2004.6.6 By.ゆみ
=謎の上円下方墳石室の姿と周辺の史跡スケッチU=
熊野神社から高倉古墳群への散歩道
高倉塚古墳の前に立っていた案内地図に、熊野神社古墳と天王塚古墳の標示を入れてみました
熊野神社から旧甲州街道をたどってはるばる武蔵府中まで来たついでに、この熊野神社古墳の地理と背景を知るため、帰路は史跡を探しながら古道をたどって分倍河原駅まで1.5km程歩くことにしました。
現説の質問コーナーで、地図を拡げながら、スタッフの方にいろいろお聞きして、高倉古墳群のかろうじて残っている二つの墳丘への道もわかりましたし、府中市内は歴史的な古道に、解説付きの立派な石碑が設置されているので、迷わず歩けそうです。
甲州街道に面する熊野神社。そのすぐ横の「西府町三丁目」バス停の交差点で、さらに「内藤道」と「庚申道」が分岐しています。
熊野神社の創建や由来はわからないそうですが、江戸時代、この神社は交通の要衝に立地していたのでしょう。
神社の表側の今も昔も交通量の多い甲州街道(現国道20号線)は、何の風情もないように見えますが、新鎌倉街道との交差点の本宿交番前には、「秋葉大権現常夜燈」が今も残されています。
かつて甲州古街道はもっと南側、立川段丘の下の水田地帯を通過していて、17世紀半ば台地上に街道が移されたとき、本宿村の人々は水不足と火災に悩まされ、火伏せの秋葉神を祀る講をつくりました。
寛政四年(1792)以来、太平洋戦争の灯火管制まで、当番でずっと灯をともし続けてきたとのことです。
その先、本宿町で、甲州街道は新道と旧道に分岐します。
国道を走る車の排気ガスと騒音から解放された旧街道は、旧家の屋敷の冠木門があったりして、落ち着いた風情が残っていました。
左:「庚申道」(「わらつけ道」「いなり道」「寺道」の名もあるとか) 右:道祖神群(庚申塔2基と「猿太彦大神」文字碑) |
左:「秋葉大権現常夜燈」 右:旧家の門構えの残る旧甲州街道 |
「陣街道」沿いの庚申塔と「抱き板碑」
旧甲州街道を直進すると、国衙跡推定地と大国魂神社がありますが、その台地(府中崖線)の下の東京競馬場ではちょうどダービーの最中。今日はここは敬遠して、美好町三丁目西交差点を右折します。
この道は「陣街道」といわれ、中世に軍勢が陣立して往来したことに由来し、鎌倉を北関東を結ぶ重要道路で「鎌倉道」ともよばれました。
陣街道沿いには、浅間神社に「屋敷分の庚申塔」がありました。
屋敷分(現・美好町三丁目)の村びとが、延宝2年(1674)建てた庚申塔です。
また屋敷分という地名は、国府時代の国衙の在庁官人で、その後六所宮(現・大国魂神社)の社家(神官)となった鹿島田氏佐野氏などの屋敷があったことに由来するそうです。
陣街道が下り坂になる右手に、また神社の森が見えてきて、大きな板碑が石垣の上から道を見下ろしています。
古木の根本に抱かれるようにというか、埋まっているように見えます。
元応元年(1319)の銘のある天王森の「抱き板碑」で、そのまま樫の古木に抱かれて歳月を重ねた姿は感動的で、江戸時代の『武蔵名勝図会』や『江戸名所図会』にも記載されましたが、今は樫木も枯れてしまって、古木ごと覆い屋を被した状態にあります。
この坂を下りきると、有名な分倍河原の古戦場。この板碑が見続けてきた時代はどんなだったのでしょう。 LINK→「坂東千年王国」の「多摩川流域 板碑」
「屋敷分の庚申塔」左の大きな塔は 延宝2年(1674)建立
分倍河原の古戦場へ下っていく「陣街道」
