2005.9.18 By さわらびT

「さわらび考古学教室」
手賀沼周辺の出現期〜前期古墳をめぐる

 2005年8月20日(土)、手賀沼周辺の古墳めぐりを行ないました。
 地図に位置をおおよその記入しました。主な探訪地をご覧下さい。

 4月に、霞ヶ浦畔の陸平貝塚と上高津貝塚を訪ねたとき、土偶をテーマに鈴木先生にお話いただいたのですが「さわらび考古学教室」と命名されました。
 それならいっそのこと2回目を開いてはどうかと、Yをけしかけて、今回古墳めぐりを企画しました。この古墳探訪会のきっかけになったのは小森瓢箪塚古墳の報告書の刊行です。
 白井市教育委員会のT花さんに今回の調査の経緯ならびに成果を、現場のご案内かたがたご参加いただき見学地でも説明をしていただくことになりました。

 見学にあたっては、駐車スペースなどを考慮し、一般募集はせずに少人数でまわることにし、馬場小室山遺跡研究会のメンバーを中心に声をかけさせていただきました。
 今回の探訪箇所は、手賀沼周辺ということにして「手賀沼 と松ヶ崎城の歴史を考える会」の皆様に企画のご協力ならびに当日のご案内をお願いしました。

 探訪のテーマは「手賀沼周辺の出現期〜前期古墳をめぐる」ということにしました。問題意識をもって現地を歩くのは楽しいものです。馬場小室山遺跡に学びながら、気づかされたことですが、遺跡からは見ようとして初めて見えてくるものもあるようです。
 近年の発掘成果は、出現期古墳といえる、突出部を有する形態のさまざまな古墳の様相を伝えてくれます。
あとでもふれますが、北ノ作1号墳・2号墳はかってはそれぞれ円墳・前方後円墳とされていたようですが、今日では認識が改められています。

 勝田台駅を8時に出発した私たち八千代・佐倉周辺グループは車2台に分乗、T花さんの先導で柏方面に向かいました。北柏駅に9時集合を約束していましたが、参加の皆さんはきちんと集合されてました。
 総勢16名、挨拶を簡単にすませたあと、合流した2台をあわせ、それぞれに分乗しての見学会は始まりました。天候は良好ですが、暑い夏の一日になるのは間違いありません。

 ご案内いただく柏・HOKさんは、『房総の古墳を歩く』(芝山町教育委員会)の編集委員をされた経験もおありで知識も豊富、大変心強いです。
 さっそく最初の探訪地の金塚古墳に向かうことになりました。
 徒歩が便利ということで、昼食の弁当を調達したコンビニに車をとめたままで、現地に向かいました。

 根戸城跡に残された円墳ですが、手賀沼をのぞむ台地に所在し、かなり樹木が生い茂っていましたが、思いのほか見通しもいい場所でした。だから城跡としても適地なのかと思われます。
 この金塚古墳ですが、『千葉県の歴史』には、「我孫子古墳群」の一部として掲載されていて、西の端にあたります。城郭の一部として利用されたおかげで、運良く残った古墳の一つといえるような気がします。
 出土品の石枕・横矧板鋲留短甲などは、あとで出向いた我孫子市民会館で見学できました。円筒埴輪などが墳丘には屹立していたようです。

 T花さんがご用意くださった資料ですが、『我孫子市史 原始・古代・中世編』を拝見しますと、同様な遺物が出土している花野井大塚古墳にもふれていて、横矧板鋲留短甲は畿内政権との関係を示しているわけですが、石枕の出土は同時に北総の紐帯に属していたというありかたも指摘していて興味深く読みました。
 古墳の被葬者の立場が微妙な政治力学に左右されていたのかな、と勝手な想像力を膨らませました。

 ちなみに、上記の花野井大塚古墳は消滅してしまっているようです。古墳が多かったようで「塚原」とよばれ、塚原古墳群を形成していたと聞きます。
 金塚古墳とは親縁関係のような古墳のように思えますが、いまは探訪できないわけで残念です。

 古墳の周囲も存分に見学して、次に向かったのは弁天古墳です。車で移動ですが、だんだん暑さが厳しくなってきます。
 布施弁天の駐車場の脇にその高まりはありました。ここも金塚古墳同様に、石枕の出土でも知られます。全長35メートル、自然の地形を利用した不整形な前方後円墳、その場に立って見るとなるほどとは思いましたが、墳丘測量図を見てみますと形状がかなり崩れていることに気づかされます。
 参道を開くために古墳の一部が切り取られているようです。裾部には鳥獣供養塔がたっていました。また後円部墳頂には東海寺布施弁財天の石祠が祭られています。
 古墳というよりも「亀の甲山」として知られているようです。

