相楽祭と赤報隊あれこれ

T

 1999年の相楽祭は土曜日にあたった。4月3日、思い立ってとりあえず一人で出かけることにした。船橋駅6時53分発のあずさ51号に乗車。思いのほか、乗客が多いが、空席はある。明け方、青空は見えるものの、まだ雲が厚い。相楽祭の日は雨が多いと聞くが、今日は晴れるそうだ。
 下諏訪に到着するまで、3時間。長谷川伸『相楽総三とその同志』(中公文庫)を読み始める。文久3年、桃井儀八の挙兵計画が挫折。小島四郎は同年12月無念の思いを抱いて大宮の氷川神社に詣る。この参詣は再起を志す江戸への旅の途次だった、という。
 今の私の旅は、時折沿線の桜を見やり、南アルプスの山々の眺望を楽しんでいる。
 甲府を過ぎるころには乗客はまばらになっていた。
 元治元年、筑波山挙兵。この企てに四郎は参加するが、すぐに離反したらしい。これは世直しとは違うと気がついたのではないだろうか。
 下諏訪の駅に10時過ぎに到着。すっかり空は晴れあがっている。
 駅前の道を直進、国道にぶつかったところで左折、国道が右に彎曲するところで、直進路に入れば魁塚はすぐに見つかる。まだ慰霊祭には時間がある。
  江戸時代の宿場の面影を残す下諏訪町歴史民族資料館を見学したり、諏訪大社をのぞいてみたりした。後で知ることになるが、相楽たちの縛られた立木があるとのこと。どなたかに案内してもらう方がよかったか。近くの青塚古墳の上で昼食を取る。そうこうするうちに、魁塚周辺に人が集まり出す。参加は自由とのことだったので、気軽に参加させてもらった。
 そして午後1時30分、魁塚にて神式の慰霊祭が始まる。宮司さん諏訪大社から来ておられるとのこと。相楽たちの足跡が厳かに語られる。130年前に思いを重ねながら、式の進行を見守った。儀式が終わると相楽会の会長さんや、地元の名士の方々からの挨拶があり、遺族を代表して相楽の曾孫の木村智将さんも挨拶された。赤報隊研究では第一人者の高木俊輔先生も来られていた。

