2004.4.13 By.ゆみ

古代寺院遺跡と中世石塔の謎を追って=大和・河内の旅 \ 
2003.12.29

-近世の謎の山城・高取城-

 高取城址へ


壷阪口のジグザクの登り道

 壷阪寺まで上がってきたついでに、その背後にある高取山頂上の城郭跡まで行ってみることにしました。
 ガイドブック(「奈良県の歴史散歩」山川出版)では壷阪寺バス終点から徒歩20分となっていたのですが、カーナビでは車も通行可能のようなので、時間の節約のため、一気に城の入り口まで車で上がってみました。
 (便利でしたが、駐車場がないので、観光シーズンは、きっとご法度でしょう。それに登山道にあるという五百羅漢も、猿石も見逃してしまったので、お時間のあるときにはお勧めしません)


 近世の山上の城の謎
 
 ジグザグな城址への登り口を上がっていって、ひらけた景色は意外でした。
 累々と築かれた石垣、時代はまさしく近世。江戸時代の城郭がこんな山の上に展開しているとは!
 「土佐の城見て雪やとおしやる あれが雪かよ土佐の城」と俗謡に詠われた高取城。
 近世の城は平城というのが常識なのに、大和ではこのような険しい山の頂上に、姫路城のごとき白亜の連立式天守閣が聳え立っていたのです。

 高取城は中世、南朝方の武将越智氏の詰め城であったいわれます。
 その後、天正年間に越智氏とともに滅んだあと、郡山に本城を築いた筒井順慶により再興。 
 天正13年(1585)豊臣秀長が、家臣の本多氏に高取城を守らせ、このとき「カキアゲ城」と呼ばれる土塁と堀の中世山城から、石垣を築く近世城郭を構えるに至りました。
 高取城の石垣の隅石には、古墳の石棺や、石塔などが転用されていますが、それもこのときのことであったのでしょう。
 以前見た安土城の石垣や敷石にも、石仏がためらいもなく転用されていたことを思い出します。
 


大峰山遠望

 江戸時代になって、多くの山城が廃止された中で、関西ではこの城だけが例外とされたのは、なぜでしょう?

 この地は、畝傍から芦原峠を越える現169号線と、明日香から栢森〜芋峠を越える街道の要であり、京から吉野への見張り台に当たります。

 古くは壬申の乱、また義経の一行が逃げおおせた吉野路。
 そして中世争乱の元となった南朝が百年にわたってその勢力を維持した吉野の地を、天下泰平の世になっても怖れつづけ、堅固な城を維持し続けたとしか思えません。
 といっても、この城を守る譜代の植村家臣にしてみれば、山城での生活はつらくきびしいものがあったらしく、やがて下子島村の土佐町よりに武家屋敷を構えて住むようになりました。

 そして幕末、天誅組が蜂起。
 十津川郷士と合流して吉野へ奔ろうとした際、高取城を襲い敗走したという事件がおきます。
 吉野は神がかった反政権の地、という過去の歴史の認識が、不気味によみがった事件でした。



 
 本丸跡の石垣

古墳石室を転用する際に刻まれた楔の跡が残る隅石
(下から2段目)
 
本丸の向こうは、吉野の山々

『巽高取 雪かと見れば 雪でござらぬ 土佐の城』の歌碑

 

参考HP:高取町 Don Panchoのホームページ