樫の木が年月とともに板碑を抱き今に至る「抱き板碑」
元応元年 大蔵近之がなき父「道仏」の十七年忌のため建てたという銘がある
高塚古墳群の名残りの墳丘
板碑のとなりの八雲神社境内は、しんと静まりかえっています。
本殿の裏に廻ると、草に覆われたマウンドがありました。
高塚古墳群のひとつ、天王塚古墳ですが、何の標示も案内もありません。
そもそも江戸時代、鎌倉時代や戦国時代の古戦場の記憶から、この近辺の古墳群はながく中世の供養塚と信じられ、『江戸名所図会』にも、「分倍河原陣街道 首塚 胴塚」 などと書き入れられてきた塚群です。
熊野神社古墳もまた「武蔵野叢誌」で、「戦国の落武者が隠遁せしものか」と想像されていた過去があります。
八雲社殿の裏に眠るこの塚にも、もしかしたら熊野神社古墳のような秘密が隠されているのかもしれないと、ひそかに思いました。
陣街道を下ってすぐ、分倍河原の踏切を越して左折し、住宅街の中を行くと、「高倉塚古墳」の案内板とその後にビニールシートに覆われた墳丘があります。
文献(『府中市の歴史』S58)では、「帆立貝形の塚」とのことですが、発掘途中の休止された状態で、よくわかりません。
説明板によると、府中崖線の斜面上に古墳が27基あり、高倉古墳群と呼ばれ、墳丘が残っているものは5基。その中で高倉塚古墳は古墳群の中心に位置し、古来より「高倉塚」と呼ばれた象徴的な存在で、信仰の対象として保護されてきたとのことです。
発掘調査では、墳丘の構築工法が判明、墳丘下層から6世紀前半とされる土師器杯が出土し、また付近の古墳群からも土器・直刀・鉄鏃・玉類が、特に昭和の初め頃には銀象嵌太刀および太刀4振りが出土しました。
『府中市の歴史』では、南武線敷設工事で削られた古墳から出土したこの5振りの太刀は、明らかに奈良時代以前の反りのない直刀で、また「平作り」であることから古墳時代後期後半(7世紀以降)と考えると、天王塚も高倉塚もこの時期の古墳群を考えてよいだろうとのことです。
ここだけ緑の残る八雲神社境内
ここも謎の八雲神社社殿裏の「天王塚古墳」
周りを住宅に囲まれた「高倉塚古墳」
武蔵府中熊野神社古墳の語る時代
高倉塚古墳から分倍河原駅はすぐでした。
この駅で京王線と南武線はクロスし、一方は立川段丘上を、一方は 「崩岸(あず)の上に 駒をつなぎて 危(あや)ほかと 人妻児(ひとづまこ)ろを 息(いき)にわがする」と万葉集に詠まれた「府中崖線」下の低地を通ります。
地図と周りの景色を見ると、古墳群は多摩川を見下ろすこの府中崖線上の縁に営まれていることがわかりました。
そして、これら終末期の古墳群のうち、盟主たる熊野神社古墳は、すこし離れた奥まった地を選んでつくられているように思います。
この景観に、なぜか印旛沼のほとりの竜角寺と竜角寺古墳群、その中で突出した岩屋古墳のイメージを連想してしまいます。
熊野神社古墳は、古墳時代が終焉し、律令制と仏教による統治へ変わりゆく時代に、古墳群のたくさんの墳墓とはちがうステータスを主張して、あの特異な形を造形していったのではないでしょうか。
武蔵国府跡では、国衙の東隣から「多寺」「□磨寺」の文字のある瓦が出土しています。
現場説明会での質問コーナーでお聞きしたら、「多摩郡司によって建立されたであろうこの国衙東隣の廃寺は、7世紀末で、熊野神社古墳とは半世紀の開きがあるが、関連は大である」とのことでした。
文字と仏教文化と古代律令制の武蔵の国が、「崩岸(あず)の上」におぼろげながらにうかんでくるように感じるのですが・・・ (By・Y)