八千代市郷土歴史研究会 機関誌 『史談八千代』23〜28号  蕨由美の執筆論文HP「さわらび通信」 
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『史談八千代』23号(1998年11月発行)

八千代の道しるべ
 勝田台団地に残った道しるべ・又兵衛割の庚申塔
 所在地:勝田台南二丁目30
                                   蕨由美

 勝田の旧家の方の話では、勝田台団地ができる前、畑や家が点在する松林の台地のあちこちにいくつもの石碑があったとのことですが、一部が公民館の横の梵天塚に移されたのを除いて団地造成時に消滅してしまったそうです。
 今、唯一かつての台地のたたずまいを留めるのは、近くに又兵衛という野鍛冶が住んでいたことに由来する「又兵衛割」とよばれる松林の一角です。昔からの道がY字になった鋭角の先端に「青面金剛」と刻字された文化元年(1804)建立の庚申塔が据えられ、その背後には群集塚と墓地が続いています。
 この塔の左面には「左下いちば道」、右面に「右うすゐ道」と標されています。
 明治15年の測量図で見ると、勝田川の馬橋から続く道はこの三叉路で左右ともにしっかりと台地を横切り、左は成田街道沿いの下市場村・今の八坂神社に、右は同じく成田街道の井野町・今の勝田台駅東踏み切り入り口にでます。又兵衛割から勝田川を渡った馬橋の千葉市側のたもとにも数基の古い道標があり、この道が長沼を経る「千葉道」と柏井・検見川へ行く「うらとみち」に続く大事な道路だったことがわかります。(蕨)

(PDF⇒団地の片隅に残った道しるべ


『史談八千代』23号 (1998年11月発行)

おしどり伝説と「嵯峨野の釈迦」を追って-「おしどり寺」縁起の語る時代-
                    蕨 由美


(1)おしどり伝説と「嵯峨野の釈迦」を追って
1.おしどり伝説を探る
 おしどりは、昔から夫婦愛のシンボルとされ、それは「鴛鴦の契り」などの言葉で表現されてきました。雌雄のつがいがなかよく寄り添う姿は確かにほほえましく思えます。しかしこの鳥の雄の示す習性は、愛について人々にさらに強い情感を呼び起こしてきました。水鳥の中でも際だって美しい雄の姿は、猛禽類や狩人の標的になりやすく、雄は危険を察知すると、あえてめだつ行動をし、己を犠牲にして雌や雛を守るといいます。
 この生態に基づくおしどり伝説の民話は、八千代市村上の正覚院の縁起にも見ることができます。
 縁起によると、昔このあたりの阿蘇沼で平入道真円という男が、1羽のおしどりを射殺しました。その夜丹顔美麗な女人が現れ、「きょう、あなたは私の夫を殺しました」といいます。男が「心覚えのないこと」と言うと、女は「うそをつかないで」と言い、「日くるれば誘いしものをあそぬまの まこもかくれのひとり寝ぞうき」という歌を詠んで帰りました。葦の葉陰の一人寝のつらさを訴えにきたおしどりの雌と知り、夜が明けてからよく見るとくちばしを会わせ合って雌雄のおしどりが死んでいました。この情愛の姿に心打たれた男は自ら出家し、池のほとりに草庵を結んで「池証山鴨鴛寺」と号したという物語です。
 この話は、先日NHKの「なぞ解き歳時記」で、正覚院のたたずまいとともに、おしどりの生態と、この伝説が広く各地に分布する例として愛知県の天桂寺の縁起も紹介されていました。
正覚院は、「嵯峨野の釈迦」と呼ぶめずらしい様式の清凉寺式釈迦如来像と、中世武士団の館のたたずまいを今に残し、またおしどり伝説をはじめ「智証大師の霊夢」「片葉の弁天」「池に沈んだ釣り鐘」など数々の伝説にいろどられた真言宗の古刹です。
最近正覚院の釈迦堂のかたわらには「鴨鴛塚」と刻まれた石碑が建てられ、また寺の縁起を美しい絵本にした「おしどり寺ものがたり」という本も刊行されて、正覚院は全国的にも「おしどり寺」としてすっかり有名になったようです。
 今回あらためておしどり伝説の由来と分布を調べるために、さっそくあちこちの図書館で各県別の児童向け民話集や中世の説話集をひもといてみると、正覚院の縁起に類似した話を21話も見つけることができました。
 これらの物語を一覧表にしたのが、表−1です。また最後に今回集めた伝説の要旨と出典を載せましたが、皆様の故郷や訪れた地におしどり伝説がありましたら、ぜひお知らせください。

2.伝承の生態と類似の定理
 21話のおしどり伝説の話の内容は微妙に異なりますが、時代は中世以降、主人公は猟師または武士で殺生を悔いて出家し、多くはその地の寺の由来か僧の伝記、または塚のいわれとして伝わっています。また半数近くに独り寝を愁うる歌が挿入されているのが特徴です。
一般に伝承は「昔々あるところに」で始まり「・…・だったとさ」などと一定の形式で語られる「昔話」と、固有名詞で時・所・人を特定した「伝説」に分けられますが、これらおしどりの伝承は、10.の三ヶ日と15.の奄美の伝承以外ほとんどが「伝説」の形態を有し、そしてそこには柳田国男のいう「偶然とは見られない大規模な一致」があります。
 分布の北辺は福島県、南は奄美大島に及びますが、京に近い西日本に少なく、周辺に厚く分布しており、このことは柳田の「伝説半径」即ち「ある伝説発祥地を中心に文化地におけるその半径は長く、田舎に行くほど短い」という説のごとくドーナッツ状を呈します。
 事実の信憑性を重んじる「伝説」において事実がふたつあるはずがないという思いから多くは情報により淘汰され、それ故に類話は情報の量・速さ・密度に反比例して僻地に多く残存してきたのでしょう。
 柳田によれば「伝説の異常なる統一」は「人を信ぜしめる力のあった者により運ばれた」からであり、その者とは「修練した女の宗教家」たとえば「歌比丘尼」などであろうと推論しています。そして「日暮るれば」の歌を伴うこのおしどり伝説について「ただの話としても相応に美しく、妹背の恋の悲しみは何人にも理解せられるものであった故に、如何なる山里へ持って来ても所謂受け」、「是をただ仮設の物語とはせずに、此沼此御堂の昔にかつて有ったことと信じ伝えさせたのは語り方の技術であった」と述べています。
 たしかに正覚院の縁起も全国に数ある類話の一つでしょうが、他の類話との比較しながらこの説話の広められた時代の宗教的背景を探ってみると、この説話の意図したメッセージが今の私たちに伝わってくるように思えてきました。

