2001.8.18  By.T

「聖徳太子」はいなかった

T


友人がよく言っていた。人々が競馬新聞に熱中するように読んでもらえるような、歴史を書きたいものだ、と。
その友人は歴史学者として着実な歩みをはじめていたのだが病魔が彼を連れ去ってしまった。
実は彼とは、学生時代に意見を異にするできごとがあり音信をたっていた状態だったのだが、この世では再会することができなくなってしまった。
勤め人のかたわら、週末を利用して歴史の勉強をはじめたのは彼の夭折がきっかけだった。
歴史を競馬新聞を読むように、民衆のものにしたいとの希望はかなえられるのか。
ファンの多い古代史にチャレンジし始めた。友人の専門の中世史にはまだ手が届かない。

U


中部大学の大山誠一教授との出会いは私の好奇心をかき立ててくれました。

聖徳太子の公式プロフィール
実名は厩戸皇子。574年−622年。推古天皇の摂政として冠位十二階、憲法十七条を制定、遣唐使派を行い、中央集権的官僚国家を目指した。仏教興隆にも尽力した。

聖徳太子は「日本人」ではない、と歴史家の網野善彦氏が「日本人」の代表としてよくひきあいにだされるほど私たちに身近な存在です。網野氏の説は「聖徳太子」とのちによばれた人が、遣隋使を派遣した時代には「日本」という国号はなかったということです。

「日本」が誕生したいきさつは、網野氏がしばしば語られるように私たちは正確な知識を持っていませんが、ここにひきあいに出されたに「聖徳太子」が、実は架空の人物であったとしたら、私たちの知っている歴史とはなんだったのかと考えさせられてしまいますね。

中部大学の大山誠一教授の『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館)が世に出たあと興味深いことに多くの学者が反論している姿をみることになりました。

まず大山教授の説の一部をご紹介します。

☆聖徳太子は『日本書紀』では皇太子とされているが、そもそも皇太子の地位は中国の律令法の受容以後にしか現れない。
☆憲法十七条には後世の知識でしか用いられない表現がある。
☆日本書紀』に聖徳太子は、確実な史料を記したと思われる部分には一切登場しない。冠位十二階の制定や小野妹子の隋への派遣を記した記事に皇太子の語が見えないこと。また、隋から来日した裴世清を歓迎する記述は、詳細であり難波津での歓迎の様子、飾馬75匹で大和の海石榴市に迎えた様子、朝廷における歓迎の儀式の様子、そのいずれにも皇太子は登場しない。つまり歴史的事実と確認できる記事に皇太子(聖徳太子)は登場しない。反対に不確かか事実ではない場合に限って登場する。

以上の論点などを総合して<聖徳太子>は実在しなかったと論じられたのです。そして、大山教授は「聖徳太子の役割に依存しない日本古代史の叙述の必要性」を最後に強調しておられます。なるほど確かに私たちは「聖徳太子」なしの歴史は考えたことはなかったですね。網野氏ですら「聖徳太子」がいなかったとは考えなかったくらいですから。先入観を排して冷静に過去を見詰め直すことが必要なのだと思います。

V


102号で特集が組まれて以来、『東アジアの古代文化』(大和書房)誌上で大山教授の新説をめぐる議論が沸騰しています。

私が面識をえたのは講演会の後の懇親会などでお話しをうけたまわったのがきっかけです。
大山教授に私信でいくつか質問させていただきました。(一部削除・改変しています。また適宜、補足を加えています。大山教授からいただいた、ご返事は掲載のご了承をいただきました。なお私事に及ぶ箇所は割愛しました。)

先日、朝日新聞での特集記事拝見いたしました。私たちも以前から関心のある問題だけに、よりいっそう議論されることを願っております。
東アジアの古代文化102号での諸先生がたの論考にも興味をそそられます。次号での大山先生の御論考も楽しみにしております。
先月は飛鳥・法隆寺の旅でした。まだ発表前でしたが、酒船石遺跡にビニールシートがかぶせられる前日でしたので、かろうじて遠目ながら例の亀を見ることができました。
飛鳥池遺跡破壊のための道路工事で発見された皮肉なめぐり合わせですが、現実に見る石組みはあの時代をあらためて印象付けてくれます。ロマンでなく、国際緊張をともなった厳しい時代と理解しておりますが、それゆえにこそ国を創っていくという息吹の感じられる時代でもあります。私たちのあの時代は、などとつい思ってしまうのは、性分でしょうか。

