2007.6.23 By.ゆみ

さわらび考古学教室「印波国造の本拠地を探る」
 
大塚初重先生と巡る公津原古墳群見学会
 W

☆住宅団地の中の石塚古墳

石塚古墳(=公津原16号墳=天王船塚古墳群16号墳)


 船塚古墳の西側の高台の住宅団地と吾妻小学校などの庭の中に、石塚古墳
(=公津原16号墳=天王船塚古墳群16号墳)を含め、8基の古墳群(公津原10〜17号墳)が、保存されています。

 石塚古墳は墳丘長35mの小ぶりの前方後円墳で、採集された埴輪から、船塚古墳の後に築かれた古墳のようです。

 緑とともに自然なたたずまいで残されたその風景は、団地にお住みの方にお聞きすると、「古墳と住む街」として、住宅販売促進の一助になっていたとのこと。
 集合住宅の間に小さな公園、テラス住宅、小学校や保育園の庭先などのここかしこに点在する古墳群は、子供たちの格好に遊び場だったり、犬を連れての散歩道だったり、生活に密着した存在になっているようです。
 


団地内の説明板 
(クリックすると読める大きさになります)

集合住宅の間の細い小路の先に石塚古墳はありました。

前方後円墳の石塚古墳遠望

円墳の公津原10号墳(=天王・船塚13号墳)




「今は跡形もありませんが、埴輪の窯跡はこのあたりでした」
☆公津原古墳群の埴輪窯跡をみる
 静かな住宅街から、ニュータウンの一番にぎやかで、人もお店も施設もいっぱいな赤坂消防署前交差点へ歩いて行きました。
 赤坂公園内の池から続く谷頭の地点、消防署の向かい側のスーパーカスミの南端で、千葉県でも珍しい埴輪を焼いた窯跡が見つかり、調査されました。
 『千葉県の歴史 資料編』によれば、完全地下式の無階無段式の窖窯で、全長16m、円筒埴輪の破片が多く検出されたそうで、どれも、四条五段構成で下から2段目と4段目に1対の透かし孔が空き、寸法も同じに規格化された円筒埴輪だったそうです。
 このほかは、朝顔形埴輪・人物埴輪の腕や着衣の裾・沓先、靭
(ゆき)のひれ部分片等々のようです。
 窯跡の周りには、工房跡と思われる竪穴建物跡が4軒見つかったそうですが、今は遺跡を偲ばせるものは何一つ残されていません。
 今回は大塚先生のご案内で、ここだったとわかりましたが、せめて説明板だけでも現地にあってほしいと感じました。

大塚先生のお話しから
<今、ボンベルタというデパートがありますが、そのボンベルタの前に赤坂消防署があります。その赤坂消防署の通りを隔てた向こうに大きなショッピングセンターがありますが、その角のところに埴輪の窯が出ました。
 千葉県で埴輪の窯は二つしか発見されていません。
 一つは木更津の畑沢という所の埴輪の窯ですが、もう一つが、この成田ニュータウンにある埴輪の窯なんです。
 今はもうなくなってしまいましたが、その窯からかなりの量の資料が出ました。
 円筒埴輪を中心として、人物埴輪も焼いているということがわかっています。
 しかもそれは、この船塚古墳から出ている埴輪と同じ特徴だと分かりました。>



  緑と水と太陽のまち 

       成田ニュータウン



草萌える北総の台地は
 永遠の心のふるさと 
緑なす公津原にのこる古墳は
 人びとの生きた証

水藻にゆれる印旛沼は
 憩いのオアシス 
ナウマン像を追った3万年の昔から
 人びとの命は清冽な水

宇宙の女神は愛の陽光を
 おしみなくニュータウンの台地に注ぐ
緑と水と太陽の
 シンフォニーがいま始まる 

昭和62年7月吉日 
      明治大学文学部 大塚初重作


      -ニュータウンセンター広場メモリアルパネルより-

大塚初重作詩のメモリアルパネル
 船塚古墳から反時計回りに歩いて、ショッピングセンター・ボンベルタ百貨店のテラスで休憩しました。
 赤坂公園の緑の景観が展望できるこの広場には、「ニュータウン古墳マップ」の看板と、大塚先生が創られたすばらしい詩の記念パネルがあって、市民に親しまれています。
 大塚先生は、苦笑されながら、ご自分が作詩に苦労された時の「秘話」をもらされました。

 <成田市から、記念碑の詩を書いてほしいといわれ、引き受けてしまったんだけど、論文や本を書くのとは大違い。それが、なかなか書けないんだな

 歌謡曲の歌詞の載っている本など買ってきて、言葉を勉強したけど、期限の日が近づいてもなかなか書けない。
 やっと書いたけれど、もう安易に引き受けちゃいけないと、つくづく思い知らされました。>



公津原5号墳(右)と6号墳(左)

公津原5号墳

公津原7号墳
ボンベルタ内の瓢塚古墳群
 船塚古墳の南には、印旛沼ではなく利根川に通じる小橋川からの大きな支谷が入っていて、今は公園内の池になっていますが、その谷を隔てた南側の台地に、瓢塚古墳群がひろがっています。
 このあたりは、ボンベルタや成田ニュータウンセンタービル、郵便局など大型の施設が林立していて、『千葉県の歴史・資料編』に発掘成果が記載されている瓢塚古墳群16号墳(辺13mの方墳)、同17号墳(径27mの円墳)、同32号墳(径27mの円墳)、同39号墳(辺20mの方墳)、同40号墳(辺13.5mの方墳)、同41号墳(長辺16.5mの方墳)は、「ニュータウン古墳マップ」の看板にはなく、きっとこのビル街や道路の下になってしまっていると思い巡らすほかはありません。
 それでも、ボンベルタとセンタービルの間の空間には、公津原5号墳(径35mの方墳
=瓢塚26号墳)、公津原6号墳(辺34mの方墳
=瓢塚25号墳)、西側のボンベルタと立体駐車場の間には、公津原7号墳(径32mの円墳=瓢塚14号墳)がきれいに整備されて保存されています。
 こうしてリストアップしてみると、瓢塚古墳群は方墳がめだちますね。
 地域的な、また時代的な偏差、竜角寺古墳群と比べ、古墳の形から何が見えてくるのか、大塚先生著書『東国の古墳文化』は大きなヒントを提起してくれています。

 暑かった五月晴れの太陽も午後3時の昼下がりになると少々傾き、涼風がビル街を通り抜けていきます。
 夕方の買い物客でにぎわう前に、私たちは、赤坂公園駐車場に戻り、車でニュータウン北側の古墳群と遺跡を訪ねることにします。