3.清凉寺式釈迦如来像と叡尊の足跡
 正覚院には、釈迦堂に鎌倉時代の清凉寺式釈迦如来像が安置され、墓地に応永18年(1411)銘の宝筐印塔が残っています。
川嶋家に伝わる「村上正覚院釈迦如来縁起」は江戸時代の延宝2年(1674)釈迦像修理の際に記された縁起で、前半は智証大師が霊夢により印旛の浦にくだった「嵯峨野の釈迦」の御首をたずねあて、童子(毘首羯磨天)の助けを得て釈迦像を完成させる説話、後半は保元のころ保品から本尊を移した平真円とおしどりの伝説からなります。
 「伝説は信仰を伝えるもの」といいます。このおしどり伝説の伝えようとした信仰とはなんであったのでしょうか。そのヒントはこの御堂におわします「嵯峨野の釈迦」すなわち清凉寺式釈迦如来像の歴史的背景にあるように思えます。
 珍しい作風のこの尊像の様式は、10世紀東大寺の僧「然が宋より将来した嵯峨清凉寺の釈迦像を模した様式で、鎌倉時代に流行したといわれますが、今はその変形像を含め百体位しか残っていません。
 一昨年の宇治放生院橋寺から奈良西大寺へ僧叡尊の事蹟をたどった旅は、また清凉寺式如来像の出会いでした。また鎌倉極楽寺など清凉寺式如来像を訪ねいく寺々には、叡尊とその弟子たちの足跡が刻まれていました。
 鎌倉時代は仏教改革の時代であり、法然・親鸞・日蓮・栄西など新仏教の祖師たちがそれまでの鎮護国家の仏教から、民衆の中で個人の救済と現世での実践を最もラディカルに展開していった時代だったといわれています。
そして南都の旧仏教の中からも、叡尊とその弟子忍性らが非人救済などの慈善活動や架橋など公共事業、死者の弔いなどにめざましい活動を展開していました。鎌倉の極楽寺には、忍性が現代のマザー・テレサさながらに非人(その多くはハンセン氏病とみなされていた人々)の治療を行った療養施設が立ち並んでいたといわれ、今も薬の製造に使われた大きな石鉢と石臼が境内に残されていました。
 それまで穢れへのおそれから非人救済や弔いをタブー視してきた官僧たちとは一線を画して、これらの活動に邁進し得た叡尊の思想の原点は、釈迦が生涯をかけて説いた慈悲の精神と戒律の厳守に立ち帰ることでした。そしてその心の支えとして、生前の釈迦生き写しの像として中国より伝来した清凉寺の釈迦如来像を特に崇拝したといいます。
こうして三国伝来の清凉寺式釈迦如来像は叡尊とその弟子によりたくさんの摸刻が造られ、叡尊の教団の活動した寺々にその教えとともにもたらされたのでした。そしてその分布を地図上にプロットすると図のように、叡尊の活動した奈良・京都と忍性が拠点とした鎌倉の二つの核を持つ星雲状の楕円を描きました。

4.金沢文庫が語る千葉氏と「嵯峨野の釈迦」 
 この冬、東国特に房総の「嵯峨野の釈迦」の分布を調べるため、六浦の金沢文庫を訪ねました。 たくさんの中世文書を保存研究する金沢文庫には、図書室が完備し、その研究成果が自由に閲覧できます。金沢称名寺の本尊も「嵯峨野の釈迦」であり、また35年前この館の館長により古文書を手がかりに、上総三ヶ谷永興寺の清凉寺式釈迦如来像が発見されたことなど、清凉寺式釈迦如来像の資料を探すのに適した施設です。そしてそこで把握できたことは、永興寺の釈迦像が西大寺の釈迦像と同派の仏師によって造られ、また村上の正覚院の像と忍性が住した茨城県福泉寺もまた同系であることでした。
 さらに香取郡吉岡の大慈恩寺の本尊も後に上半身補修のため姿を変えているものの、かつては清凉寺式の像であったといいます。この寺は2年前の冬、大雪の中をこの会の見学会で訪ねた印象深い古刹で、近年の解体修理の際、胎内の五輪塔に明応4年(1495)の銘が見つかり、前年の1995年に五百年の法要を営んだことをご住職からお聞きした思い出があります。
 金沢文庫の中世文書は、鎌倉の外港・六浦を拠点に東京湾を航路として、北条金沢氏と千葉一族が婚姻や領地支配をもとにした強い関係や、称名寺の僧による教線の伸展を物語っていました。村上の正覚院の住職名や領主名をその中に探すことはできませんでしたが、鎌倉・六浦・下総・常陸を結ぶ叡尊教団の教線と千葉一族の領地支配の線上に草深い村上の地があったことを確認することができました。
 そして村上のおしどり伝説の架空の主人公「平真円」の名のおもかげに、千葉=平姓の誇りと、大慈恩寺を開山した称名寺第四世実真の師「円定房真源」の記憶が眠っているように思えるのでした。

5.おしどり伝説と「嵯峨野の釈迦」が伝える心
 各地のおしどり伝説は微妙に違いがあるものの、そのメッセージは慈悲と殺生禁断の教えであり、この教えこそ叡尊がもっとも強く訴え、実践した教えでした。叡尊は宇治川の、忍性は鎌倉の前浜の漁師に対し、その生業を他の仕事にかえて生活できるよう奔走したほど、殺生への戒めは徹底し、まして人が人を殺すことなど絶対あってはならないと、人殺しを業とする武士に説き、多くの武士層を感化しました。
 おしどり伝説は猟師または狩を好む武士の回心がテーマです。血生臭い中世に不殺生戒と慈悲の教えを説く叡尊教団の宣教の有力な武器として、この説話がフルに語られたに相違ありません。
 このおしどり伝説と清凉寺式釈迦如来像の分布を追っている過程で、正覚院のほかにこれらが一対で残る寺院はないかと思いましたが、そのような偶然に巡り会うことは残念ながらありませんでした。しかし片方は奈良京都の特定の仏師により造られた仏像、他方は漠とした民間伝承という形態の違いにより、前者は核を持つ星雲状、後者はとドーナツ状と分布の形は異なっていますが、叡尊の信仰を伝える釈迦像とおしどり伝説の分布範囲は、不思議と重なっています。
 五百年以上の時間が過ぎ行く中で、全国各地のおしどり伝説は数々のヴァリエーションを生み、清凉寺式釈迦如来像もまた風雪に耐えられず、後の補修によりその姿を一見して同型と思えないほど変えてしまっているものもあり、またそれ以上に失われたものも数多くあります。
 正覚院では近世初頭、容貌と衣の模様が変わったものの、釈迦像に丁寧な修理が施され、また「おしどり伝説」も同時期に寺の縁起に記されて、13世紀の説話集「沙石集」の話と比べてみてもあまり時代の変化をうけない形で残されました。
 八千代の私たちにとって、村上のおしどり伝説と「嵯峨野の釈迦」は共に、中世の地方武士が現世社会の自己矛盾の中で、後生の救いを真剣に求めたひとつの信仰のあり方を今に伝える貴重な文化遺産であると思います。

参考文献
「傳説」柳田國男 定本柳田國男集第5巻 筑摩書房
「清凉寺式釈迦如来像現存表」前田元重 金沢文庫研究紀要第11号
「東国の清凉寺式釈迦如来像」猪川和子 三浦古文化第14号
「上総三ヶ谷永興寺」熊原政男 金沢文庫研究第9巻第8号
「鎌倉新仏教の誕生」松尾剛次 講談社現代新書
「叡尊」日本名僧論集第5巻 吉川弘文館
「鎌倉の仏教」貫達人・石井進 有隣新書  

