2007.6.10 By.ゆみ

さわらび考古学教室「印波国造の本拠地を探る」
 
大塚初重先生と巡る公津原古墳群見学会
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麻賀多神社奥宮


伊都許利銘墓碑
磯部昌言が元文2(1737)年に撰文


印旛沼に面した境内に咲く
キンラン
☆麻賀多神社奥宮と伊都許利命墓伝承

 印旛沼の東端、甚平橋を渡り、江川に沿った谷津田の奥の坂道を登りつめると、台地上の縁に、麻賀多神社と初代印波国造の伊都許利命の墳墓と伝承される方形の古墳があります。
 社伝によると、日本武尊東征の折、大木の虚に鏡をかけ、根本に七つの玉を埋めて伊勢神宮に祈願したとされ、後に伊都許利命がその鏡と七つの玉を、霊代として鏡はこの稷山(あわやま)に、玉は台方の麻賀多神社に奉斎したとのことです。

 神社に隣接して伊都許利命の墳墓とされる方墳があり、その墳頂上には、金毘羅様と伊都許利命を祀った祠と、『佐倉風土記』を著した磯部昌言が元文2(1737)年に撰文し、太田屋玄が建碑した石碑がたっています。
 この石碑は箱式石棺の石材を利用した片岩製で、また古墳関連の碑文としては、関東地方最古の碑文でもあるようです。

伊都許利銘墓碑文
     (『佐倉文庫・新撰佐倉風土記』の書き下し文を参考にしました)


總の下州印波郡御稷山の艮(うしとら)三百弓 瀛宮
(おきつみや)の巽二十弓に巨壙有り 伊都許利の墓たり 
祠を上に安んじて 二神を配享し 己に千有余載なり
謹んで按ずるに 命は神八井耳命の八世にして応神帝に仕え 印波国造たりと旧事本紀に載す
其の稚産霊
(わくむすびのみこと)を祭り国社となし 稚日霊(わくひるめのみこと)を祭り瀛宮となす
すなわち社司従三位藤家清 乾元中 記す所を見るに 徳容功業を以て名となす
是れ上世の禮なり 伊都 即ち五土の数 許利 即ち凝金の質なり 土金併せて敬うの義となす 而して至道存す
民のため社を建て 以て治統を垂れ則ち、其の徳功亦知るべきなり
家清十八葉孫正六位屋玄 追崇し碑を建て銘を請う 
銘に曰く
  稷山之艮
 瀛宮之巽 地當二龍岡一 
  魑魅逖遁
(ちみてきとん) 龍神維安 蘋祭(ひんさい)時獻
  為鎮為守 徳輝何遜  五擬示敬 
  百代執愿 與邦共長 山環海撰
(※正確にはサンズイに巽)

   元文二年冬十一月 
   山州淀府行軍使磯邉昌言謹んで撰す



☆伝初代印波国造の墳墓古墳(公津原39号墳=天王・船塚古墳群27号墳)

 一辺36mの方墳。道路側の南辺中央部に石室がわずかに開口していて、覗き込むことも難しいのですがデジタルカメラを挿入し撮影すると、凝灰質軟砂岩製、単室構造の横穴式石室ということがわかります。同様の構造を持つ古墳は公津原古墳にはなく、竜角寺古墳群の岩屋古墳の石室に近いとのことです。

 また、神社参道側の西辺には、2段築成されたテラス状部分に箱式石棺が1基発見され、側石の一部と天井石が露出しています。
 長軸はほぼ主軸に平行し、石材は絹雲母片岩で、7世紀代に築造された古墳と考えられています。
文久4(1864)年、(または明治9年)に大木が倒れその根元から露出したと伝えられ、その際発見された鏡と玉などは、麻賀多神社に伝えられているそうです。

 またその左手前にも、2枚の大きな片岩が置かれ「伊都許利命墓出土」という標柱がありますが、由来は不明のようです。


伊都許利命墓を伝えられる方墳

西辺テラス状部分に露出した箱式石棺

墳丘南辺にわずかに開口している石室に→

デジタルカメラを入れ石室内部を撮影


☆台方下平遺跡の跡

 麻賀多神社前の坂を登りきったところに二つの舌状台地、台方下平T・U遺跡がありました。
 平成14年から発掘調査された東側のU遺跡からは、縄文中期〜奈良平安時代の住居跡457軒、古代の掘立柱建物跡154軒、その他縄文〜古代の土坑88基などの遺構が、見つかっています。
 また続いて調査されたT遺跡からも、240軒の住居跡が見つかっており、両遺跡とも5世紀後半ごろから9世紀にかけて継続して大規模な集落が営まれてきたことがわかってきました。

 この遺跡も2003年9月の現地説明会を最後に、台地ごと土取りされて姿を消し、今は成田市公津西土地区画整理事業区域の花の木台となってしまっています。
 参加された皆様には、資料を参考に、遺跡の付け根の畑から造成中の団地を見下ろしながら、わずかに残った遺跡の付け根の畑から、土師器のかけらを拾いつつ、かつての地形と遺跡の姿をイメージしていただくしかありませんでした。

  
台方下平T・U遺跡の台地が丸ごとなくなって、現在は花の木台団地が造成中

わずかに残された遺跡の付け根の休耕地には土師器のかけらが多数散乱しています