆之墓」
「昭和10年改装」の銘


2001.2.3
雪の三叉路の道標の前に
置かれたツジギリ
2
米本城跡の「しろぬしさま」
または「シャブキ神様」

元は土取りされた二の丸の虎口横の土塁上にあったが、現在は三の丸土塁上にある。

米本落城の際、隠れていたが咳をして敵に見つかり、殺された老兵の墓石と伝承されている

参考文献:『八千代市の歴史』昭和54年
『八千代市の歴史 資料編 民俗』平成5年

康永三年(1344)銘の
武蔵式板碑

2004.3.28

竹筒が供えられている

2004.3028

左は「あんばさま」
3
高津の咳神様

大和田新田との境の坂の分岐のツジギリの
場所
にあったが、2004年3月初めに撤去、観音堂前に移転された


もう一基石塔があり、観音寺の墓地にかつて移転したが、最近、無縁墓石群の中に整理されて特定できないとのこと

「お姫様が逃げて咳をしてつかまった」
ヘイシロウ家のおばあさん)
「チョウベエの家に働きに来ていた許されぬ仲の男女が、
一緒に逃げようとして咳をして捕まり殺された」
(チョウベイ家のおばあさん)
2004年1月筆者が聞き取り

2004.3.14
「地蔵堂跡」の刻字が見える

2004.3.14
裏面は地蔵像胴体部分だった

2004.1.25
2月に移転する前の咳神様
4
村上の「けんけさま」

元は、下市場との境にあったが、区画整理により
16号線西側ジョイフルホンダ駐車場向かいの墓地に移転


地元ではこの墓石を「けんけ様」と呼び、咳の神様として信仰している
咳の出た人は竹筒にお茶を入れお参りすると咳がなおる
お礼参りに新しい竹筒を1本お供えする


八千代市伝承館木原館長のご教示による

2004.5.1 
「法印権大僧都憲海不生位」
「享保三年二月十七日」

2004.5.1
5
米本下宿東の「すわり地蔵」

米本五差路から墓地へ通じる道の入り口を入ったところ
106cmの地蔵坐像 
子育地蔵として信仰され、咳がひどいときは、お茶を供えるとすぐ治るといわれている

善福寺境内の地蔵とけんかして、背中を切られて負けたため、現在のところに座らせられていると言う伝説がある。

参考文献:「史談八千代」第21号 1996

2004.5.5
背中に「女房衆念仏講同行23人寛文13年・・」の銘

2004.5.5
番外 消えてしまった佐山の咳神様「乞食の墓」

元は佐山のゲートボール場近くの原、馬頭観音のそば
行き倒れの乞食を葬った墓で、竹で作った小さな桶に酒をいれ、供えると咳止めに効いたが、壊されてしまったという
『八千代市の歴史 資料編 民俗』平成5年

八千代市伝承館木原館長のご教示によれば、その後平戸のあさひ霊園に移されたが、無縁塚に整理され、他の墓石と区別できなくなったとのこと
  
左:元あった近くの馬頭観音群とゲートボール場 右:この霊園移されて整理された
佐倉市北部の咳神様
6
先崎の「三五八様」

八千代市の境の先崎鷲神社の向かい
もと神宮寺の正覚寺があった場所
先崎城址に隣接

「じんべいさん宅」の先祖が祭ったとされている

2004.3.26
「俗名佐五八」銘の墓石
表面が削られている

2004.3.26
地蔵石仏や墓石が並ぶ中にある。
7
小竹の「風邪の神様」

小竹城址の近く出羽三山塚の右横

参考文献:『志津の史跡と名所』宮武幸吉 平成12年
2004.3.26

2004.3.26
8
青菅の「しゃびき婆さん」

青菅小学校奥の墓地内
咳を治す功徳のある仏として崇められてきた
尼の堂守りだというがなぜ観世音として祀られたかは不明
墓地入り口向かいには馬頭観音がある


参考文献:『志津の史跡と名所』 宮武幸吉 平成12年

高さ11cm
「天明三年」の銘

2004.5.3
9
下志津の「ちゃぶくばあさん」

上峠城址に隣接した畑の中の榎
今でも子どもの風邪に効くらしい
盆と暮れにはお茶と黄粉とお米をあげる


参考文献:『志津の史跡と名所』 宮武幸吉 平成12年

2004.4.11
竹筒をつるす

2004.4.11
芽吹きのころの咳神のやどる榎
10
上座の咳神様

臼井城大手近くの手繰橋の西側
上座公園入り口付近


八千代市郷土歴史研究会天野会員のご教示による

2004.4.11
11
臼井田の「おたつ様」

臼井城跡から東南へ500m
臼井城主であった臼井祐胤の死後、後見人の叔父、志津胤氏によって竹若丸の殺害が企てられた時、乳母阿多津が竹若丸を助けて鎌倉に逃がしたが、阿多津は胤氏の配下の者に追われ、印旛沼ほとりの葦原に一時隠れ、咳をしたために捕らわれて殺害された。
村人はこれを哀れみ、祠を建立し、阿多津を祀ったといいます。


参考HP:「佐倉市の文化財−有形民俗文化財」

2004.3.26
右の延享4年(1747)造立の石祠

2004.3.26
12
土浮の「おわばさま」(風邪の神様)