(2)各地の主なおしどり伝説要旨
1.正覚院の縁起 ( 八千代市)
 「村上正覚院釈迦如来像縁起」(延宝2年 住持 日運法印)によれば、某は平入道真円、所は阿蘇沼、保元(1156ー1159)の頃、女人の哀歌は「日くるれば誘いしものをあそぬまの まこもかくれのひとり寝ぞうき」、そしてこの伝説を「池証山鴨鴛寺」の寺名の由来としている。 
出典 「八千代市の歴史 資料編 原始・古代・中世」
2.「沙石集」(中世説話集)
 「沙石集」は、無住国師によって著された鎌倉中期の説話集で、東国中部地方の庶民の生活に根ざした話題や俗語をまじえた語り口で仏教の教えを説いている。
 この書の「巻七・14 鴛殺す事」では、某は、鷹つかいの俗人、所は下野国アソ沼(現栃木県佐野市浅沼町)、そして 某は正覚院縁起と同じく出家する。
 歌は下記の底本「梵舜本」では「日暮ばいざやとといし アソ沼の 真薦のうえに独りかもねん」(原文カタカナ)、「略本系諸本」では1の正覚院の同じ歌である。
 出典 「日本古典文学大系85」岩波書店
3.「古今著聞集」(中世説話集)
 「古今著聞集」も2.と同様鎌倉中期の説話集で、橘成季の編著。自国(日本)の話題出来事について百科全書的な集大成を試みている。
 その第713話では、「馬允陸奥国赤沼の鴛鴦を射て出家のこと」として、田村の郷の住人、馬の允なにがしで鷹をつかう男が主人公、所は陸奥国赤沼(現福島県郡山市中田町赤沼)、歌は1.の歌と1字違いで「あそ沼」が「あか沼」となっている。話のすじは1.2.と同じ。
同じ郡山市宮城赤池に 1.とほぼ同じで「あそ沼」が「赤池」となった歌の織り込まれ、赤沼右馬允が僧となった類話がある。(『田村郡郷土誌』)
 出典 「日本古典文学大系」岩波書店 類話は「日本伝説体系第3巻」みずうみ書房
4.福島県岩瀬郡長沼町会沼の伝説
猟師がおしどりの雄を射て首を落とす。沼に「暮れぬれば恋しきものを会沼のまこもかくれの独り寝の声」と聞こえる声がして水上に炎が燃えるということが村のうわさになる。猟師が沼に行き、炎に矢を射ると、声も炎も消え、雌が雄の首を翼に挟んで死んでいた。
猟師は髪を剃り安養道心と称して、弓を杖に元に渡り、法燈国師となり回国してこの岩瀬郡に風徳山安養寺を建立した。(『岩瀬郡誌』)
出典 「日本伝説体系第3巻」みずうみ書房
5.福島県相馬郡小高町の円応寺の言い伝え
相馬重胤が総州より移る前のことか、寺のまえの沼で猟師が1羽のおしどりを撃つ。 翌冬もう1羽を撃つと、前年の鳥の首を挟んでいた。猟師は2羽の首を埋め、庵を建てた。後に高胤公がこのことに感じ、文明年間に寺を建て豊池山鴛鴦寺と号したが、火事に遭い、字を円応寺に変えたという。里人の伝えとして、1.と同じ歌を記している。(『奥相志』)
同郡中村町小泉の慶徳寺にも類話があり、双鳥と刻まれた鴛鴦碑がある。
出典 「日本伝説体系第3巻」みずうみ書房
6.宇都宮のオシドリ塚伝説
800年ほど昔、今の宇都宮市大町のあさり沼から流れるあさり求食川で猟師が雄のおしどりを射止め、その首を切り落とし持ち帰った。あくる日かなしげになく雌も射落とすと、羽の中に雄の首をだいていた。猟師はこれまでの殺生の罪を悔い、このおしどりのつがいを葬り石塚をたて、日光本宮寺に入って修行僧となった。
今この伝説の地には「おしどり塚児童公園」内に塚のなごりの石塔がたっている。
出典 「ふるさとの民話 栃木県の民話」偕成社 「日本伝説体系第4巻」みずうみ書房
7.千葉県印旛郡富里町中沢の伝説
千葉常胤が中沢大谷津で、おしどりの雄を弓で射るが、隠れてしまう。翌日再びたずねると、雌の翼の中に首を入れて死んでいた。常胤は、哀れんで寺を建て鴛鴦寺と称したが、今はなく、その跡は昌福寺の所有に属する。
出典 「日本伝説体系第5巻」みずうみ書房
8.千葉県香取郡山田町塙台のおしどり塚
猟師がつがいのおしどりの1羽を射止め、首を切り捨て帰る。翌日またおしどりをしとめると、羽の間からおしどりの首が落ちた。殺生を悔いて塙台に供養の塚を築いて、後に出家した猟師は、阿闇梨の位をきわめたという。
出典 「千葉県の不思議事典」人物往来社 「日本伝説体系第5巻」みずうみ書房
9.上伊那の東光寺の伝説
 昔、武田の遺臣の桜井重久という武士が、上伊那郡富県村貝沼に住み貝沼重久と名乗っていた。ある日真菰が池でおしどりの雄を射止め、その後家の門口で「日暮れなばいざと誘いし 貝沼の真菰が池に鴛鴦(おし)のひとり寝」と訴える女人が現れてはきえることが何回かあった。 その後また真菰が池でおしどりを射止めたところ、前に殺した雄の首を羽の内にはさんでいた。
重久は前非を悔いて僧となり、庵を結んで供養した。鴛鴦山東光寺がその寺で慶長3年(1598)のことという。
 出典 「日本昔話大成10」角川書店 「日本の伝説・日本編」楷成社文庫
10.三ケ日町(静岡県)のおしどり池の民話
あがた英多神社の前の池で猟師がおしどりを矢で射って食べた夜、怪しい鳥の声がした。翌日雌を射止めると、雄の首が羽の下から出る。猟師は雌鳥と雄の首をいっしょにして葬って、百姓となり、その池を「おしどり池」というようになった。
 出典 「ふるさと再発見 遠州の民話」静岡新聞社
11.白木橋(愛知県)伝説
城主藤堂が白木橋を渡ったとき、一つがいのおしどりを射ると、夢に女が現れうらみをいう。翌年またこの橋でおしどりを射ると、昨年射たおしどりの頭が出る。彼は白弓山鴛鴦寺を建てた。
出典 「日本昔話大成10」角川書店
12.天桂寺(愛知県春日町)縁起
侍がおしどりの雄を射殺すと、女が現れてそのことをなじり、雄の首を持ってきえた。翌日侍の放った矢におしどりの雌が飛んできて射抜かれる。その雌の羽の中から、雄の首が転がり出る。侍はおしどりの夫婦愛にうたれ、出家する。天桂寺境内には、おしどり塚がある。
出典 NHKTV1997.12.20放映「なぞ解き歳時記」より
13.香山の淵(福岡県)伝説
城主御原時勝が鴛鴦の雄を射止めた.また翌年雌を射止めると、雄の首を抱いていた。城主は出家し無方和尚と称したという。 出典 「日本昔話大成10」角川書店
14. 八代市(熊本県)の伝説
八代郡植柳村麦島(現 八代市)では、石を投げて雄のおしどりを殺すと、その夜女が夢枕に立ち「明けぬれば暮るるぞ惜しき古池の 真菰かくれの独りねぞ憂き」と詠んだという。
出典 「日本昔話事典」 弘文社
15.奄美大島(鹿児島県)の伝説
 猟師が鉄砲で「うしぬ鳥」(おしどり)の雌を撃つと、雄も撃ってくれと羽を広げ、鉄砲をのけても何度も同じようにするので、とうとう猟師は雄も撃ち、「もう鳥撃ちはやめる」といって、つがいの墓石をたてた。
出典 「全国昔話資料集成15」岩崎美術社 「日本昔話大成10」角川書店
16.その他の鳥の類話6話
1.福島県相馬郡鹿島町の双鳥伝説、2.同県安達郡岳下の鴨石のいわれ、また3.大阪府四条畷市の雁卒塔婆の口碑、4.大阪市東成区深江の雁塚、5.愛知県東加茂郡足助町の雁塚、6.福岡県旧企救郡の鶴を撃つ話に、おしどりではない鳥のほぼ同様の伝説が伝承されている。
 出典 1と2「日本伝説体系第3巻」 3と4「日本伝説体系第9巻」みずうみ書房 
 5「日本神話・伝説総覧」新人物往来社 6「日本昔話大成10」角川書店

(PDF⇒おしどり伝説と「嵯峨野の釈迦」を追って


『史談八千代』24号(1999年11月発行)

八千代の道しるべ
明治6年「廿三夜大神」銘の道しるべ
 所在地 八千代市米本2613石塔群
                          蕨 由美
 
 米本の下宿東にある道祖神社東側の木立の下に「廿三夜大神」銘の道標がある。
 どんな人が揮毫したのか、豪放闊達な筆捌きの文字塔である。
 「右下高野佐倉/左保品印西/道」と記されている。この地点を迅速図で探すと、ゴルフ場の中を通る保品への二又道あたりではないかと推察できるが、今の地図ではわからない。
 「廿三夜大神」という銘文も珍しい。旧幕時代なら「廿三夜塔」で問題はなかったが、時は明治6年。旧暦が新暦に変わり、米本小学校(現阿蘇小)ができ、柴原県令が盆踊りや施餓鬼など旧い習俗の無用を説いたころ、そして「神仏判然令」による廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた直後である。
 「塔」はストゥーパ=仏舎利塔を意味するとなれば、神道系の「月読尊」にするか、「塔」をかえて「廿三夜大神」にするしかない。大きな字体は「さあこれでどうだ」と云わんばかりである。村の片隅の道標ひとつにも、明治新政府の影響が大きかったことを伝えている。

