2004.1.26 By.ゆみ
古代寺院遺跡と中世石塔の謎を追って=大和・河内の旅U
2003.12.27
-最初の寺院・石川精舎跡と五輪塔の謎-
飛鳥を彷徨って
久々の飛鳥探訪であったせいか、目的の史跡が探せずさまよいながら、つい「名所旧跡」の案内看板に惹かれて、畑の中の大官大寺跡、そして飛鳥寺跡から、伝板葺の宮跡、酒船石、亀形石を見て廻りました。
師走の陽はどんどん傾き、薄暗くなっていきます。
菖蒲町の住宅団地をぐるぐる廻って、石川池のほとりに出ました。
石川精舎跡と伝えられた本明寺は、確かこのあたり。でもここも奥山久米寺と同様、観光地図には何の記載もなく、団地にお住まいの方にお聞きしても知る由もないもよう。
池のそばの古い集落の中に、やっと小さなお寺を見つけました。
本明寺という浄土宗の無住のお寺です。
酒船石のある森 | 亀形石造物 |
石川池と孝元天皇陵古墳 |
石川精舎跡の巨大五輪塔
本堂の柱の小さな木製の由緒書きが打ち付けてあります。「石川精舎。今本明寺と称す。
敏達天皇十三年、蘇我の馬子、百済より貢するところの仏像を請い受け、己が石川の宅に於いてこれを安置す。
仏法の初まりは茲より作れりという。」
「日本書紀」敏達天皇13年の条の引用でしょう。
本堂の左側は小規模の墓地になっていて、第二次大戦で戦死した村の兵隊たちの墓標が並んでいます。
そしてその奥に、私の背丈より数十cmは高い立派な五輪塔がありました。
五輪のバランス、蓮弁の意匠、総丈230cmというその大きさ。
一見して、鎌倉時代の律宗系の五輪塔であることは疑いようもありません。
銘文や梵字の彫りもないところから、叡尊の法脈につながる西大寺系の高僧の墓塔であろうと推測されますが、なんと「土地の人から『馬子塚』と呼ばれている」とガイドブック(『聖徳太子の寺を歩く』JTB発行)は語っています。
ところで、『橿原市史』に次のような記事があることを、橿原市の方からお教えいただきました。
「本明寺 石川町565 浄土宗。
寺は石川精舎の跡に建てたと伝える由緒をもつ。
本堂と庫裡があるささやかな構えであるが、境内に土垣が残り、巨大な五輪塔がある。
五輪塔は蘇我馬子の塔と伝えられ、高さ230糎、各部完備する鎌倉時代の立派な石塔である。
本堂は入母屋造、三間四面で庫裡に接続している。
本尊は釈迦如来、文殊・普賢の両脇侍がある。
他に阿弥陀如来、地蔵菩薩、元祖大師像などを祀る。宝物に釈迦涅槃画や二十五菩薩来迎図などがある。」
石川精舎跡(本明寺)と五輪塔 |
伝「馬子塚」五輪塔(230cm) |
「役の行者」の石像と境内の石仏 |
また、『日本歴史地名大系第30巻』の「奈良県の地名」には次のような記事があるとのことです。
「石川精舎については、『大和志』に『石川廃精舎、石川村古址、今有本明寺及石浮屠高丈余許』とあり、現石川町の浄土宗本明寺の地をその跡と伝える。
しかし、同寺付近には古瓦の出土もないことから、他にこれを求めるべきであるともいわれている。
同町小字ウラン坊とする説や、河内国石川(現大阪府羽曳野市・柏原市付近)の地に求める説もある。
本明寺には南北朝様式の五輪塔があるが、『越智家譜伝』に、大永3年(1523)2月19日の久米寺石川の合戦に討死した32人の追善供養のために越智家栄が立てたとある塔か。 もとは久米町芋洗地蔵境内にあったという。」
越智氏は、南北朝のころより大和南部で勢力を強め、永享元年(1429)筒井党と対決して「大和永享の乱」を起こし敗北しました。
しかし、この乱ののち再興した越智家栄(いえひで)は、文明9年(1477)畠山義就の助けで宿敵筒井を討ち、以来優勢を保ちつつ、一揆と戦乱の絶えない時代を生き抜き、明応9年(1500)に亡くなります。
「越智家譜伝」の記述は、年代に不明な点がありますが、この地でくりひろげられた激しい戦闘の記憶が、巨大五輪塔に付会されて、越智家栄の事跡として語られたのでしょう。
