2007.6.13 By.ゆみ
さわらび考古学教室・「印波国造の本拠地を探る」
大塚初重先生と巡る公津原古墳群見学会
V
☆公津原古墳群の概要
ちょうどお昼ごろ、大塚先生のお宅で先生と合流、ニュータウン内の夢庵でご一緒に昼食を摂り、隣接した公園内の瓢塚古墳で、記念撮影を撮って、大塚先生とともに巡る公津原古墳群見学会がスタートしました。
成田ニュータウン内には、現在、38基の古墳が公園化して保存されています。
麻賀多神社境内の伝印波国造伊都許利命墳墓を含めると、39基の古墳が保存されていますが、成田ニュータウン造成以前には119基に達する古墳があったそうで、『利根川図志』にも「公津の八十塚」とその数の多さを記しています。
多くは都市公園として保存され、新しい街と共存しているこの古墳群は、北から八代台古墳群、天王・船塚古墳群、瓢塚古墳群からなります。
☆瓢塚古墳(公津原3号墳)にて
この瓢塚古墳群には、宅地開発以前に前方後円墳1基、方墳17基、円墳23基、墳形不明1基の48基があったそうで、現在は、ボンベルタデパートから西中学校に至る地域に、前方後円墳1基、方墳16基、円墳31基が残っています
瓢塚古墳は全長45mの中規模ながら、稜線が精美な前方後円墳。
方墳と円墳の多い瓢塚古墳の中で、前方後円墳はこれ1基のみ際立っていますが、前方部の高さに対し、後円部が高い墳丘形態から考えると、比較的古い段階の古墳だそうです。
美しい瓢塚古墳の姿
「前方部の低い点から古い段階の古墳であろうと思われる」と大塚先生「このようにりっぱな周溝が回らされ、保存状態もよい古墳は貴重ですよ」
☆船塚古墳(公津原8号墳=天王・船塚古墳群1号墳)にて
軍艦のような古墳の姿が目の前に
昼食をとった夢庵の駐車場から、赤坂公園駐車場へ車で移動し、広大な赤坂公園内に保存されている船塚古墳などを歩いてみることにしました。
大型古墳の多い天王・船塚古墳群の中でも、船塚古墳は、3段築成、二重の周溝も見られる墳丘長86mの超大型の古墳です。
「前方後方墳」とはいうものの、墳形は括れ部がほとんど認められず、周溝も長方形で、『千葉県の歴史』では「長方墳としか形容できない」と表現して、表採される埴輪片は「6世紀初頭の資料の可能性」を示唆しています。
軍艦のようにでんと横たわる船塚の雄姿をしばし眺めてから、墳頂に上がって、大塚先生を囲んで、昭和30年の果たされなかった発掘調査についての「秘話」(⇒「船塚古墳について」に掲載)をご披露いただきました。
<私はこれを前方後方墳の一種類としてとらえて、明治大学で掘るべきだと考えました。
地主さんに「測量させてください」とお願いしますと、「ああ、いいですよ」というので、昭和30年の5月か6月ころに、学生さん6人ほど連れて、測量に来ました。
地主さんに相談して、明治大学で発掘するならどうぞと、発掘承諾書まで書類にハンコをいただきました。
ところが、明治大学のS先生から、「大塚、そんなずん胴な、くびれがないような古墳は掘るな」と反対されたんです。
それでできなくなってしまいました。>
南側の前方部(?)の不思議な凸凹の地形は、1952(昭和27)年ころに成田高校の郷土研究部が掘って石棺が出たという伝えがあるそうで、このとき埴輪の破片も採取しているそうです。
船塚古墳(公津原8号墳=天王・船塚古墳群1号墳)の雄姿
墳頂の木陰で、大塚先生の熱っぽいお話しに聴き入りました
右手の凸凹は、成田高校の郷土研究部が掘った跡とか
古墳内側の周溝にて
同じく赤坂公園内に保存されている公津原9号墳(=天王・船塚古墳2号墳)