昨年(1999年)12月講演は山尾幸久先生にお願いしました。(『筑紫君磐井の戦争』新日本出版社、1999年)
講演の中で二度ほど、大山先生のお名前を出されました。
大山先生の新刊書の紹介(『日本古代の外交と地方行政』吉川弘文館)と、もちろん聖徳太子のことであります。聖徳太子の話題を出されたとき、他方で吉田晶先生の東アジアの古代文化を考える会での講演内容を批判されたのが印象に残りました。十七条憲法と聖徳太子の関わりに関してであります。(吉田晶先生には1999年8月に『『隋書倭国伝』と推古朝』というタイトルでご講演いただきました。)
「天皇」号成立時期を、東野治之論文にしたがって、天武・持統朝と理解しておりましたが、最近吉田孝『飛鳥・奈良時代』(岩波ジュニア新書)や、大津透『古代の天皇制』(岩波書店)など、推古朝説を読みグラついています。
もしそうならば、天寿国繍帳の銘文の史料価値なども再検討されねばなりませんから、先生の論証の基礎も揺らぐことになるのでしょうか。

                  
大山誠一教授からお返事をいただきました。明快です。

天皇号のことですが、推古朝説には根拠が全くないのです。言ってみれば聖徳太子信仰の一種だと思います。

天皇号に関しては、私著に所収した論文をよんでいただきたく思います。
                                      大山誠一

大山教授は『<聖徳太子>の誕生』の出版以前に同じ吉川弘文館から『長屋王家木簡と金石文』を出版されておられます。(1998年3月)
天皇号に関してはその第三部 聖徳太子像の成立と律令国家 第二章 <聖徳太子>をめぐる若干の問題 四 天寿国繍帳銘の成立−天皇号の始用と関連して− が参考になります。
天寿国繍帳については推古朝に成立したする説を唱える学者もおられ、「天皇」号がすでに推古朝に成立した証明にもされているようです。(『日本の歴史8 古代天皇制を考える』講談社、2001年)
私は大山教授のお考えを謙虚に受けとめれば、天寿国繍帳が後世の作であることが理解できるのに、学界がなぜ事実を素直に受け止めないか、いぶかしく思うものです。

私はあらためて感想を述べました。

早速、お返事いただき、恐縮しております。
私も勤め人の身でして、古代史は全くの素人ですから、無責任なことしか申せません。その点は悪しからず。
山尾先生のお話ですが、12月のご講演のときは大山説にたいへん好意的だったという印象を受けています。さらに磐井の乱の時代背景の話のなかで「継体朝成立をめぐる国際関係」を紹介され吉川弘文館から出版される、という点にまでふれられていました。大山説そのものには言及されなかったとは思いますが、吉田晶先生の十七条憲法、聖徳太子関与説には激怒しておられました。山尾先生は吉田先生とはたいへん親しいお付き合いをしておられるとのことでしたが。
天皇号問題ですが、吉田孝先生のジュニア新書は、歯切れが悪くもどかしい限りでした。
ご説明ありがとうございます。先生の御著書も時間をかけて読んでみます。


大山教授はまた返信をくださいました。

天皇号について、ちょっと述べておきます。
東野説は、結論的には正しいのですが、積極的な根拠は出していません。金石文の解釈によって天武朝以前を否定しているだけです。

私は、かつて野中寺弥勒像を論じたのですが、これについては、昨年暮に、東野さんが大正7年贋作説を示し、どうやら贋作者まで特定したそうです。王後の方は、元々改葬説でよさそうですから、天智朝説はもうないと思います。

私は、聖徳太子否定論を当然の前提として、日本史を再検討する積もりですので、その問題は、はっきり決着をつけねばならない立場です。そこで、推古朝には、天皇号を認識する文化状況もなかったし、政治的にも王権のあり方がそういう段階には達していなかった。逆に、天武朝にはきわめてふさわしいと言うことを論じたのです。推古朝の政治状況については、『東アジアの古代文化』の103号でも論じております。

