2004.1.9 By.ゆみ
9.6更新

古代寺院遺跡と中世石塔の謎を追って=大和・河内の旅 T
 2003.12.27

-奥山・飛鳥寺の中世石塔・入鹿首塚の謎-

 

箸墓の椿

 2003年12月27日、久々に大和路を南へ向かいました。
 奈良から飛鳥への上ツ道に沿った169号線が、巻向駅を過ぎて大きく右へカーブすると、いやおうなく大きな古墳が目に入ってきます。 
 箸墓です。

 三輪山から眺めたり、通るたびに車窓から見るだけでしたが、今回は車を降りて寄ってみました。

 しぐれ模様の天気で、周壕の一部だったらしい池からは、冬枯れの荒涼とした景観がひろがっています。
 風を避けて、前方部の拝所へ廻ると寒椿が満開で、ホトをついて死んだという倭迹迹日百襲姫の奥津城を彩っていました。




奥山久米寺跡




奥山久米寺跡

 山田寺跡を通って、高市郡明日香村の奥山へ。
 なんどか土地の人に聞いたり、行きつ戻りつして、集落の民家の中にみつけた小さな寺院が奥山久米寺でした。

 入り口に「創建や縁起については不明である。発掘調査により、飛鳥時代の瓦が多く出土し、伽藍配置は塔・金堂が一列に並ぶ四天王寺方式の大寺院であったと、推定される」という明日香村が立てた看板がありました。

 江戸時代の小さな本堂、その前には古代の塔心礎の上に鎌倉時代の十三重塔が端正な姿で立っています。
 1500年の歴史が重なりあう光景。
 謎ときの旅とはいえ、いきなり難解なこの光景で旅は始まりました。



古代寺院の塔心礎の上に建つ鎌倉時代の十三重塔

境内の石造地蔵像

十三重塔には
金剛界四仏の種字が刻まれている





飛鳥寺門前の「入鹿首塚」五輪塔に雪が舞う

飛鳥寺の石塔

 奥山から南下して、おなじみ飛鳥大仏の飛鳥寺へ。
 今回は北魏風の大仏様は拝観せず、もっぱら境内外の石造物を見てまわりました。

 風は冷たく、時折雪が吹きつける時雨模様。
 門前に立つ「入鹿の首塚」五輪塔をしばし眺めていました。
 中世の五輪塔のようだが、ややバランスがとれていないようなので、似た大きさの各部を合わせているのか、水輪の上下が逆なのか、と話していると、自転車で史跡を回っておられる橿原市在住の方に、お声をかけられ、飛鳥の景観の見所や遺跡の解説をしていただきました。

 後日、その方からご教授いただいた「入鹿の首塚」に関する『日本歴史地名大系第30巻』からの引用です。

 <飛鳥寺安居院の西方、小字五輪に、五輪塚・首塚と称する土盛があり、その上に五輸塔が立っている。 「飛鳥古跡考」には「蘇我入鹿大臣石塔」として、「村ヨリ一町未申ノ方田中に五輪少し残れり、里人もさこそ申侍る」とある。口碑に、蘇我入鹿の首をここに埋めたと伝え、また飛鳥寺に閑居した恵慈・恵聡の墓ともいう。石塔は花崗岩製。水輪は上下逆であるが、様式上、南北朝時代の造立になるものとみられる。>

 また、中世都市研究会2004鎌倉大会で中世石塔について講演された大和郡山市教育委員会のY先生にお聞きすると、次のようなメールをいただきました。
 <『奈良県史』7 石造美術(筆者:清水俊明、名著出版,1984)によれば、「花崗岩製、高さ149センチ。水輪は下ふくれの曲線となって上下逆であろう。火輪の軒の厚みが厚く、全体の形はあまりよくない。南北朝時代」とあります。時代的にはやはり清水さんのおっしるように鎌倉末から南北朝でいいと思います。水輪の逆転については、必ずしもそうはいえないように思いますが。>

 近世には、もう中世の五輪塔の供養の趣旨も、そのいわれも、わからなくなっていたのでしょうか。
 
 五輪塔が作られたはじめたのは12世紀。そして大和・河内では、その多くが西大寺系律宗の斎戒衆によって高僧の供養塔、あるいは墓地の総供養塔として建立され、13〜14世紀にはひろく普及しました。
 遷都や律令制ともに崩壊した大和の古代寺院は、鎌倉時代に西大寺系律宗を興した叡尊とその弟子たちによって復興し、五輪塔や奥山久米寺の十三重塔のような石造物も盛んに建立されたと思われます。
 しかしながら、南北朝から戦国の世に再び荒廃し、近世ようやく村の寺として形を整えてきたころには、もう五輪塔も謎の遺物となって、さまざまな伝説が語られるようになったのでした。

 日本書紀の語る入鹿最期の物語、そして聖徳太子の師といわれた高句麗の僧・恵慈と百済の僧・恵聡の伝記もまた、古典の世界から復活して伝説として蘇り、「入鹿の首塚」あるいは「恵慈・恵聡の墓」としてのまことしやかな謂れがこの五輪塔に付託されていったのでしょう。
 


古代飛鳥寺の門の礎石
 
道しるべのある地蔵像
  

境内に残る石塔類

時雨れて、晴れて・・ 明日香の風景