2021.7.25 by ゆみ

「ご聖体の連祷と黙想の図」
=聖母と聖体への祈りを込めた日本最古の信仰画

 

 2018年11月19日、キリシタンの信仰画についての新しい発見が、新聞やネットニュースで報告されました。た。

 大磯の澤田美喜記念館が所蔵していた巻子(巻物)に書かれた書と絵が、安土桃山時代に制作された可能性が高いとのことが、横浜市歴史博物館の調査で分かったのです。
 国内で現存する信仰画としては最古級で、墨の使用や、描かれている習俗などからより日本的といいます。

 そして、同年11月23日から横浜市歴史博物館「神奈川の記憶展」で、初めて一般公開され、26日には同館で、緊急調査報告会が開催されました。

 また最近では、2021年2月21日の五島市での「世界文化遺産登録2周年」記念講演で、東京大学大学院の岡美穂子先生がこの巻子について報告されています。

 この「ご聖体の連祷と黙想の図」(澤田美喜記念館蔵)は、12枚の和紙を継いだ長さ320㎝の巻子で、右から、①聖母子像図、②ご聖体の連祷前半(ポルトガル訛りのラテン語祈祷文をかな書き)、 ③ロザリオの十五玄義図(喜びの玄義・悲しみの玄義・栄光の玄義各5場面)、④ご聖体の連祷の後半、⑤奥書「御出世以来千五百九十二年 者う路(はうろ)」、すなわち西暦1592年「パウロ」の名と花押があります。
 

 
②ご聖体の連祷前半(ポルトガル訛りのラテン語祈祷文をかな書き)                ①聖母子像図
 
③ロザリオを唱える際の黙想のための十五玄義図(喜びの玄義・悲しみの玄義・栄光の玄義各5場面)

 ④ご聖体の連祷の後半と、  ⑤奥書「御出世以来千五百九十二年 者う路(はうろ)」

 ②の連祷文(ラテン語かながき)前半は、「さんちいしもさからめんとの らたにやす (聖なる秘跡への連祷)、 きりゑれいそん きりしてれいそん・・(主あわれみたまえ キリストあわれみたまえ)」と、二十ほどの短い祈祷文が書かれています。

 ③の「十五玄義図」は、ロザリオを唱える際の黙想のための十五玄義図(喜びの玄義・悲しみの玄義・栄光の玄義各5場面)で、同じ内容は髙山右近の里の大阪茨木市の潜伏キリシタンの家や長崎で見つかっています。
 なお、潜伏キリシタンが禁教下、幕末まで伝えてきたたオラショでは「聖マリアへの連祷」(リタニエ)が主流で、「聖体の連祷」はこれまで茨木市の一例だけでしたので、今回のこの巻子の発見でで二例目となりました。

③のロザリオの「十五玄義」の内容は、右から以下の通りです。



・喜びの玄義(神秘」)
 ①マリア、神のお告げを受ける
 ②エリザベトを訪問す 
 ③マリア、イエスを産む 
 ④神殿でイエスをささげる
 ⑤見失ったイエスを見出す









・苦しみの玄義
 ①イエス、ゲッセマネの園で苦しみもだえる
 ②むち打たれる
 ③いばらの冠をかぶせられる
 ④十字架を担う
 ⑤十字架に息をひきとられる











・栄えの玄義
 ①イエス、復活する
 ②イエス、天にあげられる
 ③聖霊、使徒たちにくだる
 ④マリア、天の栄光に上げられる
 ⑤マリア、すべての人の母となる

 

喜びの玄義
 
苦しみの玄義
 
栄えの玄義


④の連祷文後半は、前半に続きで、「同」の箇所は 「みせれれ なうひす」(われらをあわれみたまえ)の繰り返しです。


⑤の奥書には「御出世以来千五百九十二年 者う路(はうろ)」と書かれています。

 「者う路」(はうろ=パウロ)とは 誰のことでしょう。
 岡美穂子先生は「天草パウロ良印」の可能性を提起されています。
 天草パウロ良印は 1553 年頃、天草生まれの日本人修道士。
 1577 年にイエズス会に入会し、五島などののキリシタン布教のパイオニアとして活躍し、 1592年から主に上方で布教しています。
 江戸時代初頭には、イエズス会の日本人修道士のトップ3に数えられ、家康とも度々 面談下とのこと。