 年代は五世紀第U四半期とされます(『千葉県の歴史 資料編 考古2』)が、白井久美子氏のように、4世紀後半から4世紀末という説もあることを掲示板に書きました。
 白井氏は、中期の始まりを4世紀後半にしておられ、石枕の編年を中期に位置づけておられるのですが、古墳の年代が研究者によって違っているというのは、ちょっと迷わされるところです。
 この石枕ですが白井分類でFc1(外形:その他、頚受け部:直線で平行にのびる、平坦面:1段)となってます。ちょっと粗雑な感じがしますが、立花孔もあって興味深い一品ですね。写真は柏市のHPに掲載されていますので、ご参照下さい。

 次の移動先は我孫子市民会館、考古展示室があります。おかげで 冷房の効いた場所で一息つけました。入場無料、整然と並べられた旧石器時代から奈良・平安時代までの展示品の見事さにもびっくりです。

 金塚古墳の石枕が展示されていました。 弁天古墳の石枕と違い、頚受け部がハの字に開いた時期のものです。

 白井先生の分類でFb3、外形が整えられていないのが残念な状態ですし、立花孔にもばらつきがあるとされます。最盛期より前のもののようですね。
 中期後半という編年は横矧板鋲留短甲に基づくようです。

 またここで拝見した下ヶ戸貝塚出土のミミズク土偶は完形品で素晴らしい逸品でしたのでついでながらご紹介。

 こうして少しばかり、冷たい空気に当たって元気を取り戻して次に向かったのが、午前中のハイライトともいえる水神山古墳です。
 前期に位置づけられる前方後円墳で、墳丘長63メートルです。(墳丘長には諸説もあるそうです)。
 到着したのは、住宅地、空家の脇から進みましょうということになり、とげのある夏草が生い茂るのもいとわずに、かきわけて登っているのは後円部。みんな、元気いっぱいに進みます。
 墳頂部でT花さんの説明を聞きながら前方部を見たのですが、後円部より低いことがなんとなく分かる程度、それだけ夏草が覆っていたのでした。

 いったんもと来た道を戻ります。途中に看板がありますが、こちらも夏草に覆われて、探しにくい状態でした。
 見学位置をかえてあらためて水神山古墳の全体を確かめようとはしましたが、結局、墳形はよく分かりませんでした。したがって古墳の姿を写真にとらえられず残念でした。再訪しなければならないと思っています。

 さて、香取神社古墳群が午前中の最後の見学地になるのですが、水神山古墳からは程なくつきます。
 香取神社の境内には、百庚申があるのですが、ほかに2基の古墳が残っています。
 この古墳ですが、2つあわせて前方後円墳という説もあったとのことですが、円墳2基と考えていいようです。(『我孫子市史 原始・古代・中世編』参照)

 暑さも気にならないほどの興味で、参加者一同は見学に熱中してましたが、もうお昼時です。
 手賀の丘公園で休憩、公園入口にある「どんぐりの家」という施設内で腰を落ち着けることができました。
 昼食後、T花さんに周辺遺跡についてミニ講義をしていただきました。

 昼食後は公園内の片山古墳群、石揚遺跡、オツコシ古墳群を見てまわりました。それぞれ関心をくすぐらせてくれる遺跡群といえます。
 片山古墳群は、公園入口周辺に見られる高まりです。
 また 石揚遺跡は、「少年自然の家」の建設に先立つ調査によるということでした。「方墳」があったようですが、いまは建物の下にかくれてしまったのでしょうか。
 公園内には遺跡の表示があったかのかどうか、見かけませんでしたが、公園内で楽しく遊ぶ子供たちを横目で見ながらの見学でした。
 造営した集団がこの地域にとって、どのような存在だったのか、「謎」が今後、調査され解き明かされるといいですね。

 オツコシ古墳群は写真では分かりにくいでしょうが、座布団のような高まりを持つ古墳が数基、見られます。
 『房総の古墳を歩く』には、前方後円墳1基,方墳4基,円墳79基,上円下方墳1基があるとの紹介記事があります。