 直会の席であいさつされた木俊輔先生は、出版されたばかりの北方謙三の『草莽枯れ行く』に触れ、これまでの研究史を無視していると批判されていたのが印象に残った。
 宴もたけなわになった頃、木先生が隣に来てくださったので、いろいろ話を伺うことができた。『維新史の再発掘』の出版のころのこと、家永教科書に赤報隊が取り上げられ裁判の争点になった事など、興味は尽きない。先生はもともと岡谷の出身で、それならすぐ隣町だと地元の方に教えていただいた。それにしても、参加者に若い女性が多く、学生らしき方などは卒論のテーマにしているのだろうか熱心に木先生の話を聞いていた。
 帰りの列車の中では、相楽祭に参加していた若い男女と同席させていただき、楽しく過ごせた。若者たちはこうして知り合った仲間との語らいに喜びがあるようだ。
 北方謙三『草莽枯れ行く』を後日読んでみた。木先生の発言に刺激されての事ではあるが、この書にそんな害毒≠ェあることなど知りもしなかった。
 小説の序盤(幕府による浪士隊募集の時期)に「相楽総三」が清水次郎長と出会う。おや、と思った。相楽総三は志士となってからの変名であり、元服してからの名を四郎左衛門将満、通称は四郎と言った。この時期はまだ本名の小島四郎ではなかったか。「相楽総三」は、赤報隊との関連でつけられた変名ではないだろうか。
 研究によれば、早世もしくは他家に養子となった兄たちに代わって「次代の当主となることを約束され」ていたのが四郎である。北方氏の小説の設定では、四郎の兄達が健在であったとの表現もある。(「相馬に二人、江戸にひとり兄がいるが、それぞれ独立し、金も儲けている。」)
 つまり、北方氏のこの小説はたとえ創作とは言えはじめから歴史的事実の設定に間違いが多い。便宜的な設定とも思えず、歴史離れが過ぎるのも作者の勉強不足でなないか。下巻末尾に付された参考文献に高木先生の『維新史の再発掘』(NHKブックス)がないのは読んでいないということなのだろう。
 長谷川伸『相楽総三とその同士』の自序の一節を思い起こす。「『常ざむらい』という単行文が私にある。以前『サンデー毎日』に書いたものである。『相楽総三とその同士』の刊行はそれを抹殺するものである。あれには誤りが多い。」この謙虚な姿勢が北方氏にあるか。歴史上の人物に対する評価に間違いがあることを認めることができるだろうか。
 『維新史の再発掘』に、赤城山挙兵計画はこう書かれている。
「三挙兵を結び付ける関東尊攘派の秘密中央部があるいは出来ており、他に水戸脱藩士や上州・野州の志士たちが加わって、他の挙兵の可能性を探していたのではないか。」
 こうした歴史的事実を、軽々に扱って欲しくないと思うのは当然だろう。確かに四郎とのかかわりのなかで、挙兵計画をめぐる桃井可堂の絶食死にいたるまでのエピソードが描かれてはいるのだが、こうした歴史的事件がなぜか羅列的に扱われているにすぎない。だから決して四郎の本当の願いが描かれることは無いし、それゆえに登場人物が薄っぺらになってしまうのだ。咸臨丸の戦死者の死体処理で歴史に名をとどめる事になった次郎長を主人公に扱った意図は何なのだろう。たとえ同時代に生きたとしても四郎とは決して交叉しない人物像だと私は思う。
 一体この小説の登場人物たちが、幕末・維新というこの時期に遭遇し、社会の何をどう変えようとこころざしていたのか、作者のまなざしが見えないのだ。四郎たちの物語を書くという事は、彼らの行動が果たして民意に根ざしていたか、という視点をもつ必要に迫られるはずだ。
 『維新史の再発掘』の問題意識は「維新期において達成されなかったものへの視点」という表現に端的に表されている。まさか、北方氏は敗れ去ったものを維新のアダ花としか見ていないのではないか、と思えてしまう。
 この小説で相楽が処刑されねばならなかった理由の設定がいかにもうそっぽい。孝明帝の暗殺者が岩倉具視であることを知った総三を抹殺することで事実を隠蔽しようとしたのだと。
 さて私達はもう一度出発点に戻らなければならなくなった。相楽たちが「偽官軍」として処刑されねばならなかったのは、新政府の財政問題もあるが、年貢半減令を掲げ進軍していった相楽たちが明らかに民衆と結びつきを強めた事にあるだろう。
 この小説の筋立ては歴史の真実からわれわれを遠ざけることになりはしないか。
 藤沢周平氏はこう述べている。「歴史小説も小説にすぎないのだと私は思っている。ただし,小説だから歴史的事実の方も適当にあんばいしていいことにはならず、歴史小説であるからには,従来動かしがたい歴史的事実とされてきた事柄は尊重しなければならないだろう。また歴史小説は,そういう歴史的事実に作者の想像力が働きかけて成立するわけだろうが、その想像も野放図でいいというわけにはならないだろう。想像は小説家の領分といっても、ここにもおのずから許容範囲というものがあり、大きく逸脱しないのは歴史に対するエチケットというものである。」
 

U

 『歴史読本』99年7月号に掲載された亀掛川博正『赤報隊はなぜ処刑されたのか?』に一言。
 研究史を概括しておられるのですが、権力者の視点で「偽官軍赤報隊」を描いているなと感じました。
「一小部隊が引き起こした戦時下にありがちな単純な軍律違反事件に過ぎない」(p187)と結論付けていることからわかのですが、事件を矮小化しているのです。
 「通説では事実と推量とが混在しているところもある。年貢半減令の布告と、総三らの処刑の関連などなお明らかでない点も多い」(p183)つまり、この著者は年貢半減と処刑は無関係と言いたいようです。
 相楽隊の悲劇はどう始まったのでしょう。以下は『相楽総三とその同志』からの引用です。
 
「相楽は租税半減免除の許可を太政官から前に得ている。ところが、太政官としては、租税を減免したのでは財政に欠陥が出てくる。で、相楽に与えた租税減免についての一切を取り消さねばならないが、すでに相楽は通過した村々で、租税のことを発表し、民心を旧幕府から引きはなすのに努力していた。そうなると、赤報隊に何かあればそれを捉えて高等政策の犠牲に相楽をあげる、こういう政治手段しか、岩倉具視とその幕僚とにはなかった。」(中公文庫(下)81頁)
 
