2003.3.18 by ゆみ

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「長崎ロザリオ組のマリア」=引戸裏に隠された画像のなぞ

 長崎ロザリオ組のマリア

 

 早春の雨の寒い日だった。 

 東京博物館の講堂で、プロジェクターを通して映し出された2枚の絵に、私はおもわず目を見開いた。東博で講演の五野井隆史先生
 「たいへん似ていますね。」
 講師の示す一枚は大正の中頃、福井の代々医者だった旧家から発見されたという有名な「悲しみのマリア画像」、そしてもう一枚は、面差しがよく似ているものの、全く見たことのないマリア像であった。

 終演の予定時刻を過ぎていたので、簡単に触れ、すぐに次の話題に移ってしまったが、私にはこの謎のマリア像の姿が深く心に残り、講演が終っても立ち去りがたくて、講師の控え室を訪ねた。

 講師は、東大史料編纂所の五野井隆史教授、私が高校のときの恩師であった。

 先生がこの絵をご覧になったのは、1997年11月古書の入札会。
 目録に「隠れ切支丹マリア像及連署名」として、「元和八年正月、洗礼者14名署名彩色マリア像。28×44cm 台所水屋の引戸の裏に書かれていた」という説明文があったという。

 控え室で見せていただいたマリア像の写真は、陰影のあるおおらかでやわらかなタッチの筆使いという点が異なるものの、淡い色合いで描かれたうつむき顔とヴェールの襞は、あの福井のマリア像を模写したとしか思えないものであった。

 福井で発見された「悲しみのマリア画像」は、南欧の画家の手により、1600年前後に描かれたものという。

 先生は、「引戸のマリア像は、筆使いが近代的な点からまだ真贋の判断がつきかねるという意見もある」と述べられたが、清楚で憂いを含んだまなざしは、福井のマリア画像を輪郭線だけでなく心で投影したと感ぜられる素朴な聖母像であった。

引戸に貼られた「長崎ロザリオ組のマリア画像」     福井の旧家から発見された「悲しみのマリア画像」
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 『日本歴史609号』(1999・2月)掲載の五野井先生の報告によれば、先生が注目されたのは、四枚戸のうち2枚の戸に記された連書名であった。

 「自庵・平野 良慶・石本 ろふ斎・田中 はうろ・かなさき おとなしょ庵・つき町 はう路・同町 るしゃ・同町 寿庵・つき町 まちやす・本かちや町 はるとろめい・舟大工町 上珎・あふらや町 はうろ・今しっくい町 とめい・みける・るしゃ」
 それぞれにローマ字表記と花押が付されている。

 この15名の名は、なんとローマのカサナテンセ図書館のある「長崎ロザリオ組中連判書付」という文書にある二つの信心会(ロザリオ組とイエスの御名の組)連署名104名のうち、組親22名に見出すことができるという。
 このうち「田中 はうろ(パウロ)」と「石本 ろふ斎(ルフォ)」は、ドメニコ会神父を匿った理由でその年の9月、元和の大殉教で刑死している。


 信心会の名に冠した「ロザリオ」とは、聖母の生涯を観想しながらアベマリアや主の祈りを唱えるための念珠で、「数える」というポルトガル語から「コンタツ」ともよばれた。国立東京博物館蔵・キリシタンより押収したロザリオ

 当時の日本人信徒にとって、聖母は観音菩薩への思慕に、ロザリオの念祷は数珠による念仏にその信仰形態に似ていたからであろうか、違和感なくキリシタンの信仰生活に浸透していったのであろう。

 ドメニコ会司教の書簡では、宣教師も驚くほど彼らは信心深く、1616年日本ではロザリオの信心会が急増し、描かれた聖母像は必需品であった。
 しかし、信徒たちはまだ絵を描くことは苦手で、彼らを満足させるには、修道士が印刷しなければならなかったと報告されている。


 元和8年(1622)正月は、長崎ではまだ一般信徒にまで及んではいなかったが、来るべきキリシタン弾圧の嵐を予感させる年明けであった。

 拘束された田中・石本の2名を含め、信心会のキリシタンたちは連署名して心をひとつにしたことだろう。

 本当の嵐は、その5年後にやってきた。
 元和の殉教は宣教師と彼らを泊め匿った者への弾圧だったが、寛永3年(1626)には一般のキリシタン信徒の信仰が禁止された。

 ロザリオ組の中でも棄教者が出たのであろう。
 組親22名のうち信仰を保った15名の名のみが、おそらく1627年以降に引戸に元和の連署名から書写されたと、五野井先生は推論する。

 禁教の嵐の中で、殉教した2名の仲間をたたえ、ひそかな祈りを捧げた長崎のキリシタン町人たち。国立東京博物館から
 その祈りの真ん中には、水屋の引戸から外されたこのマリア像が据えられていたはずである。

  ロザリオの祈りのためには、その喜びと悲しみと栄光の聖母の生涯を偲ぶ各場面の数枚の絵が用意されるはずだが、「悲しみのマリア像」だけが写され、そして今に残された。

 水屋の引戸に隠されたマリアは、御子とそして日本のキリシタンの行く末を悲しみの中で見守っていかなければならなかったからであろうか。


 たそがれ時の博物館の外は、不断なく降る雨に煙っていた。

 2003年3月、「キリシタン-信仰とその証-」の特集陳列と、久々にお聞きした五野井先生のご講演、その中で明かされたマリアへの篤い信仰にふれ、心洗われる思いのうちに帰路に着いた。

 いつか、大阪の南蛮文化館にある福井で発見されたマリア画像と、今は鶴見大学所蔵の引戸裏に貼られたマリア画像を実際に見比べたいと思いつつ・・・

 福井で発見されたマリア像