(PDF⇒ 明治6年「廿三夜大神」銘の道しるべ



『史談八千代』24号(1999年11月発行)

調査・研究
      飯綱神社の由来とその伝承

                         蕨由美
1.はじめに
 成田街道大和田宿の「いつな大権現道」の道標に導かれて「権現道」をたどると、新川をのぞむ萱田の台地の突端に飯綱神社がある。
 この神社には、次のような創建の話が伝えられている。『文明11年(1479年)、太田道潅が、米本城を攻めたときに、この地、権現山に陣を張って戦った。その時、守り本尊である十一面観音菩薩に祈願し、「戦勝あらば尊像はこの地に埋める」といい、苦戦しながらも勝利したので、その陣の北東の地中に埋めて引き上げていった。
 それから約140年を経た元和八年(1622年)、白狐が17日間も泣き叫んだ後、村人に「我は飯綱大権現なり。昔、太田道潅の埋めた十一面観音の尊像が権現山の北東5尺の地下にあり、この世に再誕させればあまねく一切衆生を済度してくれる」という神託をした。村人がその場所を掘ると光り輝いた十一面観音像が現れ、お堂を建ててこの像を安置した。
 現在、飯綱神社に祀られている神様は、宇賀之御魂命(うがのみたまのみこと)お稲荷様で食物をつかさどる神様である。飯綱神社では、平成8年11月「三十三年祭」が行われた。33年目毎に行われるお祭りで、十一面観音菩薩が33に化身し33年目にもとの十一面観音菩薩に戻ることに起源しているのと考えられている。』
 以上は八千代市のホームページ(1999年4月)からの要約である。まずこの神社の由緒書を参考に、その背景を探りながら飯綱神社とはなにかを考察してみたい。
 
2.「飯綱神社縁起」と「飯綱神社ノ由来」について
 参考にしたのは、昭和2年神社発行の「飯綱神社縁起」と、前神社氏子総代の故飯山憲治氏が書き写された「飯綱神社ノ由来」である。「飯綱神社縁起」は、「大和田町案内図」と「飯綱神社境内図」「飯綱神社と観世音の由来」などが掲載されている色刷りのリーフレットで、内容は市ホームページの要約とほぼ同様である。創建は「文明9年9月24日」と明記、また「昔は飯綱大権現と称し長福寺の所領に属し」「明冶維新に至り、神仏の別劃然と定まり明冶2年村社に列し飯綱神社に改称した」とあり、境内図には十一面観音を安置した観音堂が本殿の後に描かれている。
 一方「飯綱神社ノ由来」は八千代市歴史民俗資料館で所蔵の写真をコピーしていただき、今回その全文を文末に資料として掲載した。
 奥書によれば、「元和8年9月24日」に記された縁起の本書は、明治元年佐倉城主堀田氏に提出、明治2年飯綱大神となって観音・不動像が別当長福寺に引き取られるにあたり、飯山憲治氏が書き写されたとのことで、神仏分離前の江戸時代の信仰と伝承を知るのに良い資料である。
 内容は、元和8年の白狐即ち飯綱大権現の神託による十一面観音像の発見、その像を入れた唐櫃の蓋に文明9年9月24日 太田道灌寄附自書で飯出山不動院云々と記されていたことから、ここに飯綱大権現を勧請したとある。さらにこの神徳の霊験あらたかなこと、本地十一面観音像は弘法大師の作で、故有って道灌に伝えられたことが記されている。さらに鴻之台合戦の時ここに出城を構え尊像奉じて勝利した。また長南城米本城小金城攻めに際して勝利すればここに安置すると誓願し、仏の利益により諸城を落としたことにより十一面観音と不動明王を残した。江戸城主となって去った後に、道灌は文明11年侫言により主人上杉定正に殺され、尊像は土中に埋もれたとある。
 寺社の縁起もその時代を写すのだろうか。「飯綱神社ノ由来」には、本地十一面観音の利益や弘法大師の事跡の文言が多く、仏教的な色彩が濃い。一方、昭和2年の「飯綱神社縁起」は、神仏分離令後なので当然、祭神宇賀之魂命の記載が始めにあり、文章も整理されてはいる。しかし両者とも「飯綱権現」とはいかなる神かを記してない。そこで他に資料を探していると、「成田名所図会」の「萱田駅」に「神明社」の紹介記事に続けて以下のような文があった。
 『又萱田村の飯綱権現と称する神あり。毎月廿四日の神事あり。(本地不動明王、長鼻狐にのる)
○ 稲荷神社考に、世に飯綱権現と云は信濃飯縄山の茶吉尼(ダキニ)なり云々。
蜜家にて稲荷神を茶吉尼(天女形像なり)に混合せたる上より、云出たるなりと覚ゆと云々。』
 信濃飯縄山の茶吉尼とはいったいなんなのか、その正体をさぐるため、飯縄山に行ってみることにした。

3.信州に飯綱信仰を訪ねて
 信濃飯縄山は善光寺から戸隠へ行く途中にある1917mの修験の山である。
 5月5目まだ残雪の多い飯縄山に登った。登山道はバードライン一の鳥居から直登するコースと、戸隠中社から西の尾根を登るコースがあり、いずれも3時間以内で登頂できる。山頂の手前の南峰に飯縄神社本宮がある。昭和36年(1961)長野市内の林信二郎氏の浄財と芋井地区の人々の奉仕で造営された2間×2間半のコンクリート造りで、登山者の避難小屋も兼ねている。社殿の中央には木像の、左には石造の飯綱神像があった。また少し下った道沿いに、「飯縄山略縁起」に千日大夫という行者が「宝殿を頂上の西窟に造営て」とある西窟跡の小神祠群と鳥居があり、ここから望む戸隠連峰は、修験道の聖地にふさわしい絶景であった。一の鳥居からの登山道にも十三仏などかつての修験道の史跡が残っているが、山麓には特に社殿もなく、戸隠や立山のような現在に続く山岳信仰の活動はほとんどない。 
 飯綱の神は密教のダキニ天であるという説は、江戸時代の解説書に多い。ダキニ天は古代インドで人の心臓を食う夜又で、仏教に取り入れられ、人間の心垢を食う善神となつたという。ダキニ天像は、剣と縄を持ち翼をつけた女神が火焔を背に狐の上に乗った姿で表現され、飯縄山本宮にあった飯綱神像も、また上杉謙信の兜の前立もこの像である。また勝軍地蔵信仰と習合していた愛宕信仰とも一体に近い。
 修験道場飯縄山では、魔法や妖術をつかう「飯綱の法」が修せられていた。「飯綱の法」は15〜16世紀、室町戦国時代の武士の信仰をあつめ、特に細川政元・上杉謙信・武田信玄は熱心だった。また一説には忍術使いの神として甲賀や伊賀忍者にも信仰されていたともいう。
 江戸時代にはいると、妖術的な「飯綱の法」は邪法として排斥されて、飯綱信仰は急速に衰退するか、さまざまな民間信仰へ変容する。火焔を負う姿は不動明王の変相として、また翼ある姿は「天狗」として信仰され、都市部では火防・盗難除けのご利益がもてはやされた。一方、飯綱神の乗る狐、あるいは「イズナづかい」が使う「クダ狐」との関連から、農村部では五穀豊穣、商人には福徳をもたらす「稲荷」信仰に変容した。その本地仏としては地蔵・不動明王などが多く信仰されが、明治維新の時、本地仏を廃し祭神を明らかにする神仏分離令により、各地の飯綱社は農業神の保食神(うけもちのかみ)、大己貴命、稲倉魂命、宇賀之御魂命などを祭神に定めた所が多かったようである。
 以上のような中世から近代への飯綱信仰の変遷をまとめてみると、萱田の飯綱神社の由来も見えてきたように思える。
 近世、萱田の飯綱神社には、毎月市が立ち、「権現道」には近郷近在から「ありんぼうかやた」とよばれるぼど人が列をなしたという。まさに平和な生活の中の「福徳増歩、家運長久」の神である。必死に「飯綱の法」を使って「怨敵調伏・戦勝祈願」を念じた戦国の世ははるか遠い昔だった。とはいうものの、一方で里の昔話として「権現砦の道灌戦勝祈願」伝説が米本城の伝承とともに語り継がれてきたきたことは、飯綱神の本質を語ってきたことだったのである。

