2004.7.31 By.ゆみ


-真夏の大地に 雨を祈る-

館林市木戸町の
ささら舞を追って その4




「やきもち地蔵」がみまもる常楽寺山門へ入るささら舞一行


常楽寺の「やきもち地蔵」
深諦寺の日限り女地蔵に恋をし閉じ込められたという

常楽寺の本堂の前で一節舞います


8. 菩提寺の常楽寺へ

  獅子舞の一行は、赤城神社での奉納が終ると、隣の常楽寺へと巡幸します。
  真言宗豊山派の光明山常楽寺は木戸区民の菩提寺で、弘安3年(1280)宥尊上人によって開山された古刹です。

 山門を入るとすぐに大きな石の地蔵さまが、木の柵の中にあります。
 この男の地蔵さま、「やきもち地蔵」と呼ばれていますが、そのゆえんは、深諦寺の日限り女地蔵に恋をし夜遊びに行くので、柵に閉じ込め外出できないようにしてしまい、そのかわり焼き餅を上げて供養したという愉快な伝承によるとのことです。


9. 江川橋からムラの端々まで
 
 常楽寺の本堂の前で一節舞って、矢場川にかかる江川橋に向かいます。

 旧館林本陣から日向に向かう古道にかかる橋ですが、渡良瀬川とその支流の流域であるこの付近は、流れがその時代時代によって大きく変わっているようです。

 江川橋は「縁切り橋」とも言って、木戸と日向の人は結婚式にこの江川橋を通るのを避けたといいます。
 一説に、忍城主に嫁いだ太田金山城主の姫が離縁して兄のいる館林城へ行く際に通ったからとか、また徳川綱吉の時代に名主13名が直訴して処刑された際、近親者と別れた橋だからとも言われているからです。

 この橋の上でも獅子舞が演じられ、また県道に戻って、一行は軽トラック2台に分乗し、ムラのツジキリの行われる村境まで行きました。

 かつては一日中かけて、ムラの端々まで巡幸して獅子舞を奉納していたのでしょう。
 今は、遠い村境へはこうして車を使いながらも、ささら舞の「四方固めの祓い」という意味を律儀に今に伝えています。


矢場川にかかる江川橋の上でも舞います

南の村境までは距離があるので車で出発

立ち話をしているうちに又戻ってきて、隊列を整え区長さん宅へ向かいます

区長さんの作業場のヤドで休憩


10. 木戸町のささら舞よ、永遠に。

 今回は友人とそのお知り合いの木戸町の方のお誘いで、素朴なムラの民俗行事「木戸町のささら舞」を拝見することができました。
 木戸町は街道沿いの小さな宿場のムラですが、県庁や市役所勤めの旧家の皆さんが頑張って、伝統あるささら舞を守っていました。
 
 私の住む八千代市内にも佐山と勝田に三匹獅子舞が残っています。

 一人ずつ獅子頭を被り、腰に腰鼓(羯鼓)を付けた太鼓踊りは、「一人立獅子舞」、また風流踊りの系譜を引くとして「風流獅子舞」に分類されています。
 そのうち三匹で舞う「三匹獅子舞」は、関東平野から福島県にかけてたいへん盛んで、かつてはどの里でも舞われていたそうです。
  
 この獅子舞が、木戸町のように「ささら舞」、あるいは「ささら」とも呼ばれるのは、かつて三匹獅子舞が「摺りささら」を楽器として持って舞う「ささら舞い」を伴っていたからでしょう。

 獅子舞は、獅子頭をつけて機敏に動く所作も多く、たいへん体力と技術を要します。
 どこのムラも後継者難に悩みつつも、民俗芸能としてだけではなく、ムラの安寧と五穀豊穣を祈る行事として一生懸命伝えていこうと努力しています。
 
 「今日は降ってきそうだから、はやく終わらなきゃ」といいつつ、区長さんの休憩所では、休憩ならぬ「宴会」が続いています。
 「雨乞い祈願」の名に恥じず、どうやら日光連山にも雲が立ちこめ、遠くで雷も鳴っているようです。

 「地区の外から見物に来てくれたのは久しぶり」と喜んでくださった「木戸町ささら舞保存会」の皆様には、区長さんの休憩所でお別れしました。
 
 最後に、獅子頭を頭にした赤ちゃんの写真を撮らせてもらいました。
 この子が大きくなったころ、木戸町のささら舞も続いているといいな、と思いつつ。