 禁教により、慶長19年(1614)に国外追放となった高山右近と共にマニラへ渡り、同時期に死亡したと思われます。
 署名の下の花押が明朝体の中の文字がアルファベットの R に見え、「「良印」の「R」ではないかと、岡先生は推測されています。

 さて、表紙裏の巻子冒頭の聖母子像はどのような聖画を元にして描かれたのでしょうか。
 一見して、おなじみのラファエロ・サンティの晩年1513~1514年頃に描いた祭壇画「システィーナの聖母」とわかります。
 当時、この絵については、多量に刷られた銅版画はなく、ルネッサンス期の最新のこの絵の正確な模写画が、宣教用に渡来したと思われます。


ラファエロの「システィーナの聖母」(中央部分)

「ご聖体の連祷と黙想の図」の=聖母子像)

 

  この巻子は、禁教下を経て、どのようにして現在の澤田美喜記念館にもたらされたのでしょうか。

 澤田美喜記念館には、 エリザベス・サンダース・ホームを開設した澤田美喜が、生前40年にわたって九州(長崎、平戸、島原、五島列島等)のみならず、日本の津々浦々を巡って収集した隠れキリシタンの遺物が870点余りが収蔵されこのうち、250点余りが展示されています。
 澤田美喜は施設運営が困難に出会うたびに、この遺物と向かい合い、迫害・弾圧を受けた往時のキリシタンの苦難を思い、自らを奮い立たせて神に祈ったと伝えられています。

 「ご聖体の連祷と黙想の図」は、澤田美喜の伝記によれば、1957年ごろ、頻繁に生月島を訪ねていた澤田美喜が、戦争で息子を失った生月島のかくれキリシタン信徒から譲り受けたとのことです。 

 また生月壱部に伝わる納戸神には、ラファエロの絵に足もとの描写がよく似た「御掛け絵」があります。  (岡美穂子 2020.2.21講演レジュメ)


ラファエロの「システィーナの聖母」 

「ご聖体の連祷と黙想の図」聖母像
 
生月壱部に伝わる「御掛け絵」

 

 生月の壱部の村瀬家が所有していた聖母子像は、同家が他出する時カトリック教会に寄贈され、その後黒瀬ノ辻の祈念碑下の礼拝堂に祀られました。
 同図の裾のあり方は良く似ていて、幼子も右抱きですが、聖母が着物で胸をはだけている点は大きく異なります。

 また山田3垣内の「御前様」(右図)も、モティーフは「聖母被昇天」です。
 最も古い「隠居」の中央の聖母子像は、幼子右抱きで左の裾を突き出し、「ひれ」を左側になびかせた表現がヴェールを膨らませた表現と通じる所があります。
               (生月町博物館HP:生月学講座:「ラファエロとお掛け絵」)


 この「ご聖体の連祷と黙想の図」巻子が作成された1592年(文禄元年)は、豊臣秀吉の天下統一されて間もない時期で、1587年に伴天連追放令が出されていますが、個人の信仰はまだ自由であり、布教も盛んなころでした。
 その様子は、宣教師が修道会本部に送った多量の書簡にみてとれますが、日本人信徒自身が、キリスト教をどのように理解し信仰していたかがわかる史料として、この巻子はとても重要です。

 体裁は、個人用の絵付きの経本のスタイルで、祈祷文と聖画もその書き方描き方は共に純和風であり、当時、この巻子を制作した「はうろ」(パウロ良印か?)は、伝統的な高い教養を身に着けた文化人であったと思われます。

 そして、カトリックの典礼、特にご聖体への崇敬と、信心業としてのロザリオの十五玄義の祈りと黙想、そして最新であったルネッサンス期の聖母像に接して、それを充分理解し、自らのものとして結実させ、自身の信心業のため、この巻子を作成したのだと伝わってきます。
        

⇒参考資料