Photo 2007.7.10〜20
UP 2008.4.30 By.ゆみ


2007年7月10〜20日
 

=イタリア聖地巡礼
旅日記=
天正少年使節の足跡を追って Z

7月12日 ローマにて-7

まだ7月12日(水)午前の続きです 


ベルニーニの象の彫刻に据えられたオベリスク
(オベリスクの右後ろは、パンテオンの壁)
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会

 古代ローマの神殿建築に加え、エジプトのオベリスクさえも街の風景となっている教会がありました。
それはサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会。ローマ帝政時代のミネルヴァの神殿の上に建てられた聖母教会という意味でしょうか。実際は隣接したイシス神殿跡という説もあるようです。

 教会の創建は8世紀ですが、13世紀にドミニコ会の管理下に入り、完成したのは1370年。
 その後何度も改修されており、簡素なファサードは17世紀のものだそうです。

 ミネルヴァ教会前の広場に、象に乗ったオベリスクがあります。下部の象の彫刻はベルニーニ (1598-1680) の傑作です。

 紀元前6世紀、エジプトのアプリス王がサイスに建てた短めの1対のオベリスクの1本で、オベリスクがローマに運ばれた経緯はわかりませんがおそらく1世紀のことで、当時はイシス神殿を飾っていたと思われます。

 1665年、教会の後ろの土中から発見されたこのオベリスクを建てるにあたって、時の教皇アレッサンドロ7世はベルニーニに依頼し、彼は象の背中に載せるデザインを考案しました。
 そして、象のあらわす「強さ」と、ミネルヴァ神のもつ「知性」を象徴して、土台にはラテン語で「確固たる精神には健全な知識が必要である」としるしました。

 オベリスクを支えるため頑丈に造られた外観のこの象の彫刻は、「ポルチーニ」(子ブタ)という愛称をもたらし、さらにローマの方言で「Pulcino」となまって、結局「 Pulcino Della Minerva」(ミネルヴァのひよこ)と呼ばれています。
 

 あまり目立たないファサードから、中に入ると、青色に金の縁取りのアーチ形天井の息をのむ美しさ、星の輝く宇宙を表す天井は、ローマの唯一のゴシック式教会でありながら、イタリアらしい明るさに満ちていました。

ファサードの入口「聖ドミニコと聖母子」

サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会内部
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フィリッピーノ・リッピによるフレスコ画「聖トマス・アクィナス」 [大]


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 サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会は、また南側翼廊「カラファ家の礼拝堂」のフィリッピーノ・リッピによる聖トマス・アクィナスの逸話を描いたフレスコ画や、ミケランジェロ作「救世主イエス・キリスト像」の美術的価値でも知られていますが、シエナの大聖女カタリナのご遺体、フラ・アンジェリコの墓など、ドミニコ修道会に縁のあった方々が眠っている祈りの聖堂でもあります。
 シエナの聖カタリナの祭壇の前には、巡礼者のろうそくが絶えることなく灯されていました。


ミケランジェロ作「救世主イエス・キリスト」

    
左:14世紀のシエナの聖女カタリナのご遺体                右:フラ・アンジェリコの墓


 さてわが天正少年使節団は、教皇グレゴリオ13世との感動の謁見の2日後、 1585年3月25日のこのミネルヴァ教会への年中行事の行幸に際して、日本の着物を着て随行したといいます。その行事とは、親を失った乙女160人に対し名門青年との結婚を援助するドメニコ会のチャリティー事業で、伊東マンショと千々石ミゲルは名誉なことに、教皇の外衣の裾を捧げ持っての参列でした。
 その後も、最晩年の教皇は3月29日はサン・ピエトロ大聖堂の儀式へ、31日はヴァチカン宮内のミサへ招待され、4月3日には特別の引見をされたのでした。
 そして使節たちが4月9日から10日にかけてローマの「七つの聖堂」を巡礼中の第2日目、教皇聖下逝去の悲報がもたらされました。臨終のお言葉は「日本の公子たちはどうしているか」というただ一言であったといいます。
(参考:松田毅一『天正遣欧使節』)
 


パンテオン(Pantheon)にて

 ミネルヴァ教会に隣接して「パンテオン」があります。
 もとはさまざまなローマ神を奉る古代の神殿で、ローマ神が信じられなくなったあとも、608年頃キリスト教の聖堂となってその後の戦乱でも破壊を免れ、偉大な古代ローマ建築が今に伝えられているわけです。

 最初のパンテオンは紀元前25年、パラティヌスの丘に、初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近・アグリッパによって建てられ、火事で焼失した後、現在のパンテオンが118年から128年にかけて、ローマ皇帝ハドリアヌスによって再建されました。
 高さと直径43.2mの巨大なドームで、頂上部分には採光のためのオクルス(「目」の意) が開口しています。

 ルネッサンスのころからこの聖堂は有名な人の荘厳な墓として利用され、ラファエロの墓もここにあります。
 また、近代も、最後の王ウンベルト1世などイタリアの2人の王がそこに埋められています。イタリアは1946年以来共和国ですので、時代錯誤との批判もある中、イタリアの君主主義のボランティアのメンバーが直立不動で未だその王墓を護っていました。

 ここは、ローマの教会巡りと、古代ローマ遺跡探訪の見学者がともに行きかう聖なる空間ですが、ローマ名所の目玉でもあって、いろいろな国からのノースリーブのなど自由な服装の観光客でいっぱい。ガイドさんの説明もそこそこに、早足で見て回りました。

  

巨大な花崗岩コリント式円柱の並ぶ柱廊玄関

パンテオン内部
   
左:ラファエロの墓の上の胸像                       右:ウンベルト1世の墓


街全体が文化遺産=ローマの街角スナップ
 正午ごろ、ペトロ岐部がイエズス会修練院で司祭になった後、一時修道生活をしていたキリナーレの丘のサン・アンダレ教会を訪ねたのですが、残念ながらお昼休みにかかってしまい、門が開きません。
 イタリアの昼休み「シェスタ」は、お店もオフィスも教会もカテドラルも正午ごろから3時間以上しっかり休みます。インターフォンでガイドとコンプリ神父が連絡をとったのですが、泣く子とシェスタにはかないませんでした。

 一方通行で街中をぐるぐる回るバスの中から、また乗り入れ禁止や停車できずにバスを降りて、ローマの市街地をうろうろしながら撮った街の風景は、まさに街全体が文化遺産という印象でした。


エマヌエーレ2世記念堂はバスの中から

教会で使う聖具を扱うお店のショーウィンドウ

ローマの街中にて

サン・ベルナルド広場

サンタ・スザンナ教会

クィナーレからの街の通り

4つの噴水のある交差点

ペトロ岐部ゆかりのサンアンダレ教会・右は大統領官邸

サンアンダレ教会は昼休み中

ローマの街角にて

インテリアの生地を扱うお店

13:15やっとランチとなりました
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