 為政者の都合が理想社会建設の志とミスマッチした時、それは悲劇となったのです。
 亀掛川氏は、少なくとも歴史家の客観的判断をはじめから放棄し、処刑した側を弁護する姿勢で一貫しています。官軍の処刑理由を4点に整理したうえで、「罰文の内容は妥当で、総三らの行為は「偽官軍」と断定せざるを得ない。」と述べているのですが、つまりは罰文を解釈しているだけのようです。
 冤罪論を批判して、「あるのは推論、想像でしかない」(p185)と述べておられますが、「具視が維新政権の実力者であったとしても軍の指揮については何ら権限はなく、組織原則を乱すような行為にでる筈はない。」と、推論、想像にもとづく断定をしている矛盾。岩倉に「何ら権限はない」といわれますが、具定・具経は東山道鎮撫総督・副総督だったのではありませんか。
 事件の性格上、史料が残りにくいのは当然でしょうし、そのため歴史的想像力を駆使する必要が生じます。
 長谷川伸氏が史実を掘り起こしたことを正しく評価しなければならないのでしょう。

 支配者側の処分理由は以下の通り。木先生の『それからの志士』から引用させていただきます(p57〜59)
 @官軍の統制に従わなかった、つまり「勅令ト偽リ官軍先鋒嚮導隊ト唱ヘ........勝手ニ進退」したことである。
 この点は、相楽たちの主観はともかくも、結果的には指示された東海道総督府指揮下に入ることに従わず、独自に東山道をすすんだのであるから、根拠のないことではない。その意味で相楽たちの方にも問題があったのだが、記録をみても、たえず京都や総督府、また薩摩藩と連絡をとっていた。切り捨てようと思えば、もっと早く手を打てたはずであるのに、しばらく泳がせていたとも思われ、正式な許可を与えなくとも暗黙のうちに認めておいて時期をみて引き返させようとしていた節がある。官軍=総督府の統制外のところにいることが問題になったのは、京都から悪い噂が立ってからであった。官軍の再編制の時点で、草莽隊切捨ての方針が決められてから、この理由が全面に出されてきたのである。
 A官軍の統制を外れたところで武力を蓄えた、という点である。総督府ならびに新政府の権力者は、自分たちの指揮以外のところに武力を持つ集団が存在することを極力警戒した。草莽隊の武装は、総督府の軍略の一齣として統制下にある時だけ許される性格のものであった。
 B相楽隊が「無頼」や「徒党」の所業をしたことがあげられている。ここでつかわれているのは、百姓一揆処罰のための慣用語である。この罪状には、続けて「....相聞候」とか「相聞候とも真偽分らず」としており、死刑という極刑の罪状としては根拠が不明確にすぎる。
 C隊が沿道の民衆から米穀を徴用したことが「兎角農商を劫略し」とか「悪業相働」とされるのであるが、自弁で政治活動に出た草莽に資金が欠乏することは当然わかっていたはずである。太政官の勅定書でも、機会が来るまで「兵力ヲ蓄ヘ、粮食ヲ儲ケ」とされているのは,沿道での徴発を含んでのことであった。進軍での途次で徴発を不可欠とするが故に、相楽たちは「軍令」や「法令」を布告しては、沿道の百姓・町人に迷惑のかからぬよう、厳しい軍律を布いていたのである。もちろん、当時の状況の中で、隊中において違反なく実行されたという保障はないが、むしろ赤報隊や嚮導隊を騙る文字通りの悪徒の跳梁があった点を考える必要がある。総督府は、この悪徒の動向を利用して草莽隊の弾圧をした、ともいえるのである。