4.飯綱神社とはなにか、類似するもうひとつの飯綱神社
 下総に飯綱神社がほかにはないのだろうか。
萱田の飯綱神社は、臼井城外郭から約5km西の米本城に対して低地をへだてて鋭く対峙している。臼井城跡は南北1.7km、東西1.1kmの惣構えを有する下総屈指の大きな城跡で、「鎌倉大草紙」には文明11年の太田道灌・千葉自胤による激しい臼井城攻めが記載されている。萱田の飯綱神社と臼井城との位置関係に類似したもうひとつの飯綱神社がある。それは佐倉市吉見の飯綱神社であった。
 臼井城の南4kmのところに「城山」とよばれる吉見城跡がある。「馬場」「古屋下」などの地名のほか、「臼井屋敷」とよばれたところには居館跡もあり、臼井城に関連する中規模の城と推測されている。その城跡の南の縁に野田という集落があり、その集落とは細い水田をへだてた岬状の台地に小さな飯綱神社があった。地図にも載っていない小祠であったが、新しい祠の壁に縁起がかけてあったのでその全文を紹介する。

『佐倉市吉見飯綱神社縁起
 この地に鎮座する飯綱神社は御本地長野県飯綱山より勧請したもので御祭神は蒼稲魂大神別称豊受大神といい農民に幸福を与える五穀の神である。当杜の御神体は僧形神像にして体内に本地仏薬師如来を蔵している。伝えによると本地仏薬師如来は当所甚左衛門家の先祖が、吉見古海道沿いの井戸にて、朝水と共に汲み揚げたものでその後、占者の筮によりこの地に飯綱権現として祀ったものである。以来飯綱権現の守護により野田の村人は火難疫病の禍から除かれたという。』
 縁起に記してある甚左衛門家を探し当主の川村金冶さんに、以下のようなお話をお聞きした。『勧請した時代は不明で、昔のこととしか伝わっていない。萱葺きの古い祠が壊れた時、御神体をお預かりしたが見てはいけないので、どのようなものかわからないが、小さな金物だと聞いている。古戦場らしき伝承として、近くに戦死者を弔ったという言い伝えのある「三十塚」がある。祭礼は集落の中にある熊野神社と一緒に行い、かつては三匹獅子舞も奉納していた。』
 生谷の台地は、永禄9年(1566)謙信の臼井城攻めの附城と三十塚があったところと「成田山名所図会」に記されている。吉見の飯綱神社は、その生谷から続く尾根の先端にあり、その尾根の先には低湿地をへだてて吉見城跡がある。
 萱田と吉見、この二つの飯綱神社の立地と付近の伝承から類推し、私は次のように想像する。第一に飯綱神社は、太田・上杉軍の臼井城攻撃の前線拠点にあり、第二に「飯綱の法」を使って「怨敵調伏」する戦国の神を祭る場所であった。合戦時はともかくその拠点を継続して維持していくためには、潜伏して活動する忍び集団と、その祭祀の場があったはずである。戦国末期、この飯綱信仰は本地仏崇拝の形をとって密かに伝えられ、やがて里の人々の口伝により飯綱権現として祭られた。しかしその正体は時代の変遷により不明となり、やがて稲荷信仰・観音信仰となったのだと思う。今も三十三年祭の神輿渡御に「天狗さま」が先導するが、その理由を知る人はもういないのではないだろうか。
5.その後、萱田の十一面観音像はどうなったか
 萱田の飯綱神社の本地仏は十一面観音である。ダキニ天を除いて飯綱神の本地仏は不動明王や薬師如来などさまざまで、特に飯綱権現と十一面観音に関連はない。といっても、十一面観音は修羅道を救済し、争いの世界を絶無にする強烈な思想をもっている。その像は正面三面が柔和な相、側面の三面が憤怒の相と違う表情をもち、さまざまな心の持ち主をどれかによって説得し平和な世界を実現しようとするものだという。
 この像に込めた道灌の願い、観音と道灌伝説に託された人々の祈りはむなしく、歴史は下克上の本格的な戦国の世に突き進み、観音像が再び姿をあらわれたのは、戦さの世に終止符を打った江戸時代初期であった。
 ところでこの十一面観音像はその後どうなったのだろうか。明治維新直後の神仏分離と廃仏毀釈の嵐が過ぎた頃、観音像は長福寺からもどって社殿の後ろの観音堂に奉られていたらしい。そして萱田の飯綱神社総代である笠川盛氏の記憶では、大正15年生まれの氏が「子供の頃、火事があって観音堂は焼失し、親達が焼け跡の始末に行ったのをおぼえている」とのことであった。笠川氏より10歳年上の花島太一氏は、「観音堂の火事は兵隊に行っていた時だったので記億はないが、若い時の三十三年祭の時(昭和7年)はまだお堂はあったと思う。ふるぼけたお堂で関心はなかったが、おばあさんたちが集まっておこもりをし念仏を唱えていたようだった」と話された。
 昭和の始め頃、観音堂の火事で十一面観音は焼失し、今は三十三年祭の由来と道灌戦勝祈願伝説にその記憶を残すのみである。萱田、佐倉そして長野を訪ね、地元の方々のお話をお聞きして、歴史と伝説の中の飯綱神社、そして今は忘れられてしまった飯綱権現の正体がやっとわかってきたような気がする。

参考資料
「飯綱信仰の歴史」小林一郎(長野郷土史研究会機関誌「長野」第31号)
「飯綱信仰とは何か」小林一郎・「飯縄山略縁起」小林計一郎(「長野」第109号)
「稲荷明神 正一位の実像」松前健編 (筑摩書房)
「中世城址と地名」高橋三千男(「佐倉市史研究」第10号)
「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書T」千葉県教育委員会



