Photo 2007.7.10〜20
UP 2008.4.30 By.ゆみ
2007年7月10〜20日 =イタリア聖地巡礼の旅日記= 天正少年使節の足跡を追って [ 7月12日 ローマにて-8 |
さて7月12日(水)午後です。
1世紀の円形劇場 コロッセオ
キリスト教徒を含む多くの人々や動物たちの血が流れされたと
伝えられる。
キリスト教拡大により、325年にはコンスタンティヌス帝が
禁止令を出したが実効されなかった。
404年、修道士が闘技場に飛び降り命がけで中止させ、
これを最後に剣闘士の殺し合いは終わったという。
車窓から、A.D72年から血なまぐさい試合が三百年余行われ、今は人権尊重と迫害防止を求める運動もおこなわれている歴史的建造物コロッセオを眺めながら、古代ローマの城壁の外にでて、古代アッピア街道沿いのカタコンベを訪ねました。
その中でこの日のミサを捧げることになっています。
城門を出て、私たちは、名ガイド・コンプリ神父様の「ここがドミネ・クォ・ヴァディス(主よ、どこへ行かれるのですか)で有名な教会のある場所です」などの説明をお聞きしながら、バスに心地よく揺られて、ローマ郊外の美しい景色に見とれているうち、やがてサン・カリストのカタコンベのある場所に着きました。
サン・カリストのカタコンベ(LE CATACOMBE DI SAN CALLISTO)
大きなカタコンベは、いくつかあるのですが、そのほとんどは、ローマの街の外にあります。
城壁内の町中には死体を埋めてはならないというローマの法律により、町の城壁の外側で大きな街道に沿った場所につくられたからです。
カタコンベは、2世紀から5世紀前半まで掘り続けられた古代の地下墓地で、ローマではキリスト教徒やユダヤ教社会が使っていた単なる墓地でしたが、ローマでキリスト教が公認されるまでの迫害の時代、殉教者や死者を記念する祭儀を行っていました。
サン・カリストのカタコンベはそのうちの一つで、面積は15ha、地下道の長さは20q、4層からなり、深さが20m以上もあるローマで一番大きな共同墓地だったそうです。
キリスト教徒は死者の復活を信じて、イエスが埋葬されたように地下の横穴の墓地に大切に、また簡素に葬られることを望み、また共同体としての意識から、"死の眠り"についた時にも皆と一緒にいたいと思ってました。
そしてここではまた、キリスト教徒特有のシンボルを自由に使うことができたことが、発掘によって明らかにされています。
そしてやがて迫害が終わってからは、特に教皇聖ダマソ1世(336-384)の時代に、カタコンベは正に殉教者たちの祭られている巡礼地となり、ローマ帝国各地からキリスト教徒が巡礼で訪れる信心の中心地となったそうです。
サン・カリストのカタコンベだけでも、10体の殉教者、16人の教皇とおびただしい数のキリスト教の信徒が埋葬されているとのことです。
(参考HP:ローマのキリスト教カタコンベ)
サン・カリストのカタコンベ周辺の風景
この土に下にも長い地下道があるのでしょうか
カタコンベへの道標
サン・カリストのカタコンベの入口
サン・カリストカタコンベを発掘した考古学者
ジョヴァンニ・バッティスタ・ディ・ロッシ(1822-1894)
写真集や資料を扱う売店
墓穴をふさぐ石板の彫刻
初期キリスト教のシンボルをデザインした石板の線刻の複製
舟、羊飼い、魚、錨は、キリストとその信仰を表す
カタコンベは、教皇庁宗教考古学委員会の委託で神聖な宗教施設として管理され、また考古学上重要な遺跡として見学者に丁寧なガイド付きで公開されていますが、同時に死者の眠っていた場所として地下道の中は撮影も禁止され、静かな祈りの場所となっています。(⇒教皇ヨハネ・パウロ2世の教皇庁宗教考古学委員会への講話「カタコンベの歴史的、霊的な意味について」)
今回の巡礼では、地下道の一室、カタコンベの沈黙の中で、特別にミサを捧げました。
信仰の初期に力強くあかしをした人々、平等に葬りあった共同体の友愛、そして復活の望みをもって眠りに就いた私たちの身近な友や家族に思いを馳せた、深い感動のひと時でした。
眠りに就いた全ての兄弟たちと、静かなカタコンベでのミサ
偶然、一緒にミサに参加した日本からの見学者の方の上にも
「主の祝福がありますように」
聖パウロ大聖堂(Basilica di San Paolo fuori le mura)にて
本日の巡礼最後のハイライトはサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂、「フオーリ・レ・ムーラ」とは「城壁外の」というの意味だそうで、使徒聖パウロはローマのエウル地区で殉教しましたが、城外のこの地に埋葬されました。当時は湿地帯で、人家などなかった荒れ地だったようです。
パウロはギリシア文化圏に育った分散ユダヤ人。律法に厳格な教育を受け、熱心なユダヤ教徒の立場から、初めはキリスト教徒を迫害する側についていましたが、復活したキリストに出会い、「目から鱗が落ちた」回心体験から、「異邦人の使徒」として初期キリスト教の発展に大きな役割を果たし、地中海を旅する偉大な伝道者となりました。
「わたしはキリストに捕らえられたので、なんとかしてその死と復活にあやかろうと走りつづけています」(フィリピへの手紙)
この聖堂はコンスタンティヌス1世により聖パウロの墓の上につくられ、386年、テオドシウス1世によって大規模に建設、その後何回も拡張・改修が行われ、現在のサン・ピエトロ大聖堂が建立されるまでは、千年以上に渡ってキリスト教世界最大の教会でした。
アラバスター(透明な天然大理石)の窓からやわらかな光りが入る1つの身廊と4つの側廊からなる5廊式の広い内部、正面上にはテオドシウス帝の娘でラヴェンナに霊廟のあるガッラ・プラツィーディアが5世紀に捧げたという「勝利のアーチ」、奥には13世紀アルノフォ・ディ・カンピオの手になるビサンチン形式の中央祭壇の天蓋モザイク、そして外にはコスマテスク風の付属修道院の中庭など、世界で最も美しいバジリカでもあったのです。
残念なことに 1823年に火災で焼失しましたが、世界中からの献金で再建工事は直ちに開始され、散ってしまったモザイク片を集め修復する気の遠くなる作業の末、創建当時のバジリカ様式をほぼ忠実に再現した現在の教会が1854年に完成しました。
私たちは、中央祭壇から聖パウロの埋葬されたクリプタに降りて、そこで、今日一日の巡礼感謝の祈りを聖パウロに捧げました。
ちょうど、東方教会からの巡礼者とみられる一団が祈りを捧げていて、その敬虔な姿には、教えられるものがありました。
(このページを制作している2008年は、聖パウロの生誕2000年にあたって、特別聖年だそうです。HPを作りながらあらためてパウロについて学んでいます)
左:聖パウロ像の立つ聖堂正面 [大] 右:聖堂内部 [大]
中央祭壇から降りて、聖パウロの墓所の前で、東方教会の巡礼者とともに祈りました。
13C ベネディクト派修道院の中庭
中庭回廊に展示された美術品のひとつ
聖パウロの石棺の蓋と伝えられる遺物
明日は、いよいよローマを離れ、天正少年使節の足取りを追って、アッシジとロレートの聖地に向かいます。
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