一部の引用ですので誤解を招くかもしれません。大山教授ご自身のお考えと諸先生の関連論考は『東アジアの古代文化』102、103、104、106、108号を参照していただきたいです。大山教授がお書きになった東野治之説については新著の『聖徳太子と日本人』(風媒社)でも触れておられます。(東野治之氏は『國語と國文学』平成12年11月号に野中寺弥勒像について論文を書いておられます。)

W


性根を据えて学界の"常識"にたち向かっておられると感じます。もう少し大山教授との質疑応答を書き加えさせていただきます。

【私からの質問】
山尾先生の『カバネの成立と天皇』(吉川弘文館)に「史的状況の理解は東野治之氏のそれが基本的には穏当であろう」とありましたし、『天皇号の成立年代について』が収載されている『正倉院文書と木簡の研究』(塙書房)が復刻されましたので一読者としては、「史的状況の理解」に役立てようと基本文献として読んでおりました。
その点では山尾先生の方が誠実といえるのでしょうか。1月に東京で行なわれた日本・天皇の成立をテーマにした講演で 山尾先生は『上宮聖徳法王帝説』にある「法隆寺の蔵にある繍帳二張」が資材帳に表れず、天武か持統が奉納した繍帳二張しかないことを推古朝成立説が成り立たないことのひとつの論拠として話しておられました。
ところが、ややこしいことに東アジアの古代文化102号でこの繍帳二張のことを大山先生に問うておられる。山尾先生は焼けた原繍帳があり、推古帳遺文があるとのお考え、難しい議論でちょっと入りにくいです。

大山先生の『長屋王木簡と金石文』所収の論考も少しずつ読ませていただいております。基礎がないものですから、正しく理解できているかいつも不安ですが、とにかく文献そのものにはまず疑問符をつけてかかる姿勢が大事だと考えております。ですから繍帳銘とはいえ実物ではないのであれば当然、作為を想定すべきなのでしょうね。
以前ご講演いただいた仁藤敦史先生のご研究は繍帳銘を所与の前提とされておられたように思います。橘大女郎と間人皇女が中宮に同居していたという説ですね(『古代王権と都城』吉川弘文館)
これでは出発点から大山先生とは相容れませんね。
視点は変るのですが、最近文庫化された早川庄八先生の論考(『天皇と古代国家』講談社文庫)を読んでいますと、桓武期における天命思想の受容、そしてそれが矮小化された天命思想であったとしても先行的に天武系の天皇によって準備されていたと、書かれているように思えます。

天命思想の受容を排除しているのが、日本の王権の特質であると漠然と考えておりましたので、まだ釈然としておりません。
どうしてもななめ読みになりますので間違った理解をしているかもしれませんが、ご容赦下さい。
大山先生は『長屋王木簡と奈良朝政治史』(吉川弘文館、1993年)のなかで、「律令天皇像」は易姓革命の排除を意識していたと、されておられます。
先生のお考えも含め、これから勉強していきたい課題であります。
「巧智な日本の支配層は、進んだ外来文化に接した時、その法と制度のすべてを受け入れながら、なお古来の伝統を再編し、体系化し、かつ最も多くは創造しつつ自らの主体を顕示し、それにより外来思想の本質部分を形骸化させるのである。」(同書、45頁)
先生の前掲書から引用させていただきました。連綿と続いている、「天皇」を継承させているこの国のあり方を私なりに見つめております。とりわけ昨年は戦後の出発点を根底からくつがえさせるような法制化が実現させられ、今や憲法そのものにも手がつけられようとする昨今ですので、複雑な心境です。