本明寺に、なぜ鎌倉時代の巨大五輪塔が、完全な姿で立っているかはわかりません。
墓地は小ぎれいに整理されていて、「役の行者」の石像のほか、中世や近世前期に遡りそうな板碑型の石仏などが、丁寧に並べられていました。
村人の生死を見守つつ、石川というゆかりの地名に仏教発祥のいわれを説く聖の姿が思い浮かびます。
「本尊は釈迦如来、文殊・普賢の両脇侍」という配置からこの寺の前身を思うと、その時代は叡尊の同志が活躍した鎌倉時代なのかも知れません。
最初の尼寺 向原寺
とうとう日が暮れてから、豊浦の向原寺へと向かうことになりました。
ここも集落の中にあるのですが、道標などもあって見つけやすく、ほっとしました。
『日本書紀』では、向原(むくはら)にあった蘇我稲目の邸宅を寺にし、『元興寺緑起』では、さらに敏達天皇11年(582)に向原殿の寺を桜井道場とし、翌年3人の尼に住まわせたといいます。
この尼たちが百済に留学、崇峻天皇3年(590)に帰国すると、桜井寺という尼寺に整備、その後に僧寺として飛鳥寺が建立されたというわけですから、最初に日本で仏教を信仰したのは女性たち!ということを記念すべき尼寺でした。
さらに桜井寺は推古天皇元年(593)には豊浦の宮を寺として、豊浦寺となり、のちに建興寺、向原寺、または広厳寺などと呼ばれたとのこと。寺名にも歴史の長さを感じさせる寺です。
暗くなって、見学客も誰もいない境内を見て廻りました。
本堂と左手の庫裏の間の渡り廊下の下に、推古天皇の豊浦宮と推定される柱列遺構が発掘された姿で保存されています。
『元興寺緑起』が伝えるように、ここはまさしく豊浦宮の上に建てられた寺なのです。
仏教初伝の逸話に、自邸に持ち帰った仏像を廃仏派の物部守屋の手で、難波の堀江に投げ込まれたという話があります。
その仏像は、本田善光によって拾われて信濃に安置され、善光寺の起源となったと伝えられ、向原寺の横には、各地の善光寺講が奉納した善光寺式阿弥陀三尊の石像と石碑があります。見ると講に連ねている名の多くは、女性たちでした。
縁起も、各時代の伝承と逸話が書き加えられ、現在に至っていますが、推古天皇と最初の3人の尼への共感が、今も息づいているやさしいお寺のように感じました。
豊浦の太子山向原寺 |
境内の左横の善光寺式三尊像と寄進碑 |
向原寺の後の甘樫坐神社 |
「立石」とよばれる巨石とさまざまな石 中には中世の宝篋印塔の笠石もある |
甘樫坐神社にて
向原寺の後に廻ってみると、甘樫坐神社がありました。
ここは神奈備である甘樫丘、古来からの聖地でもあったのです。
拝殿の右に「立岩」と呼ばれる不思議な石が祀られ、さらにその周りにも大小の石が集められてあって、中には中世の宝篋印塔の笠石も見えます。
先史時代からの素朴な巨石信仰が、今も続いているのでしょう。
説明板によると、ここで、「日本書紀」に書かれている允恭天皇4年(415)の呪術的裁判「盟神探湯」(くがたち)がおこなわれたとか。
そして今も「立石」の前で行なわれる「盟神探湯神事」が、氏子によって伝承されているのだそうです。
しかし、私の住む千葉をはじめ各地にも、沸かした湯を笹に浸し、その湯滴を浴びてお払いをする湯立神事が伝わっています。
「日本書紀」は、むしろこの伝統的な湯立神事をヒントに、政治的裁判としての「盟神探湯」を創作しているのではないか。そうだとすると、その記述力はさすが!と、私は思ってしまうのですが、いかがでしょうか。
人柱伝説などと同様に、煮え湯に手を入れるなどというこわいお話は、たぶん伝説の世界のことと私は思っていたのですが、『奈良の中世』という本では、奈良の南の端の福寺では「湯起請」という神判が応仁のころも行われていたそうな。おお、こわっ!
12月27日の謎探しの散策はおしまい。旧24号線の中街道を通って奈良市内の宿に帰りました。
明日は、西琳寺をはじめ、河内の聖徳太子信仰の故地の寺を訪ねます。
参考HP:「蘇我三代」(「飛鳥資料館」より) Don Panchoのホームページ 戦国家伝 越智氏