 木先生は以上のように分析されておられます。結論的に言うならば相楽隊処刑は、口封じでということになるのではありませんか。死罪に値する「軍律違反」とは到底判断出来ないのです。だからこそ後日、御子孫をはじめ幾多の人々が冤罪を晴らすためのご努力をされたのです。
 『歴史読本』7月号の亀掛川論文は「王制復古に貢献」した草莽諸隊を賛美し、研究者の「階級史観」を嫌悪していることを、述べておられます。このような先入観で考えてしまうと、明治維新という変革の歴史が生み出した、民意と結びついた良質な人々のこころざしへの想像力を失ってしまうことなります。
 ともあれ、このような論文を掲載した『歴史読本』ですが、98年の12月号『戊辰大戦争』には木先生の『「偽官軍事件」五つの始末紀』という論考を掲載していました。あえて今回は異論を掲載したのでしょうか。
 権力者というものが民衆の自立を極端に恐れるものだとよくわかる事例だと思われます。何ら弁明の機会も与えず歴史の闇に葬りさったということは、今に通じる権力犯罪といえるのではないでしょうか。こうした歴史過程を否定する説の登場は残念です。
  

V

 桜井常五郎を中心に考えてみました。長谷川伸氏は2つの常五郎像という問題提起を出されたわけです。一方で無頼の徒とされた常五郎ですが、本当の常五郎像とはもちろん志士であります。彼は、信州北佐久郡春日村の村役人桜井新助の三男として生まれ、馬庭念流樋口道場で剣道を学ぶとともに、また平田歿後門人として国学の素養も身につけていたようであります。どうも陣屋の役人とはそりが合わなかったらしく、喧嘩したこともあったという。それがもとで故郷を離れることになったのですが、多少は気ままが利く身だったのでしょうか。この常五郎が故郷に帰り、颯爽と、陣屋に乗りこみ、年貢半減を布告し、貧民改めを行う様子を思い描くことで、明治維新という変革期の息吹を感じることが出来ました。
 もはや総督府から切り捨てられつつあった相楽隊ですが、相楽自身は病をおして大垣に向かい弁明につとめていたようです。その間、常五郎はじめ信州の隊員達は官軍として鎮撫、恭順を促す活動を続け、ついには碓氷峠の攻略に成功します。赤報隊解散命令を無視して下諏訪に布陣した相楽が、関東諸藩ににらみをきかせるための要と考えた碓氷峠の攻略を、北信分遣隊は実現したのです。しかし残念ながら結果的には悲劇に終わります。総督府の意向を受けた小諸藩などの攻撃をうけ、分遣隊は解体させられてしまいます。魁塚には、追分戦争の犠牲者である金原忠蔵たちの墓碑も立っていたことを思い出しました。
 再び桜井のことに戻ります。「貧民改め」「郡中名主呼出し鰥寡孤独相改」といった救済事業のことですが、木先生の著書によれば、桜井隊は「慈恵的な年貢半減令をこえて、一般農民層を結集させる役割を果たしつつあり、「貧民改め」から貧民を生み出してきた状況に対する変革、つまり悪徳陣屋役人や信州小藩への戦いの方向をもち、いわば農民的な・地域的な政治勢力として展開する可能性を示した。」という評価をあたえられています。
 桜井は碓氷峠からの下山をめぐって本部の大木・西村らと対立し、相楽からも最終的には切り捨てられてしまいます。相楽たちと桜井とでは最終目標に違いがあったことも事実でしょう。相楽たち薩邸浪士隊の同志達からは、桜井の存在はは邪魔になったのでしょうか。とすれば、草莽隊を切り捨てようとした岩倉と同じことになりはしないでしょうか。もともと農家の出であり、地元の桜井の立場としたら、自らの行動哲学に従いたかっただけなのだったのでありましょう。
 依田憙家氏によれば当時、上州・武州・野州に一揆が続発しており、桜井隊はこの世直し勢力と結合すべきであったとされています。しかるに桜井隊には「地主分子も含んでおり」世直し勢力とは結合しえなかったというのが、依田氏の結論です。確かに選択肢はいくつかあったのだと思います。赤報隊の活動も、一揆とは担っている人々も目標も異なりますが世直し行動には違いありません。だが一揆と連帯して行動する可能性はあったのでしょうか。 
 桜井隊について考えることで、社会変革の方向性を現実の運動の渦中でどう生かせるかを、あらためて問い直してみようと思います。
    復古王三月 狂風折玉枝 是非千載事 天地有明智
 王政復古から三か月、死に際し身の潔白を後世に託すと詠んで常五郎さんはこの世を去りました。果たして彼のこころざしは後世に伝わったのでありましょうか。
 

 

