火山のくに鹿児島では、火山層の下から、「東高西低の縄文文化」という常識がくつがえる遺跡の発見が最近相次いでいる。
1997年上野原遺跡発見が報道された時、北の三内丸山に対して南にも縄文の村があったのかという程度の思いしかなかった。
それが1998年春、鹿児島県立埋蔵文化センターの新東晃一先生の講演でお聴きした「上野原遺跡は9500年前から7500年前にかかるムラの遺構で、6400年前の鬼界カルデラ大爆発により壊滅するまで、鹿児島県では旧石器時代から縄文草創期・早期へつながる独自の縄文文化が栄えていた」という考古学上の新事実は私にとってたいへんな驚きであった。
今回「東アジアの古代文化を考える会」からのお誘いで、新東先生のご案内という3泊4日の鹿児島遺跡見学会に参加できた旅の感激を書き留めておきたいと思う。
@ もっとも早い縄文のムラ・上野原と冬の生活拠点「掃除山遺跡」
1999年4月15日(木)鹿児島空港から鹿児島神社に寄り、国分市から錦江湾を望むシラス台地に上がった上野原テクノパーク用地内に復元された「上野原遺跡」があった。
ここから52軒の竪穴住居跡とそれをつなぐ道のほか、たくさんの石蒸し料理用の集石遺構や燻製加工のための連結土坑、そして口が四角と丸の対の壷、径12cmの土製ピアス、土偶が発見された。
一般に壷型土器とピアス式耳飾・土偶の出現は縄文文化が最も成熟した縄文後期(3500年前)であるが、ここではさらに4000年も早く成期の縄文文化を花開かせていたのであった。
上野原出土の遺物は上野原遺跡展示館のほか姶良町の「鹿児島県埋蔵文化財センター」でも公開している。
1998年6月に重要文化財に指定された口が四角と丸の一対の壷は、センターの展示ロビーのガラスケース内に納まっていた。
弥生の壷と見まがうようなスタイルの大な壷で、7500年まえの平栫式縄文土器とは驚きであった。
「縄文の壷」が認められたのは、ここ10年前ぐらいから、火山層と土器編年が丁寧に調査されるようになってからである。
それまでは南九州で時折発見される壷も、大正漆野原出土の完形の壷も誤って「弥生の壷」とされていたそうだ。
掃除山遺跡は指宿スカイラインにアクセスする県道工事で見つかった最古の定住跡。
なだらかな南斜12000年前の面に竪穴住居跡2軒、炉穴や配石炉などがあこの当時の生活を「鹿児島市立ふるさと考古歴史館」の巨大なジオラマで見ることができた。
ここで出土した石皿は重さ30kg、とうてい移動生活には向かないという解説はなるほどと思った。
A 種子島へ渡る
翌日ジェットフォイルで種子島へ渡った。
種子島は鉄砲伝来と島の南端茎永の宇宙センターで有名だが、最近は島内の「立切遺跡」から三万年以上まえの旧石器時代の生活跡と9000年前の縄文土器などが発掘され、考古学上一躍脚光を浴びている。
特に旧石器時代の生活跡は「土抗」「焼土」「れき群」「石器」の4点セットで出土、木の実を穴に貯蔵し、すり石やたたき石で加工、れき石で調理した跡は、一定期間定着した生活をものがたるという。
これらの遺物は前日、鹿児島県埋蔵文化財センターの作業室で見たので、この日は西表市鉄砲館と中種子島町歴史民俗資料館、たねがしま赤米館、宇宙科学技術館の見学のほか、もっぱら美しい海岸の風景と、古代より赤米お田植の神事が伝えられる宝満神社とその周辺のたたずまいを鑑賞した。
宇宙センターからの帰路、小さな浜辺でバスを降りた。
弥生時代の「広田遺跡」である。
昭和32〜34年、金関丈夫氏らの発掘でこの砂丘の崖から最古の文字「山」の字が彫刻された貝札が見つかったほか、たくさんの人骨と貝製の副葬品が出土した所だという。
右手の岬の向うにロケット発射場が見える。
悠久の歴史が未来につながっているかのように、おだやかな波が打ち寄せる海辺であった。
B 最古の大型土器と対面
3日目は薩摩半島の遺跡を見ながら、指宿に出てフェリーで大隈半島側に渡る日程であった。
まず加世田市郷土資料館で、「栫ノ原遺跡」の出土品を見る。
栫ノ原は掃除山遺跡と同時代の夏の生活拠点と考察されている遺跡で、南九州と南島に特有の丸ノミ型石斧が丸木舟を作り操った海洋民文化の到来を教えてくれていた。
続いて加世田市文化財センターへ。
ここで去年志風頭で出土し補修を終えたばかりの隆帯文土器を間近に見せていただいた。
12000年前の燻製加工用の炉穴に据えられたまま8割以上残存して掘り出された直径50cmもの最古の大鉢である。
数センチの土器片しか発見されていない土器発生期のこの時代の遺物としては、まれに見る保存状態。
その口と胴に施された粘土紐の装飾に、とほうもない大昔のある日、この器を一生懸命作った人の思いとその息吹が時空を超えて伝わってくる不思議な新鮮さがあった。
C 「知覧ミュージアム」と「CoCCoはしむれ」
中世近世の武家の暮らしが感じられる知覧のまち、また特攻基地より帰らぬ出撃をした戦友を偲ぶ旅行者の多いまちという。
「知覧ミュージアム」はそんなまちにできた新しい博物館で、展示のスタイルは佐倉の国立歴史民俗博物館に似ている。
一方「CoCCoはしむれ」は指宿市立の考古博物館。
開聞岳の千年毎4回の噴火で火山灰の下に埋もれた橋牟礼遺跡は、大正時代に浜田耕作氏が縄文・弥生の土器編年を層位学的に実証した考古学史上有名な史跡という。
ことに1200年前の噴火の災害を受けた「隼人」のむらを詳細に再現し、昔の暮らしだけでなく火山災害のこわさをおしえていた。
D「海の道」に思う
南九州の縄文草創期は丸ノミ型石斧という独自の石器と隆帯文土器からスタートし、早期は貝殻文様の平底の円筒か四角の角筒といったユニークな土器で独自の世界を創り出す。
この先進的な縄文早期の文化も火山爆発の威力に断絶するが、後期になって列島の縄文文化が入って新たな展開を繰り広げる。
やがて弥生時代に入っていくが、広田遺跡の貝札のように南島や大陸との交流を語る物も多い。
でもなぜ、鹿児島が縄文早期文化の先進基地だったのだろうか。
今年はザビエル来日450年の記念の年である。
かつてザビエルも鑑真和上もそして鉄砲も南島沿いに北上し鹿児島に上陸した。
日待ちすれば安全に渡海できる海の道である。
旧石器から縄文文化に移行する頃、さまざまな人々と文化がありとあらゆる所で交流し、新しい文化を醸し出したのだろう。
時間のものさしは、なにせ千年単位なのだ。
ゆっくりとしかも遠い世界からもたらされる文化、その入口の一つがいち早く照葉樹林帯となっていた鹿児島だったのだと思う。
風光明媚な指宿は、開聞岳も枚聞神社の長崎鼻もとうとう雨になってしまった。
この日は山川港から根占港へ渡り、鹿屋に泊まった。
4日目は大隈半島の見学で、夕方まで古墳時代の興味深い史跡をたっぷりと巡り、充実した旅の想い出とともに、鹿児島空港を空路あとにした。