2004.3.15 By.ゆみ
古代寺院遺跡と中世石塔の謎を追って=大和・河内の旅 X
2003.12.28
-寺院だった誉田八幡宮と御廟山伝承の謎-
羽曳野の光景
初めて羽曳野市を訪ねたのは、1998年の夏のこと。、羽曳野教育委員会のK先生が講演会の講師をされた際「いつでもご案内しますよ」というお言葉に甘えての、さっそくの旅でした。
喜志駅まで迎えに来てくださった軽トラに乗ると、K先生はどんどん山の方へと向かい、「これが有名な河内ワインの畑ですよ」とぶどう畑の間を抜けて、丘の上の霊園で車を停められました。鉢伏山の中腹のようです。
眼下に広がる大阪平野、人家や工場の立ち並ぶその中に、濃い緑の大小の島のような古墳が点々と分布しています。
「こちらが古市古墳群、そして向こうが百舌鳥古墳群です」と指差された鳥瞰図のようにひろがる風景。思わず「河内王朝」という本の題名がうかんできました。
神宮寺「長野山護国寺」として栄えた「誉田八幡宮」へ
あれから六年、三度目の羽曳野訪問でした。
神宮寺として栄えたころの名残りの南大門
誉田八幡社殿
ここへ来たからには、誉田山古墳を「御廟山」つまり「応神陵」として祀る誉田八幡宮へお参りしないわけにはいきません。
わが家の近くの習志野市大久保にも、ここから勧請した誉田八幡社があるほどですから、この界隈の中近世の賑わいは、おして知るべしでしょう。
東高野街道の石畳の道を行くと、神仏習合の名残りの南大門があり、そこを素通りすると角に江戸時代の道しるべが建っています。
その角を左折すると神社らしく新しい鳥居が雄雄しく建っていて、その横に、天保年の境内絵図「河内国誉田八幡根本社内之図」を掲載した説明板があります。
絵図を見ると、正面には社殿があり、社殿の右手には橋を渡って誉田山古墳の後円部に建つ八角の塔と参道がつながっています。
絵図は、塔や鐘楼、また現在社務所のところには寺院の伽藍が立ち並び、神宮寺「長野山護国寺」としてにぎわっていたころを彷彿させます。
国宝「金銅製透彫鞍金具」の時代
境内に入って、まず社務所の宮司さんに収蔵庫の入館をお願いしたところ、年末のお忙しい中、私たち二人だけのために鍵を開けてくださいました。
ここには、誉田山古墳の陪塚丸山古墳から出土した2領の国宝の「金銅製透彫鞍金具」があります。
このうち特に2号鞍は、中国遼寧省喇嘛洞UM101号墓で最近出土した鮮卑族の鞍と「細部に至るまでほとんどまったく同一」と、2001年7月に桃崎祐輔先生が驚きをもって、いち早く「さわらび通信」掲示板にお知らせいただいた注目の馬具です。
(掲示板過去ログ「179. 『三燕文物精粋』の驚愕 02/07/01」をご覧ください。 )
そしてこの陪塚の馬具の年代から桃崎先生は、誉田山古墳を在位が4世紀末〜5世紀初頭と考えられる応神天皇の陵ではなく、より早い時期の允恭(443年即位461年に歿)の陵墓と考えるのが妥当という説を提起しています。
誉田山古墳の陪塚丸山古墳から出土した2号鞍
内側が直線的で120°角で角張っているのが特徴中国遼寧省喇嘛洞UM101号墓で出土した鮮卑族の鞍
「御廟山」の伝承
この宮の縁起では「欽明天皇の命で応神陵古墳の上に設けられた日本最古の八幡宮」と伝えられてきているようです。
応神天皇の陵とされている同様な御廟山としての伝承では、勇壮な布団太鼓の祭りで有名な堺市の百舌鳥八幡宮が、欽明天皇の時代、八幡神の託宣によって創建されたという「社記」を伝えています。
そしてここも、JR百舌鳥駅近くの「応神天皇の被葬地である御廟山古墳」を奥の院とし、江戸時代の「堺絵図」にもそう描かれているそうです。