資料  飯綱神社ノ由来

抑當山飯綱大権現ノ濫觴ヲ委尋ネ奉ルニ
人王百九代後水尾院ノ御宇ニ當リテ元和八年戌
八月七日夜ヨリ當山併隣郷在に白狐来リテ
泣叫フ事畫夜ヲ不分既ニ十七日ニ達セリ
村里ノ貴賎老若怪ミ唯常ノ事ニ非スト花ヲ
折テ佛神ニ手向ケ誠心不怠勺二十四日ノ夜
夢想ニ里人ニ告ケテ曰ク 我ハ是飯綱
大権現ナリ太田道灌要官ニ住ナセルモ年
久ク今新ニ出現セシ事得タリ所謂本地ハ
十一面観世音菩薩當北東ノ方ニ五尺土地ニ
埋レリ汝等早ク此地ニ穿チ見レハ石櫃有リ
蓋ヲ開レハ光明赫クトンテ十一面尊像立セ
給フ唐櫃ノ蓋ヲ見レハ文明九年丁酉九月
二十四日太田持資入道道灌寄附御自
書ニ飯出山不動院云々ト記畢ヌ
貴賎老若是ヲ驚キ新ニ彼所ニ飯綱大
権現ト觀請ナサシム
實ニ其神徳深キ事盲人ハ立所眼開キ
蹇モ万足ナリ聾人モ耳聞エ唖モ物ヲ言フ
事叶ヒ貧家ハ福徳増歩シ家運長久ノ
門ヲ守リ別テモ火D水D釣D疫病
等ノ大難ヲ消滅スル是ノ如Cアラス永ク
子孫ヲ折盛ナサシム
實ニ千村万民ノ歩行ヲ運フモ草木風ニ
靡クニ超タリ
新哉當山ノ東方ヨリ弐丈計リ明カニ
龍燈上セ神前ヲ照ス事一輪ノ月ノ如ク
千今龍燈上ラセ給フ
抑此本地十一面観世音菩薩ハ弘法
大師ノ御作御丈ケ七寸ノ立像則閻浮
檀金ニテ鋳奉ル尊像也殊霊験新ナリ
實ニ尊像ノ由来ハ人王五十代桓武天皇ノ
御宇ニ當リテ延暦二十三年申五月十一日
大師御年三十一才ニシテ質学勅命ヲ
蒙リ検唐使正三位越前國大守藤原朝臣
賀能ト倶ニ入唐在シマシテ苦天ノ願志
空シカラス霊鷲山ノ頂ニシテ釈尊佛初モ
是ニ過ク福州長安ヨリ長ランニ閻浮檀
金大師送リ給フ實ニ謹テ思召末世ノ衆生
結縁ナサシム可シト彼檀金ヲ以テ十一面
尊像十一体鋳リ現當ノ利益ヲ顕シ我
身三千三身ト現シ千界悉ク大慈
大悲ノ御利益ニヨラサルハナシ
恭シクモ璞他ノ悲願ヲ再ヒ勇猛ヲ顕シ
給フ也
然ルニ此ノ本尊傳来事故有テ太田
持資入道道灌へ傳ラセ給フ其頃安房ノ
里見氏ト鴻ノ台合戦ノ時此所ニ出城ヲ
構ヘ陣中ニ尊像ヲ奉シ一線ニ義廣
目ノ下ニ追落シ勝利ヲ得亦上総國長
南城下總米本小金城ニ攻メシ時當所ニ
持資入道ヲ構ヘ尊像ニ盟テ曰ク我カ軍
勝利得ハ此所ニ安置セント誓願ス故ニ
佛ノ利益ニツカナク諸城ヲ攻落シ道灌
武名天下ニ顕ル後代名ヲ残スモ尊像ノ
守護ニアラスヤ
依之十一面観世音春日ノ作中央不動
明垂跡當山ノ土地ヲ穿テ細玉末世ニ及也
再世ニ在シマシテ天下恭平國土安穏ノ
守護ト成ラシメ給フト御名残情ナクモ両眼ニ
泪ヲ淨ヘ夫ヨリ江戸ノ城主トナリシカ
道灌ヲ主人鎌倉扇ヶ谷上杉定政ニ
説スル者アリ依テ定政侫ノ言ヲ真シ
道灌ヲ亡セリ文明十八年七月二十六日ナリ
後ニ定政寃道灌ヲ亡セシヲ悔ニ時至スシテ
尊像ハ土中ニ埋レリ
既ニ星星日重テ中絶ノ頃ヨリ春秋ヲ見レハ
凡二百三十四年元和八壬戍年神托再
顕ノ後神徳志随霊験新ナル事挙テ
等フル可カラス
霊夢龍燈御本地垂跡御托依載支如件
  元和八年壬戌九月二十四日
 右之本書ハ明治元年辰年佐倉城主
 堀田相模守御引上ニ相成申候
明治二巳年ヨリ飯綱大神ト奉ル唱
本寺佛十一面観世音ナラヒ不動明王此
両体ハ別當長福寺御引取ニ相成
其砌リ本書ノ通リ写置候處如件


    千葉縣大和田町萱田一一五四
       飯山憲治謹写之 花押

(PDF⇒飯綱神社の由来とその伝承


『史談八千代』25号 (2000年11月発行)

道標からよみがえる古道E
   飯綱権現への道「萱田道」

              蕨 由美

 成田街道の大和田三叉路からやや東寄りに河野電気商会の横を北へ入る道があり、その角に「可やた山いつ奈大権現道」(B03)の道標が立っている。飯綱神社への参詣客を招くような太く力強い文字が印象深い。萱田の飯綱神社は神仏習合の修験の神社で、太田道灌が新川東対岸の米本城を攻撃する陣を張り戦勝祈願をしたという由来がある。
 この道標によれば、成田街道から飯綱権現別当寺の長福寺を経て飯綱神社まで、萱田町と萱田を南北に貫く約2キロの道が「権現道」である。
 実は「飯綱権現」銘のある道しるべは他に、飯綱神社下の「是より左けミ川道 いつなごんげん宮江三丁」銘の庚申塔(B09)1基しか残っていない。
飯綱権現への道を、地元では「萱田道」という。
飯綱神社からはるか東へ約6キロ、臼井城址を望む手繰川西岸の丘の上に「西井野米本萱田道」と彫られた秩父順拝塔(サ08)がある。小竹にはこの道標のほかにも水神橋などに2基、井野にも台座に「かやた」を示す石仏(サ02)があった。萱田をめざす道しるべ、これらはいったいどのエリアまで分布しているのだろう。

1 西は寺台からつづく萱田道
 「往古有十二寺今成畠云寺台處是也」と「貞福寺縁起」に記された寺台は、吉橋城址の貞福寺を望む木下街道(船橋印西線)の西側の高台で、今はこの「畠」西方に八千代西高校がある。その西高入口三叉路の石塔群の中に、江戸時代の庚申塔や馬頭観音と並んで明治27年(1894)の庚申塔(J07)があった。萱田の銘が確認できる最も西の道標である。
 この道標の示す「東かや田」の方向にゆるい坂を下りて木下街道を横断し、寺台バス停の手前から「貞福寺」の看板のある角を左へ入っていく。吉橋公民館向かいの大師講道標(J06)が示す吉橋城南の櫓だった「来福院」跡を通り、元安原医院跡の角に出ると「東萱田城橋佐倉道」の道標(J05)がある。道標に従い、田んぼのあぜを進んで小さな橋を渡ったら、水路に沿って左へ行き、交差した細い舗装道路を右へ曲がる。
 この坂道は「おやしき」とよばれた尾崎館址、うっそうとした木々の中に小祠もあり、昼なお暗い道である。旧家の角を道なりに右へ曲がる。この付近を勘子山というそうだ。
 この吉橋と尾崎を通る道は中世城館の跡なので地形も道も複雑な起伏や曲折が多い。勘子山の、今は畑の曲がり角で「この道でいいのかしら」と迷っていると、尾崎和楽会が立てた「東萱田城橋ニ至□」の道標(J04)がちょこっと頭を出していた。
 道標の指示に従い(といっても土の中で読めないが)庚申塔群の前の道を東方向に行き、「木戸の外」へ出る。谷を越し麦丸に入ると、古道の面影を残す大きな木の下の道しるべ(J03)が、この道は確かに「萱田道」と教えてくれる。天保6年(1835)の建立、大日如来なのか馬頭観音なのか決めかねるほど、百数十年の風雪にさらされてきた仏さまである。右面には「東かやだみち」左面には「西たかもとミち」と彫られてある。
 石仏が静かに行く人を見守るこの道は、吉橋城攻防戦の伝承に名を留める「勝坂」。坂道の南側は大和田新田の工業団地、北側は麦丸の田園地帯。さらにこの道を行くと、左側に庚申塔群があるが、道標銘のある石塔はない。右側は廃ガラスのリサイクル工場。その先の畑の中で、道は二又に分かれる。
 二又を、左に行けば東電麦丸変電所脇から城橋に出る。飯綱神社へは右へ。この右の道は「よなもと道」(成田街道の「米本入口」から東北に入り、城橋から米本へ抜ける道)と交差する。古くからの会員の調査によれば、その十字路のカラオケ店角(通称「桜っ株」)に「臼井」方面を指示する道標がかつて存在したが、今は埋められてしまったという。そこからゆりのき台の住宅街路の中にその跡を留める道を行くと、飯綱神社参道に出る。

