2004.4.1 By.ゆみ

古代寺院遺跡と中世石塔の謎を追って=大和・河内の旅 [
 2003.12.29

-壷阪寺に見る藤原京と慶州南山の面影-

 奈良奥山から日が昇る

 3日目の奈良の夜が明けました。その朝、カメラを持ってそっと宿を出ました。
 師走の冷気の中、西国の太陽はなかなかその姿を見せません。
 奈良公園の荒池のほとりで待つことしばし、やっと朝日が顔を見せました。
 今日も晴天のようです。

  
奈良奥山から日が昇る

 
 南へ、壷阪寺へ


 昨日、葛井寺門前で見た「右 つぼさか よしの はせ いせ」の道標に心引かれ、この晴天のチャンスを生かして、展望のよい壷阪寺に行くことにしました。

 奈良の市街地から吉野方面へ、169号線をひたすら南へと走ります。
 市街地を過ぎ、見瀬丸山古墳をかすめ、高取の緑濃い丘の辺道から清水谷へ。
 そこからは壷阪への登坂車道となりました。

 このドライブコースは、夏に旅行した新羅の都・慶州から南山の山寺へ向かう山道を思い起こさせます。
 やがて、高取山の中腹に美しい伽藍が建ち並ぶ壺阪山南法華寺(「通称・壷阪寺)に到着しました。



江戸時代の再建の仁王門・八角円堂(平安初期の建立場所に再建)
そして室町時代の礼堂が建ち並ぶ壺阪寺

高取山を背景に、明応6年(1497)に竣工の三重塔婆も美しい

左に畝傍山 右に香具山、その間には藤原京条坊の名残りのラインがくっきりと浮かんで見える


 藤原京の聖なる山

 登坂道路を上がって来たときの「慶州の南山」という印象は、やはりそのとおりでした。
 眼下に広がる大パノラマ。左に畝傍山 右に香具山、その間には、壷阪寺をまさに焦点として朱雀大路が向かってくるように、藤原京の条坊の名残りの平行線がくっきりと浮かんで見えます。

 この山寺の創建は、ちょうど1400年前の大宝3年(703)。
 その前年の暮れ、持統天皇が亡くなり、新羅から弔問使を迎えて明けたまさしく「喪」の歳で、わが国で初めての火葬の後、夫・天武天皇の眠る桧隈大内山陵に葬られて終った大葬の一年であったといいます。

 その持統天皇の陵墓は、藤原京の朱雀大路の延長線上にあり、さらに持統天皇の愛子であった草壁皇子の遺児・文武天皇の陵もその南のライン上に、そしてさらにその真南には、この壷阪寺があるのです。
 しかも、ここは持統天皇が祈祷のため吉野によく行幸した道筋でした。
 このことから、開創千四百年記念誌の『壷阪寺』で青山茂氏は、「文武天皇が祖母追善の思いをこめて、この寺の建立に深くかかわった」と述べています。
  
 しかも、創建時の本堂は、再建されたのと同じ八角円堂で、その形は夢殿と同様に廟を意味するところから、壷阪寺は持統天皇の御廟でありました。
 そして草壁皇子の王女「元正天皇の御願所」の所伝、また長屋王(妃吉備内親王は元正女帝の妹)の寄進の記録からも、その追善を行った人々が持統天皇の系譜に帰一することを、青山氏は指摘しています。
 
 持統天皇の時代の少し前、7世紀中葉の新羅では、慶州を首都に二人の女王が相次いで君臨し、その宮城・半月城の真南に位置する南山にたくさんの寺院や石窟が造られています。
 慶州の南山がそうであったように、新羅と深い関係にあった藤原京、その南の壷阪・高取の山もまた首都の聖なる山であり、弥勒浄土だったのです。

 そして、北の耳成山から南の壷阪寺にわたる壮大な聖なる古代都市構想、さらに大和と新羅の景観の共通性に深く感動し、はるばるとひろがる都の跡をしばしこの聖地より眺めていました。
八角円堂の本尊 千手観音菩薩


お参りも写真撮影も制限なしの配慮がうれしい
お里沢一の奇跡譚から眼病の治癒を祈る巡礼も多く、目薬も人気商品



いつもは巡礼で賑わう礼堂も今日は静か

 
壷阪寺のその後

 



清涼寺式薬師如来像
画像をクリック

 「寺は壷阪、笠置、法輪」と 「枕草子」に記され、また浄瑠璃「壷坂霊験記」のお里沢一の奇跡譚から眼病除けの効験で有名な壷阪寺は、応仁の乱や明治維新時の廃仏毀釈で荒廃する時代もあったものの、西国観音霊場として常に庶民に親しまれてきた山寺でした。
 
 今も、本尊を間近で拝観でき、写真撮影も何の制限もありません。一人でも親しく観音様と縁を結んでもらうための配慮がとってもうれしく感じられるお寺です。
 八角円堂の本堂は、観音様の背後を一周することができ、そこには白鳳期の鳳凰磚(タイル)や三尊磚仏など創建時の遺物や、平安時代から中・近世の仏像、お里沢一の浄瑠璃人形などが見学できます。

 平安時代、壷阪寺は、物語などに書き留められ、また、12世紀末には、興福寺別当覚憲が壷阪寺に隠遁し、その指示で貞慶が撰した『南法花寺古老伝』はこの寺の歴史を今の私たちに伝える貴重な史料となりました。
 覚憲は、その母系が古代に土地を寄進した長屋王の子孫高階氏でもあったといいます。
 
 その後、仁治3年(1243)に西大寺の叡尊が76人に菩薩戒を授けています。(『感身学正記』
 ここに、清涼寺式の薬師如来像が残されていることからも、鎌倉時代には西大寺流律宗の影響が少なくなかったことが推し量れます。
 さらに、叡尊の孫弟子の文観が別当になって、鎌倉幕府調伏を行い、やがてこの地が南北朝の戦乱に晒されるようになっていくのは歴史の皮肉かもしれません。

    

境内の石造物 : 石造十三重塔に刻まれた浮彫り像も楽しい ・  詰まれた五輪塔や宝篋印塔の残欠 ・  お地蔵様も中世的
ここまで車で来たついでに、高取城址と、高取町にあるという束明神古墳を探しに行くことにしました。

参考HP:壷阪山南法華寺 Don Panchoのホームページ