先生からいただいたお返事を紹介します。

天命思想についての私見を述べさせていただきます。
天命思想というのは、「天」を絶対神と仮定し、支配者である天子は、その委託を受けたものであると称して、自己の権力の正当性を主張する理解です。しかし、「天」は架空のものであることは自明ですから、現実には、天子=皇帝が、実質的に支配権力を維持している間のみに通用する論理です。いわば、天子自身の自己暗示であると同時に、権力を永続化させるための権威付けと言えます。
ただ、重要なことは、「天」と「天子」とは親子のようでいて、親である「天」の側から一方的に決別させられる可能性を絶えず認めていることです。その論理は、天命思想のもう一つの基礎である、天意=民意で、民意に背く天子は天の寵愛を失い、別な天子に取って代わられるという、易姓革命を内包していることです。したがって、天子は、絶えず「天」から見張られていて、間違ったことをすれば「天」の咎を蒙るという天人相関の思想と表裏一体です。こういう思想というか理解は、中国思想の初歩的なものですから、倭の五王の時代には当然はいっているでしょうし、知識としては相当古いと思います。
ただし、問題なのは、日本の王権に、そういう絶対神である「天」の恩寵によって成立したという理解が存在したかです。天命思想を前提として、天皇制が成立したのかと言うことだと思います。その際、問題とすべきは、日中の政治風土の違いです。まず、中国の王朝はすべて覇をもって王朝を創始しています。多くのライバルを倒して権力を握ったのですが、為政者として失敗すれば、必ず誰かに倒されるということを最初から知っています。仮の権力でしかないわけです。しかし、権力を握っている間は、それが逃げないように必死に天を祭るのです。そういう事情を、回りの中国人すべてが了解していたわけです。
ところが、大和王権は、覇を唱えて王朝を興したのではないでしょう。その辺が難しいことですが、筑紫や吉備や出雲や尾張、毛野と言った地方勢力を王朝と表現する人もいますが、やはり国家権力は大和に固有のものです。それが、天皇制の問題として、私は今、それを分かりやすく説明する本を書いています。

ともかく、7世紀に律令国家を作る段階の貴族たちに、政権としての大和が、他の勢力に取って代わられると言う発想はなかったと思います。ということは、王権内部の、大王=天皇の位置づけの問題となるわけです。おまけに、7世紀段階までの日本には、明確には「天」という観念は無いようです。『万葉集』や『隋書』倭国伝からそう考えられます。そういう事情の日本の為政者、たとえば不比等などが、天皇制を制度として確立する努力をするわけですが、どうしても、この大和の王権が中国のような仮の権力だとは思えない。日本列島に宿命的に存在する権力のように見える。とすれば、天の恩寵以前の存在、天そのものに近いと認識した方がよい。すなわち、易姓革命など考えられないわけです。
それが、697年に、文武が即位したときに始めて登場する「高天原」という概念だろうと考えております。神と地上の天皇を直結してしまったわけです。案外、柿本人麻呂などの発想というのが正しいのかも知れません。それを踏まえて、人麻呂が「大君は神にしませば」と歌い出すからです。しかも、持統朝という限られた時代です。

ただし、こういう発想は、中国思想から見ると、おかしいので、『日本書紀』編纂の段階ではそれを隠し、中国的な「天」に置き換えてしまったのです。しかし、それ以後も、しばらくは、高天原は有効で、宣命などにも若干は登場しています。しかし、それでは、天皇は神だから、神聖政治ができるかというとそうではなく、神に祭り上げられて、実質は貴族の合議の場である太政官に権力は移ってしまい、そこを藤原氏が支配したというわけです。しかし、高天原神話は、中国思想から見ると荒唐無稽ですから、たちまち相手にされなくなります。奈良時代を通じて重んじられた様子はなく、奈良末には消滅してしまいます。

やはり、儒仏道の中国思想が湯水のように入ってきますから、やはり、その根底には天命思想があります。しかし、大和の王権を滅ぼす勢力が出現するなど考えられないわけで、易姓革命など想像できないから、きわめて限定的に受け入れるのです。それが、天人相関の思想だと思います。その場その場で、喜んだり、反省したりするわけです。
これに対し、若干違った理解をするようになったのが、孝謙没後の混乱と、奈良時代の絶対的権威であった藤原南家の事実上の崩壊をうけて、新しい王権を始めた桓武であったと思います。ただし、結局は同じことで、天皇それ自身が権力ではなく、天皇という神器を掌握した貴族が実権を握るという日本の政治風土は変わらなかったと思います。
なかなか説明するのは困難ですが、疑問がありましたら、また、お答えいたします。

要するに、古典を文字通り読んでもいけないのです。
中国の古典を踏まえても、王権そのものが違うし、社会というか国家というか、全体の思想状況が違うから、比較するのも、また、理解するのも困難なのです。
理解する鍵は、天皇制をどういう風に認識するかでしょう。それを今書いているのです。