2 「萱田権現」に集う人々
 こうして道標を手がかりに寺台・吉橋・尾崎を通る「萱田道」が復元できたが、この道を飯綱神社まで通ったに違いないひとつの文献資料を伝承館の館長から入手した。それは大正12年(1923) 睦村寺台の「飯綱神社講社規約及講員名簿」である。
「萱田権現講」と称したこの講は、規約によれば「一日ニ付金壱銭ヲ積立テ」「毎年、正、五、九月の三回」祈祷と神符札の授受に飯綱神社にお参りし、また参拝の際優待サービスの特典があったらしい。たぶん近世のなごりの講社であろうが、木下街道の向こうから年3回「萱田道」を通って飯綱神社に代参している。寺台からは高本、小金へ抜けることができるが、伝承館の館長のお話では、最近でも松戸の方から権現講の一団が飯綱神社に参拝に来ていたとのことである。
 もうひとつ、文献を紹介。昭和2年(1927)飯綱神社が発行した「飯綱神社縁起・大和田町案内図」には「萱田市」について記されている。神社境内では毎月24日、定設の貸し店舗六七十軒、露店はそれ以上設けられ、この地方きっての大市場が開かれる。商人は京浜方面から、顧客は四里四方から集り、さらに8月7日と12月6日には「大市」も開かれるという。

3 北は島田台からの道
 飯綱神社から北で「萱田」を示す道しるべは、麦丸の大師講道標(J01)、島田の馬頭観音塔(I04)を経て、「嶋田台嶋田桑納麦丸ヲ経テ萱田大和田ニ至ル」と彫られた島田台の道標(I01)へとつながっている。
この南北ルートを裏付ける文献を探してみると、嶌田村信田家「御用留」に明治6年(1873)頃の県庁通達など回状を送る順が書いてあり、必ず「萱田町→萱田→麦丸→桑納→島田」を通って小野田や八木ヶ谷へ順達されていることがわかる。
 ただ桑納三叉路の成田山道標(I05)の正面には「桑納□リ大和田道」と標されてあるので、大和田〜萱田〜島田台までこのコースを、桑納・島田台の人は「萱田道」というより「大和田道」といっていたのだろう。現在この道をたどると、桑納三叉路は林の中、島田の馬頭観音塔(I04)付近は畑の中のとてもさびしい道だが、かつてこの道は飯綱神社の祭礼に集うだけでなく、南は検見川、北は白井へと抜けて物と人と情報が行き来する幹線であったはず。そしてそれはまた現在の国道16号線に相当する大事な道だったにちがいない。

4 萱田は里道の交差点
 飯綱神社から東側をのぞむと、新川にかかる城橋の向こうに米本城跡の高台が望める。城橋は、天保6年(1835)の「米本村絵図」にも描かれているように、江戸時代からあった数少ない重要な橋である。
 ここ城橋を渡り東は米本・下高野から井野・先崎・小竹を経て萱田道は佐倉へと、西は寺台を経て高本から鎌ヶ谷へと、道しるべにリレーされ成田街道の北側をバイパスのように東西に延びていく。
 畑や林の中の心細い道であっても、道は目的地まで迷わず歩ければそれでよい。数丁でも距離が短い里道で用がすむのなら、あえて公用の伝馬が通る官道の成田街道を通る必要はなかったのだろう。
 「萱田道」の道しるべは別のルートにもある。成田街道高津入口交差点を北へ入り、八千代霊園の向かい側、工場入口の草むらにある如意輪観音石仏(A12)である。右面には「かやたみち」、左側は下が崖で足場が悪く、また風化がひどいので判読困難であるが、おそらく「よしはしみち」であろう。高津方向から来てここで右折すると、「権現道」に合流するはずだが、八千代中央駅前の開発に行く手をはばまれ、今は再現できない。
 村上にも「西かやた船橋」という明治の馬頭観音塔(D04)と、同じく明治の「西かやだ舟ばし」と彫られた月待塔(D08)、さらに「萱田麦丸吉橋方面」と彫られた昭和の道標(D01)、上高野にも「村上萱田道」の馬頭観音塔(E04)がある。これら近代からの道しるべに案内される道は村上橋を通り、今の市民会館向いの「右むらかみ 左かやだ 道」の道標(B04)で「権現道」に出会う道である。この村上橋、かつて「馬洗土橋」と書いて「マレド橋」とよばれたとのこと。小金牧の野馬を幕府に納めるためきれいに洗ったところの橋という意味だそうだ。城橋に比べ小さな橋だったのだろう。
 飯綱神社の表と裏で、これら高津と村上からの枝道を合わせた南から「権現道」、南西からの「よなもと道」、西は寺台から来た「萱田道」、北は島田から来た「大和田道」が合流し、城橋を渡って東は佐倉へと続いていく。成田街道からやや奥まった萱田、ここは里道の交差点、そして参詣と市に集う庶民の出会いの場であったにちがいない。

(PDF⇒飯綱権現への道「萱田道」 )


『史談八千代』26号 (2001年11月発行)

上高野の民俗・春をむかえるムラの行事
                蕨 由美


1.はじめに
上高野は都市化の波に洗われて急速に変わりゆく旧村の一つである。専業農家や農業後継者の減少に加え、廃棄物処理場や計画道路の建設により田畑や森が失われ、村里の風景も一変しつつある。
15年前学習院大学の民俗研究会が、克明に調査し残してくれた報告書「上高野の民俗」*1。このレポートに記されたムラとイエ毎の数多くの年中行事や講なども、ここ十年ぐらいの間に行われなくなったり、簡略化されたりしてきている。
それでも、村の鎮守、路傍の石仏などとともに、ムラ共同体の手で「オビシャ」「ツジキリ」「テントウネンブツ」などの行事が残されてきた。これらは北総地域でかつてどこでも行われていた民俗行事であったが、今はこの地区が数少ない担い手のひとつとなっている。
平成10年(1998)から平成13年(2001)、当会で、また個人的に参加取材させていただいた記録と、藤代巌氏(80歳・大正9年生)と山崎重信氏(62歳・昭和13年生)からの聞きとりにより、上高野地区の早春行事を紹介したい。

2.早春の上高野のムラ行事は今・・
@「オコモリ」
 正月は2日の毘沙門堂の「オコモリ」から、ムラの一年が始まる。
 かつては正月2日の夜からムラの年寄が毘沙門堂に集まり、一年間良い年であるよう一晩中念仏を唱えて夜明かしをしたとのこと。 毘沙門堂はムラの中央東、佐倉市井野の千手院からの古道が小竹川を渡ってからの坂に面したところにある。2間四方の小さなお堂で、境内も決して広くはないが、白幡神社の氏子・駒形神社の氏子の区別なくムラ全体で大切にされてきた。
 念仏講自体が、数年前に消滅してしまったので、現在(2001年)は、2日昼頃から夕方までお年寄が20人ぐらいお菓子やお餅などを持ちより、毘沙門様の前で団欒の時を過ごす会に変わっている。
 正月2日に毘沙門様を拝見かたがた私がお伺いしたとき、ちょうど皆さん歓談中で、刷りもののお札をくださった。その年の寺社総代が年末に、古くからの木版を使って手刷りしたお札で、毘沙門天の像の横に「造立寺」と彫られてある。
 このお札を持っていると、なくした貴重品が運良く戻ってくると伝えられていて、お財布に入れておくとよいと教えてくださった。
「オコモリ」はかつて年2回、正月と8月の2日の夜から行われ、8月は特に青年団主催の素人演芸会や花火なども行われ、近くのムラの若い衆も参加して盛大だったいう。
 正月は、修繕前のお堂が隙間風の通りぬけてとても寒かったが、楽しい夜明かしだったと懐かしく話されていた。