 オツコシ古墳群を過ぎたところに、展望台がありました。そこから見た手賀沼です。

 次に向かった「古墳之址」は、あまり知られていない思われますので、簡単に紹介をしておきましょう。(『千葉県の歴史 資料編 考古4』を参照しました。)

 この碑を建てた染谷大太郎という人は、千葉県葛飾郡手賀村鷲野谷(当時、現柏市)の生まれ、明治30年代を中心に千葉県の考古学研究に足跡を残しています。
 所有する畑に古墳があり、すでに父親の代に耕作に不便なので古墳を崩したところ円筒埴輪約30本が出土していたようです。

 染谷氏は遺物の収集を多くするとともにその記録を残しているところが大事なことだと思います。
 東京大学人類学教室の坪井正五郎との知己も得ることができたようで、学会での発表も行なっているそうです。
 『観古帳』というスケッチブックが残されていて、そこには染谷の筆跡による遺跡名、坪井の手になる遺物名が記されています。
 「人類学教室に対する遺物の寄贈や情報の提供と染谷に対する学術的援助というgive and take の関係がうまく働いたからなのであろう」と執筆者の堀越正行氏は述べておられます。

 今回の探訪で、所有地に立つこの「古墳之址」を見学できました。
 ご案内いただいたN様ありがとうございます。
 建立は1900(明治33)年のこと、碑文は坪井が書いたものです。今を去ること100年前の、先人の偉大な足跡に思いをはせたのでした。

 手賀沼南岸の古墳としては東に位置する
北ノ作1号墳・2号墳は、出現期〜前期古墳として興味深い姿を見せてくれます。最初にも記しましたが、近年になって墳形について認識があらためられました。
 見た目には分からない古墳の築造当時の正確な姿ですが、調査で明らかになったのです。
 1号墳の、墳頂の中央の盛土内に粘土槨、遺骸を囲繞したように粘土が検出、粘土槨の直上に焼土層が存在していたとここと。埋葬儀礼が行なわれたことが、考えられています。
 鉄製品や銅鏃が槨外から検出、また粘土槨上に置かれたような状態で、赤彩され底部に穿孔を施された二重口縁壷型土器をふくむ土器群の出土などの記述が、『房総考古学ライブラリー5』(1990刊)、にあります。
 この調査時点ですでに遺跡の状態は良好ではなかったようです。
 『千葉県の歴史 資料編 考古2』では「1992年度の調査で突出部の付いた方墳と報告したが、前方部が低く短い未発達な前方後方墳とした方がよいと思われる。」と書かれています。

 円墳→方墳→前方後方墳と、だんだんにその姿が明らかになってきたようです。

 2号墳は、1号墳より新しいもので、前方部は明瞭ですので、以前は「前方後円墳」と理解されていたようです。
 いまでは「1号墳より前方部が発達したタイプの前方後方墳」と明記されています。
ここでようやく、なぜこの墳形なのかが問われることになります。

 午前中に見学した水神山古墳は、この地では、最大規模を誇る前方後円墳です。
 手賀沼南岸の北ノ作1号墳・2号墳の被葬者から北岸の水神山古墳の被葬者へと、1世紀くらいの年代差はあるようですが、首長の系譜が変わったとも説明されるところです。

 さらに、出現期〜前期古墳が問い直されることになりますが、今回の探訪の目玉、小森瓢箪塚古墳に向かいます。
 報告書を書かれたT花さんからじっくりご説明いただきました。
 墳頂に蔵王権現が祀られ、先祖伝来の家訓により樹木の伐採も禁じられているのは保存には適合しているのですが、同時に機会を用いた測量も出来ないという制約もあります。そこで写真測量=三次元写真計測システム(KURAVAS)という方法で、調査・検討されたのだそうです。

 「墳丘形態の判断にあたっては、木更津市に所在する高部30号墳および32号墳では確認調査で両古墳共に円墳であるとの所見がなされ、発掘調査を実施した結果、出現期の前方後方墳であることが確認されるなど、慎重を期さなければならない。本古墳の形態を推定するにあたっては、上記のような慎重さを求められたが、測量結果及び測量図に基づく現地確認を実施した結果、前方部も墳丘としての高まりが明瞭であり円墳又は方墳という判断はできなかったこと、後方部のコンターラインが円形ではなく、四方にコーナーが崩れたような形状がみられることから、前方後方憤と判断した。」(『千葉県白井市 市内遺跡調査報告書−小森瓢箪塚古墳−』(白井市教育委員会、2005)

