「柳生の徳政碑文」を訪ねて
By ゆみ
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国立歴史民俗博物館・第2展示室(中世)のサブルームに印象深いレプリカがある。
高さ3mの丸い巨岩に微笑む石仏、背景に山道がひろがる風景。柳生の疱瘡地蔵だという。
その右下に刻まれた小さな碑文は、説明板も小さく、目に留める人はいない。
私も歴博友の会の古文書講座で、小島道裕先生から中世金石文の解説をお聞きするまでわからなかった。
たどたどしいカタカナ交じりで書かれた銘文は
「正長元年ヨリ
サキ者カンヘ四カン
カウニヲヰメアル
ヘカラス」。
「正長元年より先は、神戸四箇郷に負目あるべからず」と読む。
正長元年(1428)の大一揆で、神戸四箇郷(大柳生・坂原・小柳生・邑地)の農民が借金棒引きの徳政を勝ち取った喜びを地蔵の脇に刻んだということである。
碑文は縦30cmほどで極めて読みにくく、また読めてもさっぱり意味不明。
いったいだれが解読し世に顕したのだろうか。
里の伝承でもあったのであろうか。
歴博に行く度に、この展示に足を運んだ。
心はいつしか、石仏のたたずむこの古道を歩き、碑文の世界をさまよっていた。
そうだ、現地に行ってみよう。
私は2001年5月、山川出版の「奈良県の歴史散歩」1冊を片手に柳生の里に旅立った。
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柳生は奈良奥山の南に位置し、バス又は車では、奈良から円成寺を通る国道369号で40分程の山里である。
柳生バス停前の茶店で観光用のマップをもらい、土地の方にお聞きしながら、細く複雑な里道を行く。
20分ほど歩くと、今はハイキングコースとなった旧柳生街道沿いに疱瘡地蔵の巨岩があった。
といっても、そのたたずまいは、歴博の展示の景観とは一変し、平成10年の整備事業で、屋根と両脇下半分を囲う柵が取り付けられていた。
五百数十年の風雨にさらされてきた国史跡の地蔵像と碑文をさらに後世に残していくためには、しかたないことなのだろうか。
堅く粗い花崗岩の岩肌に触れてみる。
太く深く刻まれていても、容易に判読しがたい碑文、特に4行目は、上部からの浅い溝を伝わる水に浸蝕されて、もはや「ヘカラス」の文字をたどるのは、至難の技だ。
真新しい案内板で、大正14年地元の郷土史家、杉田定一氏の解読と知る。
杉田氏とはどんな方なのだろう。
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「春の坂道」で有名な剣聖の里・柳生の史跡を見て廻る。
途中、資料館となっている家老屋敷で、昨年発行された柳生観光協会編「新版・柳生の里」を入手し、ページを繰ると、杉田氏の写真と人となり、そして徳政碑文解読に至ったいきさつが本人の文で4ページにわたって載っていた。
杉田氏がひとりこの謎の碑文に挑んだのは大正3年、氏がまだ20歳ごろ。
碑文に古来からの伝えはなく、困難な研究の末、大正13〜14年徳政一揆の遺物説として発表した。
仮名の読み方を大矢透文学博士に、一揆の傍証を東京帝大史料編纂掛に協力を得ての発表だった。
その後、昭和39年、永原慶二先生が来村し、氏の功績を含め「柳生の徳政碑文」として中央公論社「日本の歴史10下克上の時代」に広く紹介されたとのこと。
教職者として穏やかな人柄をしのばせる写真、晩年は奈良新聞に柳生一族の逸話などを連載し、なくなられたのは昭和58年、町民に愛された方だった。
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その晩は奈良公園の宿に泊まり、翌朝、春日神社の右手の滝坂道・旧柳生街道を歩いた。
修験の行者が分け入った道、一揆の民衆が領主興福寺に駆け寄せた道、そして 剣豪が奈良に通った道である。
奈良奉行が敷いた石畳は、昭和のはじめまで生活道路であった歴史を刻んで角が磨り減り、顔を上げると春日の原始林の新緑と磨崖仏が朝日に映えていた。
この街道の十数キロ先には、疱瘡地蔵と徳政碑文が、塞神のように柳生の里の入り口を護っているのだ。
「日本の歴史10」で永原先生は、正長の土一揆からの時代を「無名の民衆的な英雄が無数活躍した時代」と称されている。
歴博の展示が景観ごと表現したかったのは、きっとこの「無名の英雄」の時代だったのだろう。