W

 ある日のことです。書店で平積みになっている文庫の新刊本のコーナーを何気なくながめていましたところ、突然、赤報隊の文字が飛びこんできました。宮城賢秀『幕末志士伝 赤報隊』(上)(下)でした。
 一読。相楽総三とその同志たちへの著者の篤い思いが描かれていると感じました。
 著者のあとがきによれば、上巻は、『御用盗』というタイトルで廣済堂文庫で刊行されたことがあるそうですが、下巻はこのハルキ文庫で初めて世に出たとのことです。
 その上巻では薩邸浪士隊のことを描いています。下総大和田村に隠棲していたこの小説の主人公、板垣十兵衛は平田派国学者ですが、江戸にいる弟子たちから小島四郎(相楽)の決起を促す書状を見せられ、江戸関東撹乱作戦に呼応し、暴れまくることになります。十兵衛の恋物語りもあり、痛快時代小説としても面白いのですが、私としてはこの小説の歴史的背景である赤報隊の真実にも迫りたいと思い、史実を整理しながら読みなおしました。

 主人公は江戸へ向かう途次、あとをつけてきた目明しを始末します。その背景説明に真忠組の名前が登場しています(24頁)。当時、関八州の治安を担当した関東取締出役・いわゆる八州廻が尊攘運動への弾圧の役割をになっていたわけですから、その手先の目明しはこの小説では手始めに血祭りにあげられたということになりましょうか。ここで真忠組の闘いを鎮圧した、馬場俊蔵・渡辺慎次郎の名も引き合いに出されています。
 簡単に殺しが行われる娯楽小説ならではの荒っぽさが気にはなるところですが、尊攘派草莽からの視線でストーリーが展開し小気味いい展開です。
 歴史上の登場人物の中では、伊牟田尚平にスポットライトがあてられています。伊牟田のプロフィールが丁寧に紹介されています。「陪臣という身分は後々まで負に作用した。」(64頁)と同情的であります。また、伊牟田の信奉者として沖縄出身の当間仁屋重之なる人物を登場させて、活躍の場を与えています。これは著者が沖縄の出身であることを読者に印象づけるための工夫のようです。
 薩邸焼討ちの引き金になったのは、伊牟田の江戸城二の丸御殿への侵入・放火でありこの小説のハイライトシーンです。もっともそのおかげで主人公の十兵衛は薩邸に戻れず、「翔鳳丸」にも乗り込めなかったのですが。
 さて江戸関東撹乱作戦の影の指揮者とも目される吉井幸輔(友実)が、この小説では大変な悪役です。吉井の「云々の儀」といった隠語を使った書簡が残されていることに触れ、御用盗と薩摩藩の関係を隠蔽、責任を伊牟田や益満に転嫁する工作であったと指摘しています。さらにその背後に西郷や大久保がいるというわけです。(190〜192頁)
 これが相楽たちの悲劇の伏線となります。
 さて上巻のラストシーンは京都の東寺における相楽総三と西郷の面会の場です。面会の日は、慶応四年正月五日。相楽は西郷から新たな任務を与えられます。しかしながら……
「戊辰戦争の戦端を開く口実を作り、且つはその最初の戦場に遅滞なく戻ってきた総三の行動力に西郷も惚れ直したのであろう。しかし、それは総三にとって悲劇の序曲でしかなかった。」(279〜280頁)
 下巻はその正月五日の夜、相楽の生命をねらう刺客を大樹四郎ともども撃退するシーンで始まります。そして、いよいよ赤報隊の活動の開始です。綾小路・滋野井両卿を担いで東征軍先鋒隊を結成、松尾寺村には薩邸浪士隊の面々も再結集してきます。
 ところで水原二郎(落合直亮)は総三と袂を分かった、と著者の宮城氏はそっけなく書いています。(21頁)
 薩邸浪士隊の副総裁だった落合は、確かに相楽たちと別行動になったわけですが、それが変節だったかのような表現に思えます。落合にはやや厳しい評価ではないでしょうか。主人公の十兵衛ですら、この時期には登場していませんし、相楽たちとはついには合流できなかったのであります。
 ちょっと感想が横道にそれました。下巻に書かれている時期の歴史上のテーマはもちろん、なぜ「偽官軍」として断罪されなければならなかったのか、であります。
