2008.12.14 さわらびY(ゆみ)


188殉教者列福式九州巡礼の旅-1

2008.11.21 国東のペトロ岐部の里〜豊後府内へ

 巡礼初日の11月22日、羽田空港から空路大分へ。
 まずは今回の188殉教者の筆頭(?)ペトロ岐部神父のふるさと、大分県国見町大字岐部を訪ねました。

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岐部神社も残る岐部氏発祥の由来の地。  



岐部城址からこの里山の向こう、はるか
ローマの方角を見据える岐部カスイの像


 
銅像の傍らの石碑がその由来を静かに語ります
      ペトロ・カスイ岐部

 
豊後国浦辺に生まる  父は岐部城主左近大夫の重臣 ロマノ岐部 母はマリア波多
 有馬のキリシタン学校に学び のち聖地パレスチナを行脚してローマに至り 元和六年司祭に叙階されイエズス会士となる
 祖国愛に燃えつつ海陸千万の難を凌ぎ寛永七年帰国 九州 関東 東北地方にて同胞の救霊のため身を捧ぐ
 寛永十六年 徳川幕府のキリシタン禁制の犠牲となり 江戸にて光栄ある殉教を遂ぐ 行年五十一才
 ここに同郷全民一致して岐部先生の遺徳を顕彰し 昭和40年9月24日 舟越保武作 銅像を建立す 

 
 ペトロ岐部が生まれた天正15年(1587)は、豊臣秀吉が伴天連追放令を発令した年。キリシタンのあたたかい篤信家の家で幼少期を過ごし、13歳で慶長5年(1600)有馬にあったセミナリオに入学。 
 以来、世界と日本国中を苦難の旅を続け、江戸で殉教し、二度とこの岐部の里に帰ることはありませんでした。
 それでも地元の方々は、チースリック師の語るペトロ岐部の勇敢で献身的な生き方に共感し、石碑に刻まれているとおり、「同郷全民一致して岐部先生の遺徳を顕彰」されたのでした。 



国見ふるさと展示館

ペトロ・カスイ岐部顕彰碑
 岐部城址に立つ「国見ふるさと展示館」は、明治初期築造の庄屋屋敷。
 ちょうど、列福式にちなみ「ペトロ岐部カスイの生涯」の特別展を開催していました。

 ペトロ岐部の事績が明らかになったのは、H.チースリック師や五野井先生の研究によりますが、一方、地元の郷土史家も山中の古城址や寺院跡などを探索、岐部一族が拠点とした櫛来城跡などを調査して、キリシタン関連遺物の発見。 ロマノ岐部以下「主従144名のキリシタン」がいた足跡が浮かび上がってきています。


ペトロ・カスイ岐部記念聖堂
 私たちは、銅像の左手に建つペトロ・カスイ岐部記念聖堂で、巡礼最初のミサにあずかりました。
 私たち巡礼団を迎えてくださったのは、岐部一族の子孫で3年前に亡くなった郷土史研究家の岐部増喜氏のご家族の方でした。
 奥様のフクヱ様ほか岐部家の方々が、住民の数も少なく司祭もいないこの里で、美しい記念聖堂を守っておられます。

 ペトロ岐部は 禁教下の信徒のため、不屈の志でローマで司祭となり再潜入、仙台で捕縛され、江戸で拷問により殉教。その生涯はあまりに壮絶すぎて、たじろいでしまいそう。
 コンプリ神父様のミサの中で「殉教とは、神の愛を証する生き方。困難な状況で、そのような生き方が可能であったのは、神からの恵みによること」ということが、多少でもわかってきた気がしました。


                              
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 午後3時半、岐部の里を立って大分市内(豊後府内)を目指しました。
 日没前に府内に入りたかったのですが、別府湾あたりのSAで、夕日が山並にのまれてしまいました。

 16世紀後半大友宗麟が全盛を極めたころの豊後府内は、海外にも「BUNGO」の名で知られた国際都市で、その姿がここ10年間の発掘調査で明らかになってきています。

 大友宗麟は、1551年にザビエルと会って以来キリスト教へに関心をもち、1578年洗礼を受けています。
 また宗麟は、海外貿易、西洋の進んだ技術文化に対しても強い関心を持ち、1556年にはイエズス会士ルイス・アルメイダによって豊後府内で日本初の西洋式病院を開き、また教会や育児院や慈悲院、そしてコレジオも造られました。

 その詳しい五野井先生のお話をバスの中で、お聴きしているうち、入口に十字架の立つ殉教記念公園へ。
 足もともおぼつかないほどすっかり陽が暮れてしまいましたが、広い公園の闇に中に現れた北村西望作の大きなレリーフは圧巻でした。

 大分県では、今回、日出町の殉教者バルタザル加賀山半左衛門・ディエゴ加賀山父子が列福されますが、そのほかに二百人もの信徒の殉教があったのですね。

 日本での殉教者数は、名前の明らかな数だけで5千5百人、そのほか名前が記録に残されなかった数は、二万人ともいわれます。
 
 1970年、上田保氏(元大分市長)らが建てた「殉教記念碑の由来」は、このような「墓もなく史実や名前さえ定かでない」信仰の証し人たちの存在を語るものでした。

別府湾SAで、とうとう日没

午後5時40分 大分市の殉教記念公園に着きました

北村西望作のレリーフ (原城文化センターの複製)
 大分県キリシタン
             殉教記念碑の由来

 この地は、国主大友宗麟が保護したため、キリスト教が目覚ましく繁栄したところです。
 それだけに、ひとたび禁教の嵐が吹きすさんでは、その被害も大きく県下いたる所に、尊い殉教の血が流されました。わけてもこの葛木附近一帯では、寛文年間(1661年−1673年)を中心に、八十四歳の老翁から十四歳の少女まで、およそ二百人のいたましい殉教者を出すに至りました。
 これらの人達は、幕府の残虐な迫害にも屈せず、峻烈な刑罰をも怖れず、ひたすら信仰一筋に生き抜いて、ついに殉教者として天に召されたのであります。しかしこの世的には葬儀もなく、墓もなく史実や名前さえ定かでないものが少なくありません。
 この度私達は後記の会を作ってこれら有名無名の県下のすべてのキリシタン殉教者に対し、その崇高な信仰の跡を偲び、霊を慰むるため、最も殉教者の多かったこの葛木の通称“獄門原”の地に、公園を作り記念碑を建てました。
 碑は彫塑界第一人者北村西望先生で、経費一切は九重町の足立正平翁の篤志によるものであります。ここにしるして翁に心から謝意を表します。

   昭和45年6月
       大分県キリシタン史跡顕彰会
               会長 上田 保
                書 薬師寺 寛
この日は夜7時頃、湯布院に到着。静かな温泉につかり、翌朝、キリシタン墓地の探索と八代の巡礼に備えました。