2009..3.26
.By.さわらびY(ゆみ)
ヤマトシジミを主体として、海水産も混じるおびただしい量の貝。
そして土器や石器も多量に地表にあらわれていました。
この貝塚は明治のころより知られていて、学術調査が何回も行われています。
ここから出土した縄文時代終末の土器は、東北の大洞A′式土器の
影響を受けたこの地域独特のもので、「荒海式土器」と命名されました。
出土した荒海式土器の底部からは籾痕が、貝層中からも稲のプラント・オパールが検出されていて、稲作(陸稲か?)が行われてと思われています。