2008.5.11 by ゆみ
Ⅶ
奇跡の伝説と秘伝の聖画=「雪のサンタマリア」
以前長崎を訪れた時、日本二十六聖人記念館に一枚の小さな絵があった。
長崎の外海の潜伏キリシタンに伝えられた「雪のサンタマリア」、絵の大きさは10cmぐらいで掛け軸に表装してある。
この絵が世に知られるようになったのは1973年。
「雪のサンタマリア」という画があると伝え聞いていた地元の歴史民俗資料館の田中用次郎氏が、持ち主の農家を説得し、結城了悟師、片岡弥吉氏ともに竹筒に隠されていたこの聖画を発見された。
長崎・出津教会1999年9月
マリアの顔と胸元に合わせた手は鮮明に残っているが、赤い衣と青いマントのほとんどは、紺地の補修紙に覆われてしまっている。
よく見ると、髪が腰まで流れ、頭上には冠を頂いている。
「西洋的なマリア絵を日本の色彩と技法によって描かれている珍しい作品である。
作者・作成年代不詳ではあるが、 1600〜1614年の間、南蛮絵師により、長崎で作られたと思われる。」と所蔵する日本二十六聖人記念館は解説しており、また一説に、島原と安土にあったイグナチオ会によるセミナリオの絵画教師ニコラオの指導によって描かれたともいわれる。
その繊細な髪の表現、慎ましく伏せたまなざしはとても日本的で、日本人の手になるとしたら、女人像としても最も美しい絵画である。
さて、上半身のそれも一部しか残存していないこの絵を結城了悟師は一目見て「無原罪の御宿り」と思ったとのこと。
冠を頂いていることから「神の母マリア」、あるいは「マリアの戴冠」とも思えるが、いったい「雪のサンタマリア」という題名は、何に由来するのだろう。
「雪のサンタマリア」という図像は美術史の中でも聞いたことがない。
失われた背景に、題名にふさわしいものでも描かれていたのだろうか。
サンタマリア・マッジョーレ聖堂の双塔
サンタマリア・マッジョーレ聖堂内部 2007.7.11
2007年夏、イタリア巡礼旅行でローマのいくつかの聖堂を訪れた。
パオリーナ礼拝堂祭壇
聖母子のイコンの上に 雪の奇跡のレリーフがある
その中に最大の聖母聖堂という意味でサンタマリア・マッジョーレ聖堂と呼ばれ、またの名を「雪の聖母マリア聖堂」いう大聖堂があった。
子宝に恵まれないヨハネという貴族が、遺産で聖母マリアに捧げる聖堂を建てようとしたところ、聖母マリアが夢に現れて建設地を雪で示され、その妻も、また教皇リベリウスも同じ夢を見た。
彼らがエスクイリーヌスの丘に行ってみると、8月5日という暑い夏のさなかに、雪が積もってその敷地が示されていたという。
この伝説が聖堂の別名の由来となっていて、その献堂記念日には毎年、天井から雪の模した白い花びらが捲かれる。
特にこの聖堂が重要なのは、431年エフェソ公会議で「マリアは神の母(テオトコス)」と認められたことを記念し聖母に捧げられた最古の聖堂であるということである。
以来、この聖堂には、5世紀から現代に至るまで、その時代のマリア神学と美術を表す様々な聖母マリアの像が捧げられてきた。
しかし、「雪のサンタマリア」という特定の図像のマリア像はなく、玄関の上のロッジャ(階上の間)や、ルカが描いたといわれる絵のある祭壇上のレリーフに、夏に雪が降り建設の地を示されたという物語の一場面を見ることができるだけなのだ。
おそらく、「雪の聖母マリア聖堂」を代表するマリア像としては、大聖堂正面の後陣の丸天井にモザイクで描かれた13世紀後半の「聖母戴冠」の図像が、「神の母」の定義を記念した聖堂を代表する像だと思う。
外海に伝えられた聖母像は、目深に被ったヴェールに光輪という一般的な図像ではなく、やや大きめの宝石で彩られた冠を頂いている。
それゆえに「雪のサンタマリア」と伝えられたといえないだろうか。
このサンタマリア・マッジョーレ聖堂は、イエズス会の創立者イグナチオ・ロヨラが1538年のクリスマスの夜、司祭になって初めてのミサを捧げた聖堂でもあり、フランシスコ・ザビエルが東洋への布教の誓いを立てた聖堂でもあった。
聖母を篤く敬う当時のイエズス会の宣教師たち。彼らが携えてきた母なる聖堂の数々の聖母の絵の写しともに、この聖堂の雪の奇跡の伝承ももたらされ、多くのキリシタンの民衆に受容されたに違いない。
そのことを思わせる長崎の伝説に、谷真介著『キリシタン伝説百話』に採話されている「雪の三タ丸屋」というキリシタン民話がある。
この話のあらすじは、次のとおりだ。
「雪のサンタマリア」
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本画像は日本二十六聖人記念館の許可をえて掲載しています
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人々の救いのため、びるぜん(処女)の誓いを立てた美しい丸屋が、るそん王に目を留められ妃にと請われて困った時、「丸屋が天に向かって静かに祈ると、暑い六月だというのに、天からちらちら雪が降り出してきて、見るまに五尺ほども地上に積った。・・(中略)そこへ天から美しい花車が降りてきて、丸屋を天に連れていってしまった。」
天に昇った丸屋は、神様から「雪の三タ丸屋」の名をもらい「お前の汚れのない清らかなからだを貸してもらう」といわれて、再びこの世に戻る。
「三タ丸屋は、なんのことかわからないままこの世に降りてきたが、二月の中ごろのある日の夕暮れ時、大天使が蝶の姿に身をかえて、丸屋の口のなかに飛びこんだ。すると丸屋は、たちまち身重になった。」
身重を親に知られて追いだされた丸屋はベレンの国で、大雪の中、農家の牛馬小屋で赤子を産む。
牛馬は息を吹きかけて赤子を暖めまもり、そのお礼に丸屋は、かるたの日(水曜日)ぜじん(断食)して肉食しないと誓う。
農家の女房が3日後、赤子を見つけ家に入れて、織っていた布を囲炉裏にくべてもてなした。
この赤子がキリスト様で、この世の人の魂を救うため自分の命を犠牲にしハライソに戻られた。
まもなく丸屋も天に昇り、神様の仲立ちで、るそん王と夫婦になった、という。(「」内は『キリシタン伝説百話』からの引用)
宣教師たちが残して行った聖母マリアの話の数々の断片は、信仰がひそかに語り継がれる禁教時代、長崎のキリシタンによって丹念に綴り合わされ、日本の風土に溶け込み、いつしか珠玉の民話となった。
大切な物を燃やしてもてなすというのは謡の「鉢の木」を思わせるが、この伝説には、聖書の物語のほか、天に昇るマリアを迎えに来る美しい馬車、息をかけて赤子を暖める牛など、中世にヨーロッパで流布したマリア伝承の断片をも豊かに含んでいるように思われる。
厳しい禁教下で、厳重に秘匿され伝えられた「雪のサンタマリア」の絵。
この絵の謎の題名こそ、ローマの雪の奇跡の伝承とともに伝えられたことの信仰の遺産であり、心やさしい伝説「雪の三タ丸屋」とともに残された奇跡ではなかったかと感じたイタリアの旅であった。