「草ぶえの丘」前の「市民の森」内

姫が男を好きになったが身分違いから許されず、男を連れて東国に逃れ、この地で咳をして見つかり追っ手に殺された。
村人が哀れに思い、風邪の神様として祀った。
風邪をひくとお茶とむぎこがしを持ってお参りした


参考文献:『佐倉市史研究』第2号昭和59

2004.5.3
「即夢休心信士/即如妙心信女」の戒名がある
覗くと虫がいっぱいいた

2004.5.3
佐倉と土浮を結ぶ旧道から見える「おわばさま」の祠

手水石
土浮の念仏講によって
拝まれてきたらしい
13
大蛇町の「粟切り婆さんの墓」

大蛇町の全農家畜衛生研究所敷地内

「粟切り婆さんは、他人の粟を切り取り、潜んでいる時、咳をして捕らえられ、お咎めをこうむった。
いつの頃からか、その墓に咳の平癒を祈るとよく治った。
お礼に竹筒に茶を注ぎ供えたという」(大蛇町の一古老)

墓石の所在は転々として家畜衛生研究所の近くにあったが、懇願して研究所の敷地内に安置してもらったという。

2004.5.3

2004.5.3
北総近隣の咳神様
14
市川市国分の「腹切りさま」

国分寺裏の坂の途中
昔酒に酔った武士が切腹したお墓と伝承


参考文献:『いちかわ民俗誌』 萩原法子 昭和60年

2003.6.21

2003.6.21
NEW
15
市川市下貝塚の「こんこんのんのんさま」

大野との境、今は住宅街だが、以前は山だった。
咳に苦しんでのたれ死んだ流浪の老人が、祀ってくれるよう夢知らせをしたという。


参考文献:『いちかわ民俗誌』 萩原法子 昭和60年

2004.10.8

2004.10.8
16
千葉市大井戸の「姥の墓」

大井戸町(若葉区)大宮神社北の茶畑の中
「城(大井戸館址)にいた姥の墓」で 「咳の神様、風邪の神さま、足の神さまと云われて、具合の悪くなった人に信仰されている。
治ったら、甘酒をあげる。」


参考HP:大井戸館と姥の墓」 千葉市の遺跡を歩く会)

2004.5.3
中世五輪塔の空風輪と武蔵式板碑の残欠が祀られている

2004.5.3
板碑の銘文は不明だが、梵字が刻まれているようだ

2004.5.3
今は茶畑の中、
かつては塚があったらしい
17
千葉市幕張町堂の山の「かぜひき地蔵」

幕張本郷との境「堂の山」墓地内
平成13年3月まで「大日堂」があった場所。
地元では「風邪をひいたときお祈りすると、風邪が治る」とのこと
地蔵像は大日堂の住職の像だという説もある(『幕張郷土誌』)

境内入り口には文政期の関脇・荒馬紋蔵の供養碑がある。

参考HP:「大須賀山(堂ノ山)」  千葉市の遺跡を歩く会)

2004.5.9

2004.5.9
お茶やペットボトルが供えてある
その他県外の咳神様
18
墨田区向島の弘福寺「咳の爺婆尊」

向島5−3−2弘福寺境内

寺伝では、相州真鶴山中の洞穴内に風外和尚(寛永年間の禅僧)が刻んだ父母像で、小田原城主稲葉正則公が自邸に請い受けて祀り、転封に際して弘福寺に寄贈した。左の大きな方がおばあさん。
「風外」の字から風除けのご利益が信仰されたという(住職談)


「築地二丁目の稲葉対馬守の中屋敷にも、有名な咳の婆さんがあって、百日咳など児童の親は、お屋敷のうちへその石をおがみに入った。
もとは老女の形に似た二尺余りの天然石だった。
いつのころよりか、彫刻した石の像になって、爺さんの像と二つそろっていた。
婆さんの方は柔和で小さく、爺さんは大きくて恐ろしい顔をしていた。
両人は仲が悪く、引きはなして別々にしてあった。
明治時代に行くえ不明になっていたが、のちに弘福寺へひっこしていた。
もうその時には喧嘩しないようになって二人仲よくならんでいた。」
(柳田国男『日本の伝説』(昭和4年)「咳のおば様」の要旨

2004.5.8
寺伝では、左が婆
柳田国男著書では右が婆



19
新宿区内藤新宿の正受院「子育て老婆尊」(奪衣婆尊)

新宿区新宿2-15-20正受院境内

木造で像高70センチ。片膝を立て、右手に衣を握った奪衣婆の坐像で、頭から肩にかけて頭巾状に綿を被っているため「綿のおばば」とも呼ばれる。本像は咳止めに霊験があるとして、幕末の嘉永二年(1849)頃大変はやり、江戸中から参詣人をあつめ、錦絵の題材にもなっている。
当時、綿は咳止めのお札参りに奉納したと伝えられる。
本像は小野 篁の作であるとの伝承があり、また、田安家所蔵のものを同家と縁のある正受院に奉納したとも伝えられる。
像底のはめ込み板には「元禄十四年辛巳年奉為当山第七世念蓮社順誉選廊代再興者也七月十日」と墨書きされており、元禄年間から正受院に安置されていたことがわかる。
(新宿区教育委員会の現地説明板)

2004.7.12
綿を被った子育て老婆尊

2004.7.12


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