2008.12.29 さわらびY(ゆみ)


188殉教者列福式九州巡礼の旅-

2008.11.22 湯布院のキリシタン墓地〜八代教会〜麦島古城の殉教地へ
 巡礼2日目のこの日は、五野井先生の案内で由布岳の山裾のあるキリシタン墓地を探索してから、九州北部を縦断し、さらに南下、熊本市の八代の教会と八代の殉教地を訪ね、パールライン天草五橋を渡って、天草にいたる行程です。
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 静かな山間の湯布院のホテルでの2日目の朝、歌碑に詠まれている万葉集の歌のように、このあたりは一面の朝霧に包まれています。
   「未通女(おとめ)らが放(はな)りの髪を木綿(ゆう)の山
    雲なたなびき 家のあたり見む」  (万葉集7-1244)



 由布院湯山城に拠る奴留湯(ぬるゆ)氏は、大友宗麟に従って島津軍と戦い、その時奴留湯左馬助が九死に一生を得たことから天正7年頃キリシタンに入信。同14年初め由布院に聖ミゲル教会が建てられ、多くの村人がキリシタンなったといわれています。
 その後、禁教が厳しくなる慶長19年までの約三十年間に造られたとみられるキリシタン墓地が、並柳・光永の集落の山林に残され、大分県の史跡にもなっています。



湯布院町のキリシタン墓地は大分県下で最も多く、江戸時代は隠れキリシタンの里だったそうです。


朝霧と温泉の2条の湯煙の向こうにそびえる由布岳


林道を進んだこのあたりと五野井先生が・・


森の中の共同墓地の周りに眠る苔むしたキリシタン墓

 十字墓と伏墓が並ぶ並柳の墓地
 十字墓は、真ん中の四角い穴に木製の十字架が立てられたのでしょう。

 「転び證文」の強制された江戸時代、並柳村の十字墓は、司直の目をのがれるため 地下に埋められたが、後世になって掘り出されたものとみられています。

 昭和35年3月には、十字章のある墓碑のうち49基が「キリシタン墓群」として県史跡に指定され、現在までに413基のキリシタン墓碑が発見されているそうです。
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 湯布院から高速道路で、熊本県八代市へ。
 今回の列福者の中では最も早い1603年に2人の武士とその妻子4名、そして1609年に3人の慈悲役とその2人の幼い息子たちが、ここ八代で殉教しました。
 関ヶ原の戦いで敗北したキリシタン大名小西行長に替わり、勝者として八代に入った加藤清正によって過酷な迫害が行われた結果でした。
 カトリック八代教会でのミサの後、その史跡を訪ねます。


1622年 清正の子・加藤忠広が築城、
のちに細川氏の城となった八代城(松江城)跡



小西行長治世時代時代と推定されるキリシタン墓碑が、
城下の寺院金立院境内に残されていました。




八代城のお堀のそばに、1890(明治23)年
コール神父によって建てられた八代教会がありました。




教会の方々がミサの準備、お茶の接待、
史跡への案内のため集まってくださっています。



[+殉教之碑]
一粒の麦が地に落ちて死ねば 豊かな実を結ぶ




教会の前庭の殉教記念碑
毎年12月に殉教祭が行われているとのことです



カトリック八代教会でのミサ
清楚な聖堂で、教会の方々と共に
列福者への祈りを捧げました



        殉教者の碑建立の由来

 小西行長の庇護の下に、日本有数のキリシタン隆盛の地となった八代も、一六〇〇年、関ヶ原の戦での行長の失脚により、加藤清正の所領となるに及んで、厳しい迫害の時代を迎えた。
 転宗者や他藩へ逃れる者も多数出る中、この地に止まって、信仰をつらぬき通す者も多かった。
 そうした人々の中から指導者数名が捕らえられ、家族も共に処刑された。小西行長の家臣二名とその家族四名、宣教師が追放された後も、常に町方の信徒に寄り添い、支え続けた慈悲役三名とその子二名の、合計十一名が殉教した。

