2008.2.7. さわらびY(ゆみ)


188殉教者列福式と九州巡礼の旅-

2008.11.23 島原半島殉教者記念聖堂〜原城跡〜雲仙
 巡礼の旅の3日目、島々の織りなす美しい景観。
 日本のキリスト教の中心地となった島原湾を望みながら、過酷な圧政に対し、勇敢に立ち向かった島原と天草の殉教者たちに思いを馳せる旅を続けます。
 昨日までの素晴らしい天気も、そろそろ下り坂? 曇り空の中、天草の本渡港からフェリーで、島原に向いました。
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ホテルアレグリアガーデンズ天草の朝

本渡港から口之津へ

口之津港から 
なんばん大橋の右端に岬の聖母教会があったという


島原市内へ
1997年落成の島原半島殉教者記念聖堂に着きました
1562年 有馬義直が口之津を南蛮貿易の港として開く
1563年 アルメイダが宣教を開始、口之津と島原に教会を建て、
   この地は日本教会の宣教本部として布教の中心地に。

1580年 有馬にセミナリオが設立され、中浦ジュリアンも入学1582年 
    セミナリオから選ばれた4人の少年はローマへと旅立つ。

1587年 秀吉の禁教令
   長崎からセミナリヨやコレジョがm島原・天草の各地へ移り、
   天草で日本初の活版印刷が行われました。

1610年 マードレ・デ・デウス号事件
1612年 有馬晴信が岡本大八事件に連座して賜死
     この時から島原半島各地で迫害がはじまりました。

1614年 家康の禁教令発布
  多数の殉教が続くとともに、島原城築城や松倉重政の重税に
  人々の苦しみが頂点に達します。

1637年10月〜1638年2月 島原天草一揆
   原城陥落とともに女子供2万人が棄教を拒み殉教

1658年 大村郡村の信徒が 島原の今村刑場で殉教

1865年 長崎に潜伏キリシタン発見


キリシタン文化の中心地としての栄光と
島原・天草の数万に及ぶ殉教者を偲び
島原半島殉教者記念聖堂でのミサを捧げました



「誕生の神秘」を表すステンドグラス

石像「同胞の祈り」

八角ドームの天井


ステンドグラス「苦しみの神秘」


左から 「波間に沈む内堀3兄弟殉教者」   「有馬川に燃える有馬の8殉教者」  「証の山に登る雲仙の殉教者」



中浦ジュリアン像





神の慈しみを伝えるルイス・デ・アルメイダ像
    ローマへ派遣された少年使節の一員
    帰国後、1608年司祭に叙階
    禁教下、島原半島の最後の牧者として潜伏活動
    1632年、長崎西坂で殉教



   1527年 リスボンに生まれ、医学を学ぶ
   1552年 貿易商として来日
   イエズス会宣教師に共鳴して同会入会
   大分で日本初の洋式病院開設
   信徒の互助奉仕「ミゼリコルディア」を組織
   病苦と貧困に悩む人々の隣人として活動
   
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 昼食後の休憩時間、島原城(森岳城)の入口まで行ってみました。
 堅固な深い堀に囲まれた五重の天守閣(1964年に復興)。
 4万石の所領でありながら10万石大名並みの城郭を築いた松倉重政の農民に対する苛政とキリシタン弾圧は、1622年から過酷を極め、1637年ついに島原天草一揆を引き起こしました。
 その象徴というべき城郭。現在は、天守閣はキリシタン史料館になっているそうです。


←島原城の天守閣  堀↑
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発掘された原城跡を歩く
  島原天草一揆の舞台となった原城跡。
 藩と幕府に挑み、4か月の籠城の末、現在の島原市の人口に匹敵する3万7千人の一揆勢が、落城とともに皆殺しにされた日本史上、類を見ない悲劇の城跡です。
 坂口安吾が一揆側の記録を求め1941年「島原一揆異聞」を書き記したが、「いづれも城攻めの側の記録であつて、一揆側の記録といふものはない」と述べているように、敗者の側から歴史の真実に迫ることは困難だったといいます。
 最近になって、南有馬町教育委員会による原城跡の発掘調査が行われ、その調査結果から語られることのなかった史実が明らかになってきました。

発掘で見つかった大手門の枡形虎口跡の石垣
野ざらしの遺体とともに、石垣や堀に土砂をかぶせてあり、発掘以前は城郭の構造が不明の状態であった。

 最新の調査結果から島原・天草一揆について語る
五野井先生

 原城は三方海に囲まれた海城であり廃城というより
有馬氏が築いたまま城として機能する状態であった。


            石垣内隅部破却状況
 乱後、石垣を壊し埋め込むとき、周りにあった一揆軍の死体も一緒に埋め込んであり、石の下から多数の人骨が出土した


ここに書かれているような「原城を廃城にして構築用の石材を島原城に運んだ」ということは、発掘調査で疑問視されている


竪穴住居群が整然と並んでいた海に面した郭
一揆方の民衆が共同生活を行っていたと思われる



雲仙の山並みを背に、島原の美しい山河が眼下に広がる原城跡
「剰つさえ童女の輩に至りては 喜びて斬罪を蒙むりて死なんとす
是れ平生人心の致すところに非らず 彼宗門に浸々のゆえ也」


(そのうえ童女に至るまで、死を喜び、首を斬られた。
それは通常の人間ができることではなく、あの深い信仰の力である。)
-『島原天草日記』続々群書類従-

幕府の上使(総司令官)松平信綱の子の松平輝綱が見た落城後の光景です。


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原城の発掘調査で明らかになった遺物が、原城文化センターに展示公開されていました。

列福式にあわせての特別展「有馬の城とキリシタン」
副題〜ゆずれないものを持った人々〜に心惹かれました


おびただしい人骨とともに出土した鉛製の小十字架
鉄砲玉を鋳なおして急ごしらえに作られたもの


1951年に本丸跡の発掘で見つかった見つかった黄金十字架(南蛮文化館所蔵)
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  「ゆずれないもの持つとはどういうことか」という問いかけをしながら、雲仙に向いました。
 1627年、島原・天草一揆に先立つ十年前、信徒の中心であったパウロ内堀作右衛門ほか庄屋などの村役人が、で殉教した地です。
     激しい拷問が行われた雲仙地獄            

明日の列福式を前に
教皇代理Jサライバ枢機卿が、ここを巡礼
キリシタン殉教碑に花輪が供えてありました⇒
 「ガラサを以て キリストとローマのサンタ・エケレジヤの御證據に
身命を捧げ奉らむと 燃え立つばかり存じ奉り候。」


(今、お恵みに満たされて、私たちはキリストとローマの教会への信仰の証しとして
このいのちをすべて捧げようと、心は燃え上がっております。)
 - パウロ内堀ほか島原の各村の信徒代表が1620年にローマ教皇へ送った書簡 
ヴァチカン図書館蔵・複製が長崎半島殉教者記念聖堂に展示-
明日は、長崎に向い、188人殉教者列福式に臨みます。
ちょっとお天気が心配ですが、ローマ教皇代理の献花が、島原の信徒の手紙にこたえるよう、明日福者の列に加えられる殉教者を祝福し、私たちをはげましてくださっているように感じられた夕べでした。