2004.2.21 By.ゆみ

古代寺院遺跡と中世石塔の謎を追って=大和・河内の旅 W
 2003.12.28

-野中寺の結界石と弥勒像の謎-

 

近世律宗の結界石
「中の太子」野中寺へ

 商店街の奥の民家に埋もれるような西琳寺のささやかな境内から、巨大な誉田山(応仁陵)古墳の裾を廻って野中寺に向かいました。
 
 府道羽曳野線の広い通りに面して赤い山門が見えます。
 野中寺創建当時の中門の跡といいますから、かつての南大門はさらに南50mのところにあったわけです。

 門の右手前に「大界外相」と彫られた石碑がありました。
 なんと律宗の結界の標石ではありませんか。
 裏側を見ると花崗岩で見難くいのですが、近世の寄進者名が彫られているようです。
 門をくぐるとひろびろと壮大な境内が広がっています。
 はるか先の本堂は旧講堂跡に建っているとか。
 そして参道の左手に塔跡、右手に金堂跡の礎石が残っていて、船氏の寺であったという古代伽藍の様相が想像できます。

 竹内街道の中ほどにあるこの寺の通称は、「中の太子」。
 蘇我物部戦争の際に厩戸皇子がこの地で休息をとり、その後聖徳太子の命で蘇我馬子が造営したと寺の「略縁起」は語っていました。

 羽曳野市教育委員会の笠井敏光氏によれば、「庚戌年正月…」とへら書きされた瓦が塔跡から出土し、瓦の文様の編年から650年と判断されるといいます。
 また、1987年の羽曳野市の調査で、寺域の東北方から鋳造関係の溶解炉遺構が検出され、分析によってその金属は真鍮であったことがわかったそうです。(『古代を考える 河内飛鳥』)

 塔跡の心礎


 三重の塔であったという塔跡の基壇には、きれいにその礎石が並んでいます。
 中央の心礎には3つの支柱用半円形がついた花弁のような穴が穿かれ、その形は飛鳥の橘寺の心礎を思わせるものでした。

 またさらに、その縁にはなんとユーモラスな亀が線彫りされていて、石の亀が塔を支えるという姿は、韓国で見た石碑を支える亀趺を思いださせます。


中門跡から境内へ 
正面講堂跡には本堂、左に塔跡、右に金堂跡の礎石列が残っている



塔基壇跡


巨大な心礎にな亀の線彫りが・・

 
 残された結界石

 そして参道の反対側には、金堂跡の礎石列。
 左右に塔と金堂、正面に講堂という伽藍配置は法隆寺式に似ていますが、発掘調査でわかった階段の位置から塔と金堂が向き合っているようです。

 さて、塔跡の奥正面と金堂の基壇上には近世のりっぱな宝篋印塔が建っています。

 そして金堂の基壇の縁をよく見ると、「大界外相」と標された律宗の儀軌による結界石が2基、何の説明もなく、捨て去られたように半ば埋まっていました。
 忍性が活動した茨城県の土浦の般若寺にも中世の結界石があります。
 この結界石とは、布薩(僧侶の定期集会)に際して寺院を清浄にするため、「結界作法」という儀式を行った際使われた石なのです。

 いただいた略縁起では、「南北朝の争乱で伽藍はことごとく灰燼に帰し、江戸時代寛永寛文年間に、政賢覚英師が大和西大寺派の慈忍恵猛師を招聘してともに再建された」とこと。
 またこのころの野中寺は律寺として脚光を浴び、泉州の神鳳寺・山城の西明寺と律三僧坊と称される戒律道場だったそうです。
 山門前の大きな結界石も、塔跡に並ぶ宝篋印塔もそのころのものなのでしょうか。



金堂跡の礎石列と宝篋印塔、そして結界石

半ば埋まった結界石
 

「聖徳太子展」2001図録より
弥勒像の謎

 野中寺には、大正7年(1918)に宝蔵の塵芥の中から発見されたという有名な金銅弥勒像があります。
 通説では白鳳時代666年の作とされるかわいらしい真鍮製の半跏思惟像を、ぜひ拝観したいと思ったのですが、毎月18日が拝観日とのこと。今回は断念しました。

 この像の台座框には、次ぎのような61文字の造像記が刻されています。

 「丙寅年四月大旧八日癸開記栢寺知識之等詣中宮天皇大御身労坐之時誓願之奉弥勒御像也・・」

 「栢寺」とは? 「中宮天皇」とは? さらに暦の記述など謎の多い難解な銘文で、これまで大山誠一氏ほか多くの研究者がその解釈に挑戦してきましたが、4年前東野治之氏が『国語と国文学』77-11号で「銘文が撰文された時期は、大正7年(1918)に近い時点」と発表。
 この衝撃的な発言に対して、麻木脩平氏が『佛教藝術』256号で克明な分析で反論し、素人にはますます難解な謎多き弥勒像となっているようです。

 近世の『河内名所図会』には「・・弥勒仏金像を安置す。これは聖徳太子悲母追福の為に鋳せられし霊尊也」と書かれてあるとのこと。
 半跏思惟像を一般に「救世観音」か「如意輪観音」と呼んでいた江戸時代に、『河内名所図会』の筆者がこの像を「弥勒」として認識していたのは銘文があったから、という麻木氏の論には、私はなるほどと感じました。
 
 またこの像の金銅(真鍮)の組成と、笠井氏から教わった真鍮の鋳造遺構との関連もぜひ知りたい点です。

  

聖徳太子信仰を残した時代

 野中寺には、太子の作という本尊薬師如来や、「太子閼迦井」と呼ばれる井戸など、史実として確かめようもない「太子ゆかりのもの」があります。
 
 『河内名所図会』で弥勒像を聖徳太子の発意と早とちりしているなど、「中の太子」野中寺は聖徳太子の逸話と不可分であり、またこの背景としては、叡尊ら中世律宗教団の説いた太子信仰を無視することはできません。

 今、野中寺には、本堂後の地蔵堂に安置された地蔵菩薩像が鎌倉時代初期の優品というだけで、中世律宗の活動を示す遺構はほとんど残されていません。
 しかし、庶民の中に深く根を下ろした太子信仰や、寺院に付随した墓地など現代につながるその営みの中にその姿を偲ぶことができるように思います。

 近くで発掘され境内に移されたというヒチンジョ池西古墳の石棺を見てから、お染・久松の墓があるという広い野中寺の墓地を散策しました。

 近世の石仏がピラミッドのように積まれた無縁塚があり、その一部には、中世の五輪塔が無造作に埋め込まれている姿も見受けられます。
 葬送や追善を行い、墓地に石塔を立てるという営みは、鎌倉時代からのことであり、それが庶民へと拡がっていた背景には、やはり西大寺流律僧の活動が重要な役割をしていたといえるでしょう。

 次は誉田八幡神社と峯ヶ塚古墳を訪ねます。


鎌倉時代初期の地蔵菩薩像が安置された地蔵堂

野中寺墓地の無縁塚 

 
無縁塚の五輪塔残欠  

お染久松の墓

参考HP: Don Panchoのホームページ  羽曳野市デジタルアーカイブ