 東海道鎮撫総督下でありながら、相楽の一番隊は東山道を進軍します。「総三は、東海道では、おのれの出る幕がないことをよく知っていた……ところが、東山道ならば、街道筋に賊軍の大藩もなく、徳川の本隊が出てくる心配もなかったからである。」(119頁)
 小説ではこのような表現になっていますが、相楽にとって、幕府を倒すためにはこれまで尊攘派の同志たちと結び、関東を制圧することが重大な任務と自らに課したのでありましょう。そしてここで、「年貢半減」が重大な意味を持つのです。
 木先生が述べられているように、相楽には「農民や町民に対する深い理解」(『維新史の再発掘』133頁)がありました。小説では、岩倉や大久保の意向に反し太政官参与の坊城が思慮なく与えてしまった勅定書を、とりもどすために相楽に刺客が放たれることになります。その黒幕は、大久保や岩倉の意向を受けた吉井というわけです。
あまり向きになって反撥することもないのですが、そんな展開になるこの小説では、「年貢半減」が相楽にとって手段でしかなかったかのように読めるのが、残念ではあります。
 例えば、次のような叙述です。「確かに勅定書には、東海道鎮撫総督につけとある。が、総三は行く先々で戦果をあげれば、総督も文句はいうまいと高を括っていた。たぶん、「年貢半減」、という問題がなければ、総三の思惑も通っていたかもしれない。」(110頁)
 もう一人の主役である伊牟田は、鵜沼宿に総三をたずね総督府に出頭するよう忠告します。しかし総三はその忠告を聞き入れず、さらに進軍します。その間、岩倉や大久保は赤報隊に「偽官軍」のレッテルを貼るべく、吉井を通じて策略をめぐらせます。
滋野井隊が最初の犠牲者になったことをふまえ、伊牟田からは、再度忠告する書状がもたらされます。
 さて小説の主人公の十兵衛は、情報を京にいる権田直助から入手、隊と合流すべく作戦を立てます。それは上州で金井文八郎を救出、新田満次郎に挙兵を促すことでした。しかしながら官軍先鋒嚮導隊は、碓井峠を越える事ができなかったのであります。ご承知のように、信州追分の戦闘を経て、最後の悲劇がおとずれたからです。
 時間を少し戻します。この小説の中では、相楽は大垣の総督府への出頭に先立ち、京都に現れ単身刺客の屋敷に乗りこみ征伐した上で、吉井と大久保の前に姿をあらわします。しかしそれは逆効果になったのでした。著者は、大久保に相楽抹殺の言葉を語らせます。そして二月一八日大垣の総督府に出頭した相楽は「西藩の士、何ぞ関東の民情地理を解せんや」などと、参謀たちをやりこめてしまいます。これも名場面ですね。しかし作家の綱淵謙定氏は『冤(えん)』という小説で、総督府参謀たちとのこうした軋轢が処刑の隠れた原因となると、示唆しています。
 この小説でも、この場面を取り上げ、伊牟田に「相楽どんな、剛直がすぎもした」と言わせています。著者の宮城氏自身がそんな剛直な人で、かっての自分を投影しているのではないでしょうか。
 丹念に赤報隊の足取りを追いつつ、しかも相楽の足取りが不明だった時期を、刺客を出した人々へのリベンジの時にあてているのは、小説ならでは世界ですが、念のため次のことは指摘しておきます。長谷川伸氏が疑問とした、この下諏訪から大垣の総督府出頭までの謎の十日間を高木先生は、長谷川説をしりぞけ、「北小路健氏が推定するように、出頭途中の落合宿あたりで病気になって寝ていた」とみるのが妥当かもしれない」とされています。(『それからの志士』49頁)
 はたして岩倉や大久保そして西郷にとって、相楽や伊牟田は捨石であったのでしょうか。変革期にはこうした犠牲はつきものなのでしょうか。
 相楽たち草莽にあった民衆的要素をおそれた権力の犯罪だったとする視点が欲しかったです。桜井隊のことにももう少し筆を進めてもらえれば、いっそう悲劇の歴史的意義が見えてきたと思います。
 ストーリーはもう少し続くのですが、あとはこれから読まれる方への楽しみにとっておくことにします。
 著者の宮城氏はあとがきで、いつの日か歴史小説『相楽総三』を書きたいと述べられています。期待しましょう。


(このページは『幕末・明治民衆運動史研究会』の会報『草莽』に掲載していただいた論考を再構成したものです。)