Photo 2007.7.10〜20
UP 2007.8.24 By.ゆみ


2007年7月10〜20日
 

=イタリア聖地巡礼
旅日記=
天正少年使節の足跡を追って X

7月12日早朝 ローマにて-5

7月12日(水) 
早起きは三文の徳?、ちょっと眠いけれど、夜明けともに起床して、サン・ピエトロ大聖堂を再訪しました。
空は、快晴。6時半にホテルを出て、7時の開門に間にあいました。

大勢の行列と混雑にビックリしてしまった昨日のバチカンの姿.
今日は、その混雑にはまだ少しの時間があるようで、静かな聖地の気分を短い間でしたが、味わうことができました。


修道女の方々も道を急いで

サン・ピエトロ広場に着きました(AM6:50)
   
1586年にシクト5世によりこの広場中央に移されたオベリスク。先端にはキリストの十字架の一部が納められている。 
(ところでオベリスクの周りの石は、もしかしたら日時計?)

朝日に輝くファサード。 その上の

復活したキリスト像と聖人の像も、紺碧の夏空を指差して・・

 
 大聖堂の中に入ると、静寂な聖堂内にミサの祈りの声だけが流れています。
 おじゃまにならないよう、足音を忍ばせながら、歴代教皇のクリプタ(地下墓所)に下りていきました。
 聖ペトロの墓があったと伝承されたこの所に、このサン・ピエトロ大聖堂が築かれたわけで、聖ペトロとその後継者である教父・歴代教皇の眠るクリプタは、この大聖堂の中でも特に厳粛な祈りの場所でもあります。

 私たちは、敬愛すべきヨハネ・パウロ二世のお墓に向かいました。

 教皇ヨハネ・パウロ二世が、「平和の巡礼者」として教皇としてはじめて日本を訪問されたのは1981年2月のこと。
 広島、長崎から全世界に向けて発せられた「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。・・・過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです。・・・人類は、自己破壊という運命のもとにあるものではありません。イデオロギー、国家目的の差や、求めるもののくい違いは、戦争や暴力行為のほかの手段をもって解決されねばなりません。」という「平和メッセージ」の言葉は、混迷していた私の心に大きなインパクトを与え、そして今でも人々の記憶に残されています。

 全世界の人々に愛されたヨハネ・パウロ二世は、2005年4月2日逝去され、ヨハネ23世の石棺のあった所の地下に、遺言どおり土中に埋葬されたそうです。
 私たちは世界中からお参りに来た多くの方々とともに、世界平和の実現、貧困などの社会の不正の改善、教会の改革と宗教界の和解のために奔走された前教皇様に、深い感謝の祈りを捧げました。



クーポラの東窓から朝日の差し込む大聖堂身廊 [大]

カペラ(礼拝所)のあちこちでミサが行われています
  
ミケランジェロのピエタのあるカペラ。 静かな祈りのひと時が流れていきます。    [大]

大聖堂下の迷路のようなクリプタ(地下礼拝所)
歴代教皇のお墓と礼拝所が並び、祈りの空間になっています。

第260代ローマ教皇 ピウス12世(在位1939年-1958年)の墓所
第二次世界大戦をはさむ困難な時代を生きた方だった

白い墓石には赤いバラの花一輪と火の灯されたろうそくが一つ・・
ヨハネ・パウロ2世(在位1978年 - 2005年)のお墓にお参りしました。
世界平和のために奔走された教皇様に、世界中から集まった多くの方々と感謝の祈りを捧げました。

 前教皇様のお墓参りを済ませて外へ出た私たちは、オリベスクの元あった場所を見にいきました。
 引率のコンプリ神父様は、立ち入り禁止の修復工事現場の警備員にイタリア語で親しく話しかけ、奥の広場へ案内してくださいます。

 390年頃の最初の大聖堂は、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世によって、バチカヌスの丘の聖ペテロの埋葬地と伝えられる異教区墓地を覆うように建てられたバシリカ式教会堂でした。
 当時すでにヨーロッパ最大の教会堂でしたが、カテドラルではなく、聖ペトロ墓所としての巡礼聖地であって、古代・中世の教皇の住まいはサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に隣接するラテラノ宮殿であったそうです。
 広場中央のオベリスクは1世紀頃にエジプトから運ばれて、ネロ皇帝の競技場中央におかれていたものとのこと。
 また、大聖堂の半分は低地でそこを埋め立てたためか、15世紀中頃には倒壊のおそれから大改築が計画され、16世紀当初に改築に着手、ルネサンスからバロックの時期にかけて巨匠たちが技と才を競い合いつつ、1593年に主ドーモが完成、そして1667年にサンピエトロ広場をとりまく円柱列など現在の大聖堂の姿が整備されたそうです。

 その建築史を物語る遺跡のひとつ、16世紀まで建っていたというオベリスク跡の記念のタイルが、大聖堂の左奥の広場に残されています。
 現場は、修復工事用のヤードになっていて、業務時間はまず立ち入れない場所、運良く入らせてもらい、ネロ皇帝時代から16世紀まであったオリベスクの場所を足の下に確認しつつ、この聖地の永い歴史を垣間見た感じがしました。
 修復工事の様子もついでに眺めることができましたが、この壮大な建造物を維持管理しつつ、貴重な世界遺産として何世紀ものちの人々に伝えていくことことの大事さも痛感させられた次第です。

 

参事官宮殿と大聖堂聖具室のドウーモ

壮大な大聖堂のいつもどこかで行われている
メンテナンス工事が、世界遺産を後世に伝える

「古代から中世のオベリスクの位置はここでした」

石に刻まれた年号などの情報が歴史を伝える
 さて、お腹もすいたところで、ホテルに戻って朝食。
 今日はローマ中央のミネルバの教会やアッピア街道から城壁外のカタコンベ、聖パウロ教会を探訪する予定です。
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