2004.2.8 By.ゆみ

古代寺院遺跡と中世石塔の謎を追って=大和・河内の旅 V
 2003.12.28

-西琳寺の古代伽藍の跡と五輪塔群-

 隠国の大和から河内へ

 翌28日、隠国(こもりく)の大和から、奈良街道国道25号線を走り、河内へと向かいました。
 信貴山と二上山の硲を抜ける大和川沿いのこの道は、古代から人とものと文化の風が吹き抜ける道だったのでしょう。

 古代のまま時代が止まったように感じさせる大和盆地の風景に対し、山なみの向こうの河内のそれは、幾重にも時代が重層した上に、現代の庶民のくらしが繰り広げられているよう。
 古寺の門前には街の喧騒が絶えず、また濠をめぐらした巨大古墳が、ビルや家並みの間に軍艦のように浮かんでいる風景なのです。


 西琳寺の古代伽藍の跡

 はじめに西琳寺に向かいました。
 古市駅前から商店街の角に「右大坂/左大和路」と彫られたりっぱな道標があります。
 ここは、東高野街道と大和へと通じる竹内街道が交差する交通の要衝です。

 この竹内街道を西へ行って「石川」を渡り、その支流「飛鳥川」と遡ると聖徳太子廟所の「上の太子」叡福寺へと通じています。
 竹内街道沿いには、「飛鳥」(=近つ飛鳥)など不思議と大和と同じ地名が重なっていて、古代文化の発祥の地は、楕円の焦点のように二重にあるようです。

 この道標付近に西琳寺があるはずなのですが、それがなかなか探せず、高屋橋との間を行ったり来たり。やっと街の人に尋ねて行き着きました。
 百済から渡来した王仁を祖とする西文氏(かわちのふみし)の氏寺として創建され、壮大な寺だったという西琳寺も、今は住宅に囲まれた意外に小さな寺院なのでした。

 

向原山西琳寺山門

山門前の道標
 
 門前に「本朝仏事最初 本尊三国伝来釈迦如来」の石標。そして山号は「向原山」。寺伝によれば蘇我稲目の創設を伝え、大和飛鳥の「向原寺」(=豊浦寺)とオーバーラップしています。
 ここもまた「牟原(むくはら)の宮」の伝承地、そして欽明天皇の妃・堅塩媛(きたしひめ)の生家らしいのです。

 山門を入ると左側に、径3m高さ2mの巨大な礎石が据えられています。日本一の五重塔心礎です。
 上面には4本の半円形支柱穴に囲まれた形の心柱穴が水をたたえていました。
 飛鳥・天平時代は七堂伽藍のそびえる大寺だったことを偲ばせる礎石です。

 巨大な礎石の心柱穴
横から見た高さ2mの五重塔礎石 

 
 西琳寺五輪塔の謎

 礎石の右隣には、巨大な石造五輪塔が5基並んでいます。
 奥の院高屋宝生院跡で出土した律宗高僧の墓塔で、中央の最大の塔は、293cmの高さがあり、西琳寺中興の叡尊の塔と伝えられています。
 五輪塔の前には、同じ花崗岩でできた花入れらしき壺が供えられていました。これは骨蔵器であったようです。

 

奥の院高屋宝生院跡から移された5基の五輪塔
 叡尊は建仁元年(1201)大和郡山に生まれ、奈良東大寺で自誓受戒を行い、真言密教を学んだ後、戒律の復興を志して西大寺を拠点に大和・河内の古寺を復興し、また社会の底辺で苦しむ人々のために活動した律宗の僧でした。
 この西琳寺も叡尊によって再興された寺院です。

 細川涼一氏は永和4年(1378)成立の『西琳寺流記』の「五基石塔、中央開山、東方第二長老・・・」について、「中央開山」には叡尊を当てています。(「中世の律宗寺院と民衆」第3章)

 しかし、戒律の普及と伽藍の復興に力を注いで正応3年(1290)90歳で没した叡尊の遺骨は、記録どおり西大寺奥の院の一丈一尺(340cm)の「石造五輪塔」に葬られています。

 桃崎祐輔氏の説によれば、13世紀末から各地に建てられた巨大な五輪塔は、この西大寺奥の院の叡尊の墓塔を初めとし、またそれを大きさの頂点として、西大寺末寺の開山・長老の墓塔が、その地位と相関する一定の規範で建立されていきます。(→図「西大寺と律宗諸寺院の巨大五輪塔」)
 また、西琳寺の伝・叡尊塔は、実は西琳寺を再興開山し、正和元年(1321)没した叡尊の俗甥の日浄坊惣持の墓塔という説が有力だと桃崎氏は示唆しています。(「戒律文化研究」第2号)

 西大寺律宗は、その後鎌倉政権の滅亡と南北朝の混乱のから中世末期には衰微し、大教団として近世に続かなかったため、その残された大きく優れた石造物にはその由来が忘れ去られて、さまざまな伝承が仮託されてきました。
 西琳寺の五輪塔にはまた一説に、戦国時代に奥の院高屋の山を城とした畠山氏一族のものという伝承もあるらしいのです。
 これほどのりっぱな石塔の由来があいまいになってしまうほど、中世末期の戦乱はきつく、また七百年の歳月は長かったのだと思いました。
 
 次は野中寺を訪ねます。



参考HP:  Don Panchoのホームページ