Photo 2007.7.10〜20
UP 2007.8.14 By.ゆみ
2007年7月10〜20日 =イタリア聖地巡礼の旅日記= 天正少年使節の足跡を追って V 7月11日PM-1 ローマにて-3 |
7月11日(火)PM
午後からローマ市内(城壁内)のサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂・サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、そして遣欧使節派遣という大事業を主催し、少年たちを終始引率したイエズス会のローマ本部を訪ねました。
ラテラノ大聖堂は、キリスト教解禁直後の4世紀初め(313年?)に創建されたローマでも最も由緒ある教会として、世界の母なる聖堂と称され、またローマ司教としての教皇の司教座聖堂(カテドラル)であることから、「全カトリック教会の司教座聖堂」でもありました。
ラテラノ大聖堂(ファサードは18世紀に改築されている)
新司教シスト5世は、1585年5月1日、サン・ピエトロ大聖堂での即位式に続き、このラテラノ大聖堂での司教座獲得式に臨みましたが、その双方の盛大な式典に主賓として少年使節を招きました。
特にこのラテラノ大聖堂への行幸は、ローマ市民とっては無名に近かった新教皇にとって、重要な祝賀の祭典であったと言われ、バチカンを出発した行列の先頭がラテラノ大聖堂に着いたとき、しんがりはまだサン・ピエトロを出ていなかったとか。
その華麗な行幸の壁画が、前ページ「ラテラノ教会行幸図」です。
少年使節のローマ訪問から35年後、禁教下の日本からアジア・中東を経てローマにたどりついた日本人が1620年11月15日、このラテラノ大聖堂で念願の司祭叙階を受けました。その名はペトロ・カスイ・岐部神父。
岐部神父は、迫害の激しい日本に潜入、多くの信徒を励まし、厳しい拷問のあと1639年7月4日殉教を遂げました。
少年使節の一人、後の中浦ジュリアン神父が、「わたしはローマに赴いた中浦ジュリアン神父である」と最後に言い残し、殉教したのは、その6年後の1633年のことです。
奇しくも私たちがここを訪れる直前の2007年6月1日、両神父とも、他の殉教者186名(ほとんどが一般信徒)とともに教皇ベネディクト16世の裁可で、列福されることが決定しました。
ラテラノ大聖堂の内部 身廊
ラテラノ大聖堂 後陣の祭壇 [大]
古代(4〜8世紀)を代表する後陣の
小ドームの貴重なモザイク画 [大]
現代を代表するレリーフ
大聖年(2000年)の聖なる扉の一部
続いてサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂へ。
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂は古代ギリシャ・ローマの女神キュベレーの神殿があった場所に、聖母マリアに捧げる教会として築かれました。
大聖年の扉「復活のイエスと聖母」
古代からの大地母神信仰が、聖母マリアへの親慕に受け継がれたという説もあり、その後の民衆の聖母への普遍的な信心の原点を見出す方もおられます。
この聖堂のまたの名は、「雪の聖母聖堂」。
伝説によると、356年の真夏、聖母マリアの「雪の降った地に教会を立てよ」とのお告げがあり、本当に8月に雪の降ったその奇跡の地に建設されたそうです。
聖母マリアに捧げられた聖堂が世界中にありますが、その中で歴史的にも、また規模からも聖母尊崇の最高(=マッジョーレ)の聖堂が、このサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂です。
創建伝承の真夏の雪の奇跡を思い起こすために、毎年8月5日のミサでは大聖堂の天井から白い花びらをまくのだそうですが、また訪ねる機会があれば、ぜひそのミサにあずかってみたいですね。(私たちの訪問の時は、よく晴れていたのに一瞬雲が来て、霧雨のような小雨が短時間舞い降りただけでした)
この真夏の雪の奇跡譚は、聖母への尊愛とともに、16世紀の日本人に親しみを持って語りつがれたようで、キリシタン民話「雪の丸屋」にその名残りをとどめています。
また17世紀はじめの頃日本人絵師の「雪のサンタマリア」として描かれた聖母像が、中浦ジュリアンの書簡などとともに、迫害の潜伏の歴史を超えて、今も「日本二十六聖人記念館」に残されています。
少年使節や宣教師たちにとって語られたサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のお土産話は、当時の日本人の心に深い印象を与えたことと、私は思います。
私たちはこの後、少年使節の滞在したイエズス会ローマ本部とジェズ教会を訪ね、そこでミサに与りましたが、そのご報告は次ページに。
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