2004.4.13 By.ゆみ

古代寺院遺跡と中世石塔の謎を追って=大和・河内の旅 ]
 2003.12.29

-草壁皇子の陵墓を探して-

 

 

のどかな佐田のムラの風景
真弓丘の陵墓

 高取町まで来たからには、さらに真弓の岡にねむるという持統天皇の愛子であった草壁皇子の陵墓を探してみることにしました。
 まずは、橿原考古学研究所の昭和59年の調査で草壁皇子の陵墓の可能性が示唆された「束明神古墳」探しです。

 詳しいガイドブックも地図も持たず、大雑把なカーナビの指示と勘だけがたより。
 真弓丘陵の裾野の佐田という集落に車を止め、民家の間のほそい道を当て推量で、登っては戻ることを繰り返し、やっと地元の方に道をお聞きして、春日神社の中の束明神古墳を探し出しました。
 
 束明神古墳のある春日神社へは、集落の最奥の円浄寺の脇の道を登っていきます。住職さんの生活がそのまま村人の生活であるような小さな寺です。
 裏の墓地には、中世の小さな五輪塔や、五輪塔を浮き彫りにした舟形の石塔があり、歴史を感じさせます。

 春日神社も、村の産土というような小さな神社。その傍らに「遥拝所」と刻まれた石標があり、その背後の塚が「束明神古墳」でした。
 
   
円浄寺この道を右に上がっていくと春日神社にいたる 境内の墓地には中世の五輪塔などがある
春日神社参道

参道は年末のお掃除の際中

束明神古墳(春日神社の伊勢遥拝所になっていた)

 拝殿に架かっていた「束明神古墳之図」


束明神古墳の被葬者像

 束明神古墳についての説明板によると、この目立たなかった古墳が調査の対象になったのは、高松塚古墳調査によって、終末期古墳が注目されたからだったとのこと。
 昭和59年の発掘調査により、石槨の規模等は、これまで調査された終末期古墳で見られなかったほど大規模なもので、石槨の変遷、棺の構造、須恵器等から総合的に判断して、7世紀後半から末頃の古墳と考えられ、また、歯牙6本が出土し、年齢は青年期から壮年期と推定され、草壁皇子の墓の可能性が多いと、記されていました。

 草壁皇子は、天武天皇と持統天皇の間に生まれ、持統3年(689)に28歳で亡くなりました。
 天武帝が「朕がこども、おのおの異腹にて生まれたり。然れどもひとつの母同産の如し慈まむ」と6人の皇子に吉野で誓わせた翌々年の天武10年(681)、う野皇女(のちの持統天皇)は自らの腹の草壁皇子を立太子に立てました。
 朱鳥1年(686)天武の崩去後、持統天皇はその地位を継承したものの、草壁に先立たれ、以後は孫の軽王の成長に望みをかけたといいます。
 母帝が甥の大津皇子を謀反の罪で処刑したことが、草壁皇子にとっては心の重荷になっていて、それ故の夭折と想像されています。
  
 「朝日照る佐田の岡辺に群れ居つつわが泣く涙やむ時もなしとの舎人の歌、また、「ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも」と柿本人麻呂の挽歌にも詠われた草壁皇子の死です。
 母・持統帝が悲しみのなかで築いた墳墓がどのようなものであったか、古来から興味があったと思います。

 橿原考古学研究所の昭和の発掘で明らかになったのは、墳丘は直径18m、天武・持統天皇陵と同じ八角墳で、墓室は家形の石棺式石室、二上山の凝灰岩を縦横60cm、厚さ30cmの切石にし積み上げた草壁皇子にふさわしい造りであったことでした。


岡宮天皇陵(左)と 神社への道(右)

岡宮天皇陵背後のスサノヲ神社


 岡宮天皇陵


 ところで、現在「公式に」草壁皇子の陵とされているのは、岡宮天皇陵です。
 一応そこへも行ってみることにしました。
 
 草壁皇子は死後の天平宝字2年(758)、岡宮天皇と追号され、文久のはじめの治定で、その陵墓は、束明神古墳から低い尾根を南にひとつ越えた森側のスサノヲ神社本殿のあったところとされました。
 四天王信仰から「天皇」に転化した地名故とも、また、明治初年に束明神塚古墳が天皇陵に指定されそうになったとき、村民たちが当局を騙してこの森側の神社を陵に指定させたともいわれています。
 陵墓に指定されると、立ち入りが禁止されたり、接収されたりすることが危惧されたからでしょう。

 のどかな田園を望む緑濃い真弓の丘の中腹に、例によって陵を示す鳥居と柵が廻っています。
 右手の小路を上り、左手の柵越しに何か塚でもあるかと覗き込んで見ましたが、藪が深くてよく見えません。
 見上げると正面に、陵墓のあったところから移されたらしいスサノヲ神社?があります。
 狛犬さんが木漏れ日の中、楽しそうな表情で番をしていました。


 山田寺跡を通って帰路へ

 大和の鄙びた風景のなか、道探しに時間を費やしてしまい、もうこれ以上欲張っての史跡探訪はあきらめ、遅い昼食をとって帰路に着きました。

 飛鳥奥山から169号線がカーブする山田でちょっとだけわき道にそれ、往路にパスした山田寺跡を訪ねました。
 あれほど晴れていた空が、にわかに時雨れてきています。
 奈良駅前に車を返す時間も迫っていて、ゆっくり復元された礎石遺構を見ることはかないません。 
 山田寺の盛衰を偲びつつ、後ろ髪を引かれる思いで車に戻り、歳末の買い物客でにぎわう奈良市街へ、そして近鉄と東海道新幹線を乗り継ぎ帰京の途に着きました。
 
 さまざまな疑問に遭遇した大和〜河内の再発見の短い旅は終わり、こうして私たちの2003年も暮れていきました。
−完−

参考HP:高取町 Don Panchoのホームページ 倭しうるわし・束明神古墳 高松塚光源