THE ESSAY                   By


 T 「始皇帝」の野望?

 執政26年(BC221年)秦王であった政は39歳、天下の覇者となった。世界を統一した政は称号をあらたに求めた。
 「いにしえに天皇、地皇、泰皇と申す三皇が存在し、なかでも泰皇がもっとも貴うございました。臣等一同、王を泰皇とあらためますように」と上奏があり、政は「泰を除いて皇をのこし、上古の帝号をとって『皇帝』と号せ」と答えたという。
 ここに始皇帝が誕生した。この時、王の命令を「制」、布告を「詔」とすること、王の自称を「朕」とすることは上奏通りに受けいれられた。
 秦の都は咸陽にあった。BC四世紀にはすでに秦の都であったし、周の時代にも都市があったらしい。

 今回の旅行では見学コースに入っていなかったので阿房宮の前史として記憶にとどめておくだけにしておこう。
 この阿房宮の建設という事業には始皇帝のみなぎる強い思いがこめられていたことだろう。
 「周の文王は豊を都とし、武王は鎬を都としたと聞く。豊、鎬の地域こそ帝王の都である。」
 始皇帝の理想とした周の王朝の都にならって新しい都城を建設しようとしたらしい。 始皇帝35年(BC212年)、阿房宮の造営が始まった。
 「まず東西五十歩、南北五十丈の阿房宮前殿が築かれ、その上には一万人が座ることができ、下には五丈の旗が立てられた。木蘭が梁に使用され、磁石が門に使用された。」

 『史記』が記したその前殿遺跡に私たちは向かった。 その版築基壇は残された跡を見るだけでもその壮大さを想像できた。(写真をご覧ください。)
 近くに阿房宮を模したとおぼしきテーマパークがあり立ち寄った。
 「始皇帝物語」のパネルが並べられおり、乗り物が用意されていたり、衣裳をつけて写真撮影、音楽劇などのアトラクションもありゆったりと時を過ごした。階上に上って遠景を見やると丘のような地帯も阿房宮の跡と知らされる。
2002.9.23


U 「方形」の思想

 私はこれまで都城の研究にことさら興味を持ったことはありませんでしたが、この中国の旅に参加し、始皇帝の都城の跡を目の当たりにすることができたのですから関心がわかないわけはありません。

 そもそも同時代と思われる弥生の環濠集落などを想定しますとその延長線上には方形で区画する思考は生まれないと思われます。
 もっとも中国では環濠集落の大型化・平面形態の方形化が進行したのに対し、日本列島では都市を別にして方形化しなかったとのことです。(藤尾慎一郎「倭国乱れ、相攻伐して年を歴たり−倭人の戦さ」、『三国志が見た倭人たち』山川出版者、2001年、p113)

 画期的な思考の転換が四方の概念を生み出したと考えざるを得ない。そんなに堅く考えることもありませんが、わが倭の使いたちがおとずれた頃には城壁都市はすでに数百年の歴史を刻んでいたわけです。洛陽の都城研究はこれからさらに進められるようですが、まだ充分な成果を見せていないとも聞きます。
 元気な参加者(私も含めてですが)はあれが漢代城壁だと見るやバスをおり、とうもろこし畑を突き進んだのであります。 都とは何かを問う前にそこにある人工の遺物に共鳴したとしか思えないのです。皇帝だけでなく生きた人々の暮らしが見えたのではないでしょうか。
2002.9.23

V「三角縁神獣鏡」の中国初出土例?か

 洛陽博物館に展示されていた「王公王母画像鏡」は、吉村武彦先生もかなり気になっておられるようでした。
 写真撮影禁止でしたのでもっとよく見てくればよかったのですが、そのときは図録を見ればよいかな程度にと思っていました。
 図録によると、1955年洛陽老城北ぼう山出土、直径18.2cm、内区に王公・王母・車馬・神獣の画像があり、外区には雲文・鋸歯文、また内区・外区に銘文が見られる、と書いてありました。
 内区の図柄は神仙思想が描かれており、平縁でなくはあきらかに三角縁でしたので、「三角縁神獣鏡」の中国初出土例になるのかとワクワクさせられました。
 吉村先生の言によれば、九州大学の故岡崎敬氏がかって言及されておられた以外、論じられた方はおられないようです。

 三角縁神獣鏡には定義があり、樋口隆康氏によれば下記の通りのようです。(『三角縁神獣鏡綜鑑』新潮社、1992年)。
  (1)径21〜23センチ大のものが最も多く、まれに径19センチや25センチのものもある。
  (2)縁の断面が三角形を呈している。
  (3)外区は、鋸歯文帯、複線波文帯、鋸歯文帯の三圏帯からなる。
  (4)内区の副圏帯は銘帯、唐草文帯、獣帯、波文帯、鋸歯文帯のいずれかが多い。
  (5)主文区は、四又は六個の小乳によって等間隔に区分され、その間に神像と瑞獣を求心式か同向式に配置する。
  (6)銘帯は七字区数種と四字区一種がある。

 図録だけの印象から判断してみました。
 あの鏡はこの定義の(1)には該当していないです。
 (2)は該当しそうです。(3)は外区が雲文・鋸歯文ですから該当しない(4)は銘帯のようですから該当 (5)は該当しそう(6)は意味がよくわかりませんので今のところ保留します。

 と、考えて見ますと定義上の「三角縁神獣鏡」とは断定するわけにはまいりません。
 吉村先生は、定義そのものに疑義を挟んでもいいのではないかと、提案されておられます。
 私は、定義そのものが特鋳説に関連しそうな気もしています。
 おもいつき的な発想にすぎませんが、画文帯神獣鏡やこの洛陽で見た鏡などから「三角縁神獣鏡」が生まれた可能性を私は考えます。
 吉村先生は、卑弥呼の鏡は、三角縁神獣鏡より画文帯神獣鏡の蓋然性を考えておられるようですが、私は三角縁神獣鏡こそ好物として特鋳されたものと考えております。

 岡村秀典氏は『三角縁神獣鏡の時代』(吉川弘文館、1999年)において、楽浪出土漢鏡7期として
  @第一段階…上方作系浮彫式獣帯鏡・飛禽鏡・画像鏡・き鳳鏡・獣首鏡
  A第二段階…画文帯神獣鏡
  B第三段階…斜縁神獣鏡とし、斜縁同向式二神二獣鏡や斜縁四獣鏡は徐州系統と推定しておられます。
 また山東省滕州市出土の斜縁同向式二神二獣鏡が「三角縁神獣鏡」といえる可能性を述べておられます。(p125〜128、p152)
 しかし、この山東省滕州市出土の斜縁同向式二神二獣鏡は、吉村先生のお話では、三角縁とは違うとのことです。
2002.10.7