古事記に「誉田別尊(ほむたわけのみこと)の恵我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)」として、また日本書紀の雄略紀に、田辺史の話として、「柏原から古市に向かう途中の誉田陵のところで出会った人物と馬を交えたが、翌朝自分の厩舎の馬は埴輪になっており、元の自分の馬は誉田陵の埴輪の中にいた」という伝承を伝えています。
さらに、延喜式では「東西五町、南北五町」の「恵我の裳伏の岡陵」を応神天皇陵と記しています。
伝承や文献から応神天皇の陵として疑う余地のないように思われてきた古市の誉田山古墳、そして誉田八幡宮ですが、円筒埴輪の編年、さらに陪塚の鞍金具の様式からも応神陵比定に無理があるとするなら、むしろ記紀の記された時代にすでに「御廟山」伝承として成立していたことの由来を訪ねてみたくなります。
安産・厄除けの守り神として、今もお参りが盛んな八幡宮 |
神宮皇后安産伝承にちなむ 槐(えんじゅ)の「安産木」 |
特に神社としての創建については、平安中期の永承6年(1051年)前九年の役の平定を祈念して現在地に社殿を新築したのを始まりという説が妥当かもしれません。
鎌倉時代よりは源氏の守護神として武将たちの信仰を集めたというのも、なにより鎌倉幕府を開いた源頼朝の祖「(河内)源氏」の発祥の地、壺井がすぐ近くだったからでしょう。
寛仁4年(1020年)、源頼信が河内国司に任ぜられ、その子の頼義と孫の義家(八幡太郎義家)は前九年の役や後三年の役で活躍し、武将としての地位を確立したちょうどそのころが、この神社が盛んになったのだと思います。
それにしても、収蔵庫には鞍金具のほか誉田八幡宮の歴史を語る貴重な社宝があります。
鎌倉時代の神輿、江戸時代のだんじりは、古市の町衆の活気を伝え、また紺紙金字の法華経は平安末期から寺院として信仰されていた神仏習合の歴史を物語っていました。
神輿が渡る放生橋 今はこの手前から立ち入り禁止の陵墓です |
多宝塔とあるけれど・・・ |
境内の放生橋と多宝塔
外へ出て、豊臣秀頼の寄進、大阪夏の陣により未完成に終ったという社殿で参拝、奥の院につながる放生橋を見に行きました。
鎌倉時代初期に造られたこのみごとな石造橋は、おそらく律宗系の石工の手になると思われる確かな技術をしのぶことができます。
しかし今は橋の手前から陵墓で、昔はこの橋を渡って古墳の上まで登拝も可能だったそうですが、今は9月大祭の時のみ神輿が渡ります。でもその先は立ち入ることはできません。
社殿の右側に、明治の廃仏毀釈でも忘れられたような崩れかけた石造の多宝塔がありました。
鎌倉時代以前と思われる素朴なつくりで、神仏習合の歴史の古さを感じさせてくれます。
峯ヶ塚古墳へ
時間がたつのを忘れ、昼食時を過ぎていることに気づき、峯ヶ塚古墳の脇のケーキ屋さんへと車を走らせ、カフェテラスで美味しいパスタをいただきました。
実はこのお店は、峯ヶ塚古墳の周溝に建物がかかるのを設計変更してもらったいきさつから、K先生のお気に入りのお店で、テラスから白鳥陵古墳と二上山が美しく望むことができます。
二重の周溝をもち後円部石室から華麗な副葬品が出土したこの峯ヶ塚古墳は、5世紀末から6世紀初頭に築かれた大王陵クラスの古墳と推定され、陵墓指定外のため発掘調査が可能な貴重な古墳で、今も続けられている調査の報告は楽しみです。
峯ヶ塚古墳
峯ヶ塚古墳から白鳥塚古墳、後に二上山を望む
奈良への帰り道は、古い道しるべに導かれて、道明寺から葛井寺、さらに津堂城山古墳から、八尾市の大聖勝軍寺を経由することにしました。
年末の日没ははやく、まさに落日との競い合いとなったこの夕方のレポートは次ページをご覧ください。
参考HP: 関西デジタル・アーカイブ羽曳野市