2007.6.24 By.ゆみ
さわらび考古学教室・「印波国造の本拠地を探る」
大塚初重先生と巡る公津原古墳群見学会
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まだ桜の花が咲き残る天王塚古墳の八坂神社参道入口にて |
神々に斎き守られた天王塚古墳
赤坂公園駐車場から再び車で移動し、印旛沼のニュータウンの北西部、天王塚古墳と、さらに北へ行った八代古墳群を訪ねました。
天王塚古墳(公津原21号墳=天王・船塚古墳群31号墳)は、墳丘長63mの前方後円墳。
公津原古墳群の中では船塚古墳の次に大きく、前方部には鳥居のあるりっぱな参道の奥に牛頭(ごず)天王を祀る八坂神社の祠が、後円部には反対から登る階段があって浅間神社の祠が祀られています。
天王塚はこの「牛頭天王」に由来するのでしょう。
この古墳は発掘調査されたことがなく、その年代ははっきりしないそうですが、墳頂に二つの神社が別々にあるように前方部も後円部と同じぐらい高く、またくびれ部分の高低がはっきりした形や、埴輪片から「船塚→石塚→天王塚」の順に築造されたと推定されるそうです。
いずれにせよ、これらの大型古墳の築造時期は、竜角寺古墳群のそれに先行するが、6世紀後葉には竜角寺古墳群にとって代わられるとのことです。
天王塚古墳の東側には、吾妻1丁目〜3丁目という町名の由来ともなっている吾妻神社があります。
弟橘姫を祭神として祀るこの神社の本殿は、吾妻塚、またドウロクジンとも呼ばれた径7m、高さ1.5mの古墳上にあり、日本武尊が走水で入水した弟橘姫をしのんでゆかりの品を埋めたところという伝承があるそうですが、走水が東京湾ではなく、印波の湖上と伝えられていることが、面白いですね。
「朝日さす 夕日さす日の瓢塚 漆千樽 朱千樽」という唄も天王塚に残されているそうで、まさにフォークロアの世界と共に伝えられてきた古墳群。
急速に都市化する中で、民俗学や郷土史の側面からも記録調査が大事かと思います。
天王塚前方部の頂に牛頭天王が祀られている
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天王塚(21号)古墳の南西側(前方部) |
後円部の浅間神社への急な階段の参道
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弟橘姫を祀る吾妻神社 |
☆印旛沼に臨む八代台古墳群にて
天王塚から印旛沼の東岸に沿って車で北上し、外小代公園内に保存されている八代台(やつしろだい)古墳群を訪ねました。
ここまで来ると瓢塚から北へ約2.6km来たことになり、ここから北西方向の竜角寺古墳群の岩屋古墳までの距離とほぼ同じくらいになります。
八代古墳群は総数31基、そのうち17基が現存し、公園までの道の両側にも5基、そして公園内には9基(公津原30〜38号墳)が保存されています。
墳丘長23mの前方後円墳墳(公津原38号墳)が1基、玉作遺跡に近い住宅街に残る辺11mと18mの方墳のほかの14基はすべて径15m以下の円墳で、累々と墳丘が連なる風景は竜角寺古墳群に似ています。
ここからは、広大な印旛沼の景色もよく見え、古代人の冥界に寄せる思いが感じられます。
大塚先生が、「八代台古墳群すこし時間をとってお話ししましょう」とおっしゃられ、一同、墳丘の斜面に座ってお話を伺いました。
<ここは、公津原古墳群の中の八代台(やつしろだい)古墳群です。
今このように円墳が残っているわけが、かっての印旛沼の波打際といいますか、そのような状況がわかるわけです。
この近くで、昭和37年、38年ごろですが、滑石製品を作る工房のあとが出てきたのです。
滑石製で勾玉や管玉や、双孔円盤、これは鏡だろうといわれていますが、鏡とか剣とか刀子、そういったいろいろな器物が出ました。
また石枕というものが、成田ニュータウンからも出ています。
古墳の中で豪族を埋葬する時に、木棺のなかに石枕を作るのですね。その枕が凝灰岩製であったり滑石製であったりします。
そういう石枕を作るのも利根川流域の茨城県内と千葉県内のこの一帯なんですね。
4世紀の後半から5世紀代に成田、香取郡この一帯にそういう石でいろんなものを作る工人集団がいた、ということがいえるんです。
こういうことを研究しておられるのは、和洋女子大の今は名誉教授の寺村光晴さんという先生です。
日本における玉作りの研究の第一人者です。
玉作りということになりますとお祭りの道具ということで、國學院大學の大場磐雄先生などもかかわって、成田へ来られて発掘をやったんですね。
千葉県内だけではなくて、東日本における古墳時代の中期古墳、4世紀末から5世紀代の石製模造品あるいは石製品、石のお祭りの道具、そういうものを利根川流域の香取郡を中心とした地域の古代の職人たち、八代の人たちが一生懸命作っていた、ということなんです。
今日、皆さんが最初にいかれた下平(げべ)も、かって丘陵が2つあって、谷があってすばらしいところだったんです。
花の木の団地が新しくできているところですが、千葉県の印旛郡市センターが発掘しました。その発掘で9世紀の初め、平安初期ぐらいの住居の中からカワラケに字が書いてあるのが出てきました。「八代」と書いてあるんですね。
この八代という地域で石製品を作っている、緑色凝灰岩で滑石製品とかを作っている集団がいた、ということなんですね。>
墳丘の連なる八代台古墳群(外小代公園) |
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振り返ると、夕陽に印旛沼の水面が光っていました |
☆八代玉作遺跡にて
最後に、その町の名も「玉造二丁目」の住宅街に残る八代玉作遺跡を訪ねました。
公園での大塚先生のお話しでもあったように、1滑石製の管玉、勾玉などを製作した工房跡で、この工房は1962〜3年に調査発見された当初と1971年のニュータウン造成に伴う周辺の調査の結果、計10軒の竪穴住居が谷を囲むように位置して、玉作りたずさわっていたことがわかりました。
そしてこの遺跡での調査は管玉の製作技法(「八代・大和田技法」、大和田は下総町の遺跡)の解明にもつながり、この貴重な結果が、その後の北総の玉作遺跡発見の契機となったという点からも、1977年千葉県指定史跡になりました。
現在この遺跡の保存区域は、三方を住宅に囲まれ、東側は下に玉造小学校を望む台地の縁にあります。
真ん中に桜の木が、そして端にやや文字の消えかかった説明板があるのみで、この遺跡のある台地は北東を利根川へ流れる小橋川、南西を印旛沼へ流れる江川に囲まれた台地であったらしいのですが、大規模なニュータウン造成により、かつての自然地形は大雑把な起伏程度しか把握できません。
さてここで大塚先生との見学会はおしまいです。
最後に、夕陽を浴びながら、遺跡のねむる桜の木の下で、記念写真を撮り、車で、また台方遺跡のあった花の木台団地まで戻り、ファミリーレストランで、一緒に休憩をした後、帰路に着きました。
大塚先生、そしてご参加の皆様、お疲れ様、そしてありがとうございました。
「ここが県指定史跡の玉作遺跡です」 |
文字の消えかかった玉作遺跡の説明板 |
夕陽を浴びて記念写真、充実した見学会でした。 |