 これまでは注目されることの少なかった古墳ですが、墳丘長52メートルは水神山古墳と比較しても遜色ない大きさです。
 遺物などが発見されれば、将来もう少し詳しいことがわかるかもしれませんが、森として残されている現状は、遺跡の将来にとって大切なことでしょう。

 T花さんに、白井市の古墳を引き続きご案内いただきました。
 平塚の地にある鳥見神社に向かいます。
 この周辺(白井・印西・印旛地域)には、天饒速日命を祭神とする鳥見神社が多いようです。物部氏の勢力圏とする考えもありますが、果たしてどうなのでしょう。

  この神社裏に、平塚遺跡といって次に探訪する上宿古墳の石室と同じような貝化石岩(チョコレート色貝印象化石岩)を見ることができました。 社殿改築の際、古墳にあたって箱式石棺が、露出してしまったらしいです。(写真をご覧下さい) 

 同じ神社裏には、オツコシ古墳群のように座布団状の高まりを示す箇所があります。
 これも古墳とのことですが、墳丘をもった古墳は白井市では、この神社裏の2基と、小森瓢箪塚に限られるそうです。

 さて、最後の探訪地は印西市の上宿古墳(かみじゅくこふん)です。
 メインテーマとは築造時期が異なる終末期の古墳です。方墳の可能性が指摘されていますが、改変されていて原形をとどめていないのが現状です。
 ただ埋葬施設=横穴室石室が残存していて、貝化石岩の切石を積み上げているのが分かります。玄室の床面が掘り込まれ半地下式になっている構造で、開口していますので石室に入ることができます。
 貝化石岩の横穴室石室は、岩屋古墳で象徴的ですが、前方後円墳消滅後の方墳に見られるという年代観から、七世紀以降の築造と考えられています。

 貝化石使用の古墳を紹介された森耕一氏は次のように書いておられます。

 「横穴式石室は既に開口しており封土は若干遺存するが、墳形は変形を蒙って今後の正式調査をまたなければ形態を知ることができない状況でありさらに周掘は未調査なので墳形の確認は無理であった。石室は半地下式の単室で長さ2.9メートル 幅奥壁で2.5メートル 玄門際で1.39メートルと梯形を呈する。側壁は切石八段 高さ2.2メートル 奥壁は大きな切石二枚からなる。玄門は鳥居状に組まれ下は扁平な切石を凸状に加工し敷石としている。これらの加工は手がこんでいる感じである。羨道は側壁石の基部が残存するのみでほとんど持ち去られているので、天井部分があったのかどうか不明である。
 石材は石室部の総て、羨道部も貝殻化石岩が使用され国指定の岩屋古墳も同様な石材が使用されている。なお、岩屋古墳と近くにある龍角寺との関連同様やはり近くにある木下別所廃寺(山田寺系古瓦を出土する)との関連も考えられている。」(森耕一氏「印西町周辺貝化石岩使用古墳について」(『印西町の歴史』第5号、1989)より)

 龍角寺古墳群などの造営に当たった人々が技術指導をしたという前提に、「印西市周辺は、龍角寺地域に対して従属的ではあるが、ある程度力をもった集団がいくつか存在していたと思われる。」と、糸川道行氏は述べておられます。(『千葉県の歴史 資料編 考古2』)
 終末期古墳をめぐる問題は、仏教受容というテーマも含め、あらためて問い直してみたいものです。

 これで、全ての日程が終了。4時になっていました。ここで解散しました。暑い一日でした。
 これだけ古墳を中心にした見学には、皆さん楽しまれたことでしょう。
 企画から、現地案内まで総合的プロデュースいただき現地にご案内いただいた柏・HOKさん、解説をしていただいたT花さん、「古墳之址」のご案内をしていただいたNさん、そしてご参加の全ての皆さんありがとうございました。

 解散後、八千代方面へ向かった我々は、井野長割遺跡に寄り道してから、某所にて納涼懇親会で盛り上がったのでした。あらためてお疲れ様。(
なお、記載した論点ですが、出典を明示した部分以外では、当日のT花さんの現地での解説を随所で参考にさせていただいています。ただし文責は私にありますので、ご了承下さい。また引用等で誤りがあればご指摘下さい。)