【私の返事】
さっそくお返事いただきありがとうございます。
中国の王権と、ヤマトの王権が根底的にちがうのはその成立過程における覇権をかけた戦いと、その成否の違いにあるわけですね。地上の王権が仮のものにすぎない、という思想は確かにこの国には育ちにくい政治的風土となっていますね。
磐井の戦争を制したヤマトが、それこそ単一の政権となってしまったことに淵源があるということになるのでしょうか。
年末に大津透『古代の天皇制』を手にとったのがきっかけでした。
こと「天皇」号始用に関して、この1、2年の読書体験では吉村武彦『古代天皇の誕生』あるいはや森公章『「白村江」以後』などを読む限り、天武・.持統で決まりと思っておりましたので、すんなり『<聖徳太子>の誕生』も読めたのであります。
確かに、聖徳太子信仰は根強いですね。そもそも「天皇」信仰が強烈なこの国であります。
「聖徳太子」のいなかったこの国の歴史は、本当に想像すらできないです。

天皇制の問題は簡単には解けないとは思います。摂関期もしくは院政期に対し「不執政論」めぐる議論があったようですし、最近の今谷明先生の象徴天皇論にも私的には異論を挟みたいのですが、学問的にはどうなのでしょうか。これは直接の質問というわけではありません。天皇をめぐる議論は、よくも悪くも政治的にならざるをえないので、慎重に思考するべきなのだ、と自戒しております。
議論を拡散させても本質は見えてこないのでしょう。大山先生が批判された諸先生がたの論文は本質的な問題点をそらす結果になっているのかもしれませんね。
私がこだわったことに対しては、先生が明快にお答えいただいたことで、理解の助けになりました。ありがとうございます。

X


私のこのような質問に対し、大山教授はていねいに答えてくださったのです。
こうして勉強のやり方もあってもいいかな、と思っています。

最近"愉快"なホームページに出会いました。なんと大山教授の説が掲載されているのです。たしか先生は「ホームページなんか俺に作れるわけないよ」とおっしゃっておられた。
タイトルは『日本史上最大の人物聖徳太子は創作された人物で実在しなかった!聖徳太子は架空の人物である』となっています。

その書き出しは

「ここにあるものは複雑な思考や高度な知識を駆使して考えたものではありません。いくつかの史料を素直に解釈しただけだと自分では思っています。」

一読、大山誠一説でした。出版物ならアウトですね。

「『日本書紀』編纂の責任者は藤原不比等と長屋王と言えます。不比等は儒教重視、長屋王は道教重視、これに仏教の専門家・道慈が唐から帰国し編纂に加わりました。」

なるほど??・・・・まったく大山先生と同じ考えだ・・・・

あるいは次のようにも書かれています。

「光明皇后は735年、法隆寺で「聖徳尊霊」のために法華経講読を行い、聖徳太子の加護を求めています。世に疫病が蔓延している頃です。翌年にも300人の僧を集めて法華経講読の法会を行っています。この時の本尊が釈迦如来ですが、つまり聖徳太子が釈迦そのものということになります。釈迦像銘には「釈像尺寸王身」と記され、聖徳太子の亡くなった日がこの法会を記念して、同じ日である2月22日とされました。『日本書紀』では2月5日となっていたのを変更したことになります。それは長屋王一族を滅ぼした2月12日の10日後で、彼らの怨霊を打ち消すためだと考えた方が自然だと思います。」

これとまったく同じ内容の論考が『<聖徳太子>の誕生』の178頁以降「光明皇后の願い」の章に書かれています。当然オリジナリティーは大山教授にあります。ホームぺージ作成者は、ご自分の説とせず、大山誠一説と書きかえることを望みます。

もしかすると大山教授は古代史ファンの間ではしっかり市民権を得たのかもしれません。



追記:上記に書きました『日本史上最大の人物聖徳太子は創作された人物で実在しなかった!聖徳太子は架空の人物である』というタイトルのHPは現在見ることができません。私この指摘に気づかれたかどうかは、分かりません。大山先生は、『聖徳太子の真実』(平凡社、、2003年)を編集されて、聖徳太子論のまとめをされたようです。(2004.9.4)