 神の教えを守ってさまざまの試練に耐え、死を恐れぬ彼等の雄々しさと、婦人達のけな気な姿は万人の胸を打った。
 殊に、いたいけな三人の子供たちの殉教は見物していた大群衆の魂を揺り動かし、多くの転宗者を立ち返らせ、信徒を勇気づけた。

 宣教再開百周年を迎えるにあたり、この殉教者の遺徳をたたえ記念すると共に、現在の自由と平和は、彼等の死によってもたらされたものであること、私達の信仰は、深く地下水脈としてこの地に流れる殉教者の血に生かされていることを、常に想い起こすために、この碑を建立する。

                    一九九〇年四月吉日 
                    建立 八代カトリック教会

    
    殉教者名

 一六〇三年(慶長八年) 十二月八・九日
   ヨハネ    南五郎左衛門   35才  斬首
    妻     マグダレナ    33才 磔刑

   
養子    ルドビコ      8才  磔刑
   シモン   竹田五兵衛    35才
 斬首
    
母    ヨハンナ      55才 磔刑
     妻    アグネス     30才 磔刑
 一六〇六年(慶長十一年) 八月二十六日

  
ヨアキム  渡辺次郎左衛門  55才 獄死
 
一六〇九年(慶長十四年) 一月十一日
 
 ミカエル   三石彦右衛門   50才 斬首
    子     トマス        12才 斬首
  ヨハネ    服部甚五郎     39才 斬首
    子     ペトロ        6才 斬首

                         (八代教会碑文)
 八代教会の方のご案内で、殉教地と推定される麦島の刑場跡を訪ねました。
 小西行長と加藤清正の時代、八代の城下町は、球磨川の入り江の島、麦島古城町にありました。
 現在の麦島は、区画整理により閑静な住宅街になっていて、その一角の古城児童公園内に、2005年9月に八代史談会によって建てられた「キリシタン殉教の跡」の記念の標柱があります。
 
 八代の殉教は、江戸幕府によるキリシタン禁教令公布より前の出来事であったため、近隣の地にいた多くの宣教師や信徒による詳しい報告が寄せられ、ローマやイエズス会本部に送られました。
 八代史談会の説明文では、最後に「幼児を含む計十一名の殉教は宣教師によって直ちにローマに報告され、かの地で盛大にミサが行われたと記録されている」と結んでいます。
 
  
 八代教会の方が語る2名の勇敢な武士の信仰告白とその死、そして忍耐強く迫害に耐えた3名の知性的な町人の慈悲役の姿、西に傾いていく冬の陽の中で、時を忘れて聞き入りました。

 「体に障害を抱えていたトマスは父の遺体のそばから離れず、なえた左手を右手で胸に引き寄せ、天を仰いで首を差し出した。5歳のペトロもすでに遺体となった父のそばに走りより、その小さな手でもろ肌を脱ぎ、両手を天にあげて首を切られるのを待った。そのあわれさに、処刑人は自分の務めを拒んだ。するとこの光景に耐えられなかった群衆の一人が走り出て手を下した。」*

 彼等の遺体が信徒に渡ることが厳重に禁じられたにもかかわらず、葬られた遺体や刑場にさらされたまま朽ちていく遺骨を信徒達はひそかに拾い、有馬の教会、そして長崎へ運びました。1614年のキリシタン追放の際、マカオに運ばれた遺骨は、1995年、マカオの中国返還を機にふたたび日本に戻りました。
 「信仰は体裁や大義ではなく、人として生きるためのただ一つの道であることを伝えるために、彼らはまた戻ってきた。」*
 この聖なる遺骨に、列福式で、また、二十六聖人記館の特別展示で、私達巡礼団はお目にかかることになります。
                               (*『ペトロ岐部と187殉教者』カトリック中央協議会編 2007)