Photo 2007.7.10〜20
UP 2007.8.21 By.ゆみ


2007年7月10〜20日
 

=イタリア聖地巡礼
旅日記=
天正少年使節の足跡を追って W

7月11日PM-2 ローマにて-4

7月11日(火)PM 

 

ジェズ教会
質実剛健なイエズス会らしい
重厚で質素なファサードです
この日の午後はさらに、イエズス会のローマ本部とジェズ教会を訪ねました。
 天正少年使節が、1582年2月20日に長崎を出帆、ゴアを経て1584年8月10日リスボンに着。その後、スペイン〜マリョルカ島〜イタリアのリヴェルノ〜 ピサ〜フィレンツェでの歓迎を受けながら、ローマに着いたのは1585年3月22日の夜。
 それからローマと出立する6月3日まで、少年使節一行が宿舎にしたのが、ここジェズ教会のあるイエズス会の本部です。
 そもそもこの少年使節派遣を発案したのは、イエズス会の宣教師ヴァリニャーノでした。
 イエズス会は、1534年イグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルを含む6名の同志によって「モンマルトルの誓い」がたてられ、1540年教皇パウルス3世により認可された修道会です。
 イエズス会は、おりからの宗教改革の気配の中、カトリック教会内部の刷新と回心をめざし、高度な教育と、教皇への忠誠、そして宣教においては現実主義的な戦略を持ち、ルネッサンス後期、東アジアや新大陸での海外宣教活動では、大きくリードしていました

 そして、イグナチオ・デ・ロヨラが念願したジェズ教会が、ローマのこの地に完成したのは1584年のこと。 少年たちは前年にできたばかりのこの聖堂を目にしたわけです。
 このイエズス会の母なる聖堂は、その後世界各地のイエズス会の教会の典型となっていったとか。
 少年たち、そしてアジア大陸を踏破してローマにたどり着いたペトロ岐部も、ここでイエズス会士たちと祈ることも多かったことでしょう。




身廊の壁左右に並ぶカペラ(小礼拝所)の一つ

右側の、聖フランシスコ・ザビエルの右手のあるカペラ。
(多くの人を祝福した手ですが、日本人?にはちょっと慣れない聖遺物ですね)

ステンドガラス
教皇にイエズス会の会憲の認可を得る
聖イグナチオ・ロヨラ一行

天井は空が立体的に見えるだまし絵
見上げすぎて首が痛くならないよう鏡が用意されています
見とれて撮影を忘れましたので、このHPを見てください



大聖堂からイグナチオのカメーレ(間)への回廊
ここも、立体的に見える絵画→で埋め尽くされています

聖母子像
額縁にも柱も額を支える天使も全て絵画です   [大]


 ヴァリニャーノは、少年使節派遣の目的をこう説明しています
 「第一はローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の援助を頼むこと。
第二は日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光と偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てたいということであった。」

 そして、この長旅の中で、少年たちがラテン語と日本語の習得、教養も身につけるよう、また華美な宮殿や社交界での滞在を極力さけ、清貧な生活が維持されるよう、ヴァリニャーノは、ゴアで一行と別れても、特段の配慮を各方面に依頼していました。
 ですから、この修道会本部は、ローマでの少年たちの「家」でした。


 ジェズ教会内部は、その後17〜18世紀の改修でバロックの過剰な装飾が目立つようになりますが、回廊を経て修道院の建物に一歩入ると、そこは、質素で静かな空間でした。
 今もイグナチオ・ロヨラがイエズス会の会憲を執筆したという4部屋が残されています。


イグナチオ・ロヨラがイエズス会の会憲を執筆した部屋


部屋の修復の際に発見されたイエズス会のマーク
日本のIHS萩螺鈿蒔絵聖餅箱書見台と同じデザインです
        
イグナチオ・ロヨラの事績の印刷資料と聖母子のイコンが置かれていました

「イエズス会日本殉教図」
ガラスが光って見えづらい画像ですが、このHPに鮮明な絵が載っています

大聖堂の横にあるチャペルでのミサ
 夕方5時ごろ、ジェズ教会のチャペルで、 今回の巡礼で初めてのミサに与りました。
 はるばるローマまで到着した思いを、初めて異文化に接した少年たちの感動に重ね、稔り多い旅となりますように祈りました。

 外へ出ると、午後6時なのに夏時間のローマはまだ日が高く、7時半ごろようやくバチカン近くのレストランでディナーとなりました。
 街がすっかり暗くなったのは、9時半ごろ。ホテルへの帰り道、振り返ると、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂がライトアップされて、澄み切った夜空に映えていました。
 明日は、夜明けに早起きして、ヨハネ・パウロ2世のお墓参りに行く予定にします。
  
夜のサン・ピエトロ大聖堂
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