2003.6.4 By.ゆみ

 =謎の上円下方墳石室の姿周辺の史跡スケッチT=

武蔵府中熊野神社古墳の現地説明会にて


2004.5.30 
真夏のように暑い昼下がり、バスを降りると案内のスタッフが待機していました
「内藤道」の史跡案内の標石が、この道も歴史を刻む古道であることを語ります



姿を現した上円下方墳の石室を見る

ここが現説会場。今日の熊野神社境内は、お祭りのようににぎやかとのこと
 昨年(2003年)暮れ、「関東で上円下方墳がでた」というニュースが、新聞やネット、さらにわが「さわらび通信」BBSで話題になりました。

 府中市の熊野神社の境内の塚に、山車収納庫の建設に際して、市の教育委員会の調査の手が入ってから、古墳と断定できないまま10年余。
 府中市史談会の郷土史研究家石井氏が古文書調査中、明治時代に発行された「武蔵野叢誌(そうし)」の中の熊野神社裏について触れた「古穴発見」の記事に注目したのが、今回の発見のきっかけだったそうです。
 情報を受けた府中市郷土の森博物館の深沢学芸員が、博物館機関誌『あるむぜお』に「熊野神社裏の塚は古墳だった」を掲載し、問題提起しました。
「さわらび通信」BBS No.1343

 郷土史研究と考古学の連携が発見の契機になったいきさつも、興味深く、昨年12月中旬の現地説明会にも行きたかったのですが、機会がないまま年を越して、この春、玄室が「胴張り型」という石室の発掘結果が発表され、ますます見たくなりました。
 
 そしてこの5月、石室の中が披露されるという吉報に接し、他の調査のスケジュールの合間を縫って、駆けつけてみました。 (By・Y)


2003年12月現地説明会の資料は主催の府中市教育委員会へ 詳しい論評はHONさんの「坂東千年王国」掲示板

   
本殿の左側で、説明を聞き、25人ずつ本殿裏側の発掘現場を見学します。 著名なH先生・S先生も見学に・・
 

これが、古墳石室内部の姿!

前室がふたつ、その奥に「胴張り形」の玄室があります
その壁には「歩兵第一連隊・・」の落書きがあり、明治の頃は、
「武蔵野叢誌」の記載のように
、入ることがてきたらしい


副葬品が皆無の中で、玄室に残された棺の


前庭部横の断面に現われた版築


墳丘の模式平面図(現地説明会資料より)
      
           左:3段目の上円部縁の石垣               右:2段目の下方部の東南角の石垣



墳丘の模式断面図(現地説明会資料より)

謎の「上円下方墳、起源は関東?」の大ニュース!


 3月30日朝日新聞夕刊に、「上円下方墳、起源は関東?古墳文化の近畿中心説に一石」というタイトルの記事が出ました。
 記事を書かれた中村俊介記者は、武蔵府中熊野神社古墳が上円下方墳としては最古の例になる可能性を示唆し、「関東を起源とすることが確認されれば、近畿が一方的に影響を及ぼしたとする古墳文化の通説に、再考を促すことになりそうだ。」と刺激的な表現をされました。

 さらに、紹介されている、白石太一郎先生の発言も興味深く読みました。
 「古墳時代の終末期には様々な形が出てくる。まだ発掘で確認されたわけではないが上円下方墳と見られる古墳は埼玉県にもあり、畿内と直接関係なく、武蔵国に共通した築造背景があったのではないか」

 最新の発表 (asahi.com5/25) に基づく、この武蔵府中熊野神社古墳の概要は以下の通りです。

@段重ねの構造を持つ上円下方墳で、2段重ねの方形部分は一辺約32メートルと同約23メートルで、円形部分は直径16メートル。
A横穴式石室は全長約8.7メートル。玄室は胴張り型で長さ2.6メートル、幅2.8メートルで高さ約3メートルだった。
 玄室と羨道の間に、さらに2室がタテに並ぶ計3室の構造。
B石室をつくる切り石には使われた工具の跡が残っており、構築方法が非常によく分かる。
 このほか、玄室と他の1室から、それぞれ50本を超す鉄くぎが出土した。
 くぎはいずれも長さ5〜6センチで、木棺の接合に使われていたとみられる。
C周辺の古墳の石室構造と比較した結果、築造された時代は7世紀前半。
D全国でこれまでに上円下方墳と確認され、発掘調査された古墳は「石のカラト古墳」(奈良県)と「清水柳北1号墳」(静岡県)の2例だけ。
 造営はいずれも7世紀末から8世紀初頭の間とされる。


 4月17日明治大学博物館友の会「日本考古学2003」で小林三郎先生の講演を聞くことができました。

 武蔵府中熊野神社古墳は他の古墳群からは離れた単独の古墳で、まわりはすべて円墳であるそうです。
 石室ですが、玄室が胴張りになっているという東日本の古墳の特徴を持っていながら、墳形が上円下方墳のであることをどう考えるか、と問いかけ、実は特別な意味はないのかもしれない、とおっしゃられたのことは、妙に説得力があって面白く聞かせていただきました。
 天円地方という中国思想の影響などと無理に考えずに、古墳造営者のちょっとした思い付きかも知れないと考えてもいいのかなと感じさせられました。
 まだ類例が少ないわけですし、この古墳から天皇陵との関係を想定するのも難しいですね。

 「上円下方墳、起源は関東?古墳文化の近畿中心説に一石」という中村俊介記者の提言に対して、小林先生はそれも一つの考え方ではあるが、そう簡単にはいえないとおっしゃいました。
 方墳の上に円墳をのせるという形状ですが、構造上、比較しなくてはならないことがある、といわれます。
 武蔵府中熊野神社古墳は横穴式石室が方墳の中に入っています。天上部から上に円丘の部分が乗っかっているわけです。

 石舞台古墳ですが、上円下方墳であった可能性があるようです。
 もしこれを上円下方墳と考えた場合、石室の上半部、天井部が円丘になる。
 ところが、奈良県にある上円下方墳である、石のカラト古墳の場合は主体部全体が方墳の中に全部入ってしまって、円丘が石室と全く無関係になっている構造になっていて、これは武蔵府中熊野神社古墳とは違っている。
 石舞台や武蔵府中熊野神社古墳は古墳時代の古墳の伝統を残していると考えていいのではないか、とおっしゃっておられました。

 武蔵府中熊野神社古墳は、まだまだ謎を秘めて、私たちに刺激を与えてくれます。
 ところで、石室の構造から7世紀前半の古墳だとの発表ですが、この時代推定は大丈夫なんでしょうか? (By・
T)

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