2021.5.27 by ゆみ

続・奇跡の伝説と秘伝の聖画=「雪のサンタマリア」

 

 2008年に〔奇跡の伝説と秘伝の聖画=「雪のサンタマリア」〕をアップして、もう13年がたちました。

 この日本二十六聖人記念館蔵の「雪のサンタマリア」像について、近年にわかに注目され、映画「沈黙~サイレンス」のひそかな礼拝シーンに使われ、また2018年6月に世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の推薦書の表紙にもなりました。

 2019年には文化財として、京都市の宇佐美修徳堂により修復も完了し、同時に作られた精巧なレプリカは、1124日に来日された教皇フランシスコに献上されたとのことです。


映画「沈黙~サイレンス」シーン

(公式HP予告編から)


世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の推薦書の表紙
 

修復が完了した「雪のサンタマリア」と教皇に献納されたレプリカ
(産経新聞HPから)

日本二十六聖人記念館を訪ねた教皇フランシスコ

 この絵のルーツと背景について、前編では、長崎の外海の潜伏キリシタンの家から1973年に発見され、16001614年の間、南蛮絵師により長崎で作られ、また一説に、島原と安土にあったイグナチオ会によるセミナリオの絵画教師ニコラオの指導によって描かれたとのこと。
 ローマには、聖堂創設の奇跡談として85日雪が降ったといういわれが遺されている「雪の聖母マリア聖堂」があり、「神の母」の定義を記念したこの大聖堂正面の後陣の丸天井にはモザイクで「聖母戴冠」の図像が描かれていることについて書きました。

   2021年になって、読売新聞日曜版に掲載された「ニッポン絵ものがたり」の「日本のマリア像」の記事の中に、児嶋由枝氏のこの絵とシチリアの聖母像との関連に関する研究成果が取り上げられました。

 さっそく『イタリア学会誌』第65号(2015年)に掲載された児嶋由枝氏のこの論文を拝読。そこには、この絵の由来が明確に書かれていました。

 


外海の「雪のサンタマリア」軸装写真

フランコフォンテの「雪の聖母」板絵
(児嶋由枝論文の口絵から)
 
復元された「雪の聖母」の冠
フランコフォンテの板絵複製画から

(児嶋由枝論文の口絵から)

 外海で発見された「雪のサンタマリア」は、イタリア・ナポリ国出身のイエズス会士(今までの研究史では「ニコラオ」と称されていた)ジョバンニ・コーラが九州のセミナリオに画学舎を開き、そこで学んだ日本人の作品であるとのことです。

 また、この図像の手本になったのは、シチリアのフランコフォンテの町の教会の板絵「雪の聖母」の複製画で、この板絵にはこの町のローカルな「雪の聖母」奇跡譚が伝わっていて、崇敬を集めていたとのことでした。

 論文に添えられた口絵、フランコフォンテの「雪の聖母」板絵を見ると、聖母の容貌などの作風は異なりますが、髪の描き方、顔を左前方に傾けて手を合わせた姿勢や、衣の構図と色使いは一致しています。
 合わせた手の下には幼子イエスの寝姿と思われる像があり、当時よく見られた聖画の構成であったのでしょうが、板絵は損傷が激しく、横たわる幼子の図像ははっきりせず、頭上の冠などは失われています。


重要文化財「花鳥蒔絵螺鈿聖龕」(九州国立博物館蔵) 
中の「聖家族」を描いた聖画は日本から輸出された先のヨーロッパなどで製作されたものと見られる 
 
「二人の聖人とキリストの子を崇める聖母」ポスター

 フランコフォンテの板絵はなぜこのように傷みが激しいのか、それはまさしくこの板絵の発見の奇跡に由来する故でした。

 その奇跡譚は、以下の話です。

 フランコフォンテと近隣の町ヴィッツイーニの猟師が鎌で草刈りをしていた時、鎌の先が草むらの中の聖母像に当たり、その鎌の刃による破損個所からは血が滴り落ちていた。
 両方の町の住人が自分の町に持ち帰ろうと牛車に載せ、牛がどちらに向かうか見ることにした。
 すると牛はフランコフォンテに向かって進み、85日の真夏であったのに、雪が降ってきた。
 これは1570年ごろの話で、「シチリアの奇跡の聖母」として有名になったそうです。

 16世紀末から17世紀に、日本に渡ってきたたくさんの版画や複製画の中に、このシチリアの「雪の聖母」複製画もあったに違いなく、この奇跡の聖母像をモデルに画学舎出身の日本人画家が描いたのであろうと、児嶋由枝氏は述べています。

 外海の「雪のサンタマリア」の青い紙による補修部分は、シチリアの「雪の聖母」の破損部分に対応していていることも興味深いことで、完全な姿の絵画が潜伏中の礼拝行為で損傷・補修されたのではなく、奇跡的に発見された元絵の傷んだ状態に基づいた信仰の姿であったのでした。

 そして、この図像を持ち込んだのは、シチリアのフランコフォルテの貴族出身のドメニコ会士ヨルダノ・アンサロネ神父と推定されるとのこと。
 彼は1632年に禁教下の日本に潜入し、大村や外海でひそかに布教、1634年長崎の西坂で殉教し列聖された宣教師でした。
 シドッチが「親指の聖母」の絵を持参して潜入したように、ヨルダノ神父も故郷の「雪の聖母」複製画を大切に携えてきたのでしょう。

  外海の「雪のサンタマリア」が描かれたのは1632年以降、禁教の最中。
 コーラの弟子の日本人画家たちは、洋画の確かな技法の中に日本的な自然でたよやかな筆使いの聖画を描き、それは潜伏キリシタンの心のよりどころとなり、そして現在にその信仰の歴史を残してくれました。

 外海のキリシタンは、潜伏中、「バスチャンの日繰り」と呼ばれる典礼暦を伝承し、毎年更新される活きた暦の中に、キリストや聖マリアの生涯を偲び祈る信仰生活を続けてきました。
 その中に「雪のサンタマリア」と口伝された掛け軸が伝えられたことは、1617世紀のヨーロッパでよく知られた85日のローマの雪の奇跡譚、そしてそのローカルなバリエーションであるシチリアの「雪の聖母」板絵とそれを伝えた宣教師への篤い思いが込められていたからでしょう。

 傷ついた聖母像、それはいつか奇跡を現す日が来ると、その身をもって、隠れのキリシタンたちを慰め続ける存在であったのだと思いました。

⇒参考資料