A「オビシャ」
 オビシャとは、豊年を願うムラの行事で、以前は1月20日の「男オビシャ」と、翌日「女オビシャ」が「ヤド」とよばれる当番の家で行われていたが、現在は20日前後の日曜日、金乗院で男も女もひとつに統合して行っている。
 今回取材を逸してしまったので、聞きとりにより、再現してみたい。
 回り番の4軒の当番は、前日からご馳走の準備のほか、神社に納めるお札と「蓬莱山」を用意する。蓬莱山は床の間に備える飾り物で、松の盆栽の下に白米と刻み昆布を敷き、上に野菜で作った鶴と亀をあしらう。(以前は当番が山林の松の枝を切って作ったが、松食虫で枯れて調達できなくなり、藤代氏が丹精している盆栽を提供しているとのこと。)
 お札は和紙の上に白幡・子安・駒形・道祖各神社の名前と年月日、裏に当番の名前を書き、前年の上に重ね、これをお神酒とともに各神社に奉納した後、持ち帰り、オビシャを開く。
 お神酒で乾杯、酒宴の途中で今年の当番から来年の当番へ、「神」(お札)の受け渡しが行われるとのこと、途中退座する場合はこの受け渡しの後とのことであった。

B「ツジギリ」
 セントマーガレット病院右となりのフェンスや、ふれあいプラザの入り口の電柱に大きな藁のヘビが飾られている。
 「ツジギリ」とは、一般にムラに邪悪なものが入ってこないよう、このようなヘビなどをムラ共同で作って、ムラ境に設置する行事である。
 上高野では平成6年まで1月28日に行われていたが、平成7年よりその前後の日曜日の午後に行われることになった。これは当会で見学させていただいた平成7年と11年の記録である。
集まるのはおもに区長組長などムラの役員が十数名、製作場所は金乗院の庭で、大きなビニールシートを敷き、区長が用意した藁やヒイラギなどの材料が運びこまれる。
 ヘビはムラ境5ヶ所に置かれる「オオツジ」5匹のほか、各家用の「コツジ」も作られる。
 はじめは藁ひとつかみを十字に交差、横を直角手前に、縦を後ろに折り返し、横の藁を足しては手前に折って紡錘形2本、即ち上あご下あごを作る。それぞれをひとつに重ねて根元を縛り、藁を足しながら縄を綯う要領で胴体を作る。1.5〜2mぐらいになったら、端をしばって尾とする。赤い唐辛子で目と舌を作り、頭にヒイラギを刺す。
コツジも同じ要領で小さく作るが、オオツジの頭には、村上の神主山本礼典家からいただいた「塞神」のお札を飾る。
 2時間ぐらいで製作作業を終えると、軽トラックにオオツジを載せて、ムラ境5ヶ所に持っていく。昨年の藁クズのようになったヘビははずされて下に置かれ、新しいヘビをフェンス、木の枝、電柱など所定の所に設置する。その間に金乗院の片付けが終わり、戻って直会となる。
コツジは、各家毎に、門の横の生垣などに付けられ、その家の護りをつとめ、かくして暦は節分を迎える。

C「テントウネンブツ」
 この行事も金乗院で、かつては奥州参り(出羽三山講)の男達によって2月15日に行われていたが、ツジキリと同様、昨今は15日前後の日曜日午後、ムラの行事として行われるようになった。当会では、平成11年の「テントウネンブツ」を見学させていただいた。
金乗院の庭に区の神社総代以下、役員の男の人、10人ぐらいが集まり、作業はまずシートを 敷いて、竹と藁で「ボンテン」の芯を作るところから始まる。
 藁をたばね、外へ藁を折りかえし糸で縛って30数cmぐらいのところで切りそろえて藁苞を作り、先の尖らせた2mぐらいの長い竹棒をさしこむ。これを6本作り、20cm角の色紙で巻く。色は、白2本、赤・黄・緑・紫が各1本である。
 作業は手分けし、手ばやく進む。太竹を幅1〜2cmに割って、ボンテン1本あたり、黒く塗った「ケン」3本、カザリを付けるための楔状が9本、計72本が作られる。カザリは、色紙を折って「ヘイソク」・「ハンペイ」(ヘイソクの片側だけの形)・「ハンペン」(おでんのはんぺんのような三角形)の3種各3枚づつを作り、割り竹に挟む。
カザリができあがったら、藁苞に刺しこんでいく。竹棒の中央を色紙で巻き、榊を付け麻で縛って、ボンテンが完成する。
 庭に机を置き、四隅に赤・黄・緑・紫、手前と後ろ真中に白のボンテンを括りつける。机の上には、石の大師像、その前に緑の三角のカザリを付けた2段重ねの円形の餅を置く。机の周りに糸を張り巡らし、その前に香台を置いて、香炉・ろうそく・鉦・御神酒が供えられる。
 これで準備完了、次ににぎやかにネンブツオドリとなるはずだが、念仏講が消滅した今は、役員だけで「テントウダ、ナンマイダ」と唱和しながら銅鑼を叩き、右回りに数回まわってあっという間に終わってしまった。
すぐにボンテンを取り外し、担いでセントマーガレット病院右横の「ボンテン塚」に向かう。ここには出羽三山供養塔が12基ある。ボンテンを地面に刺し立て、糸を張りめぐらす。
奥州参りの時、宿坊の先達にもらった三山祝詞を唱えながら三山供養塔に御神酒をかけ、一同もコップに酒を注いで口をつける。これも短時間で終わり、金乗院に戻って簡単な直会を行う。
 供えた餅はご婦人が切り分けて参加者に配る。シンコでできた餅で少し甘い。
 夕方には散会となり、「テントウネンブツ」の行事は終了した。

3.春を迎えるムラ行事の意味を追って・・
@「オコモリ」=春は、いみごもりから晴る(明ける)いうこと
 「オコモリ」は、一般に、神を迎える祭りに際し心身の慎みをはかるため、社やお堂などに泊り込むことで、特に「おおつごもり」(大晦日)の夜は、徹夜で寺社に参篭して日の出を拝み、新年を迎えてきた。上高野の毘沙門堂での「オコモリ」もこのなごりを、留めているように感じられる。
 現在のように新たな年がいつの何時何分からと一律に定められてからも、元来のあらたまの年を迎える習俗は、過去のさまざまな暦に由来して、冬至から彼岸ごろまで重層的に続く。その多くは、魂の衰退(ケガレ)を「コモリ」の空間を通過して「ハレ」の空間へとよみがえらせる行為であり、円環運動すなわち死と再生のリズムの起点としてとらえられる。*2
 この毘沙門堂の境内は、その下を佐倉から米本へ古道が通り、おそらく中世からムラを防衛する要所であった。毘沙門天は、多聞天ともいい、北方の守護神。勝利の神であり、富貴財宝を司るという。
 近世から盛んになった念仏講などに支えられて、毘沙門堂での「オコモリ」は正月と8月、霊験あらたかな特別な夜の行事として続けられてきた。
 今は「オコモリ」も、お年寄りの昼間の親睦会となっているが、「春とは、いみごもりから晴る(明ける)ということ」いう原初の意味を思うと、東に向って高台に立つ小さなお堂から、上高野の一陽来復の春がくるように感じられた。

A「オビシャ」とは時間と秩序の更新を期す祭儀
 上高野では行っていないが、八千代市内では、高津のハツカビシャと高津新田のカラスビシャが、弓矢で的を射る神事を伴って「オトウワタシ」を厳粛に行う行事として伝えられてきた。高津は「甲乙ム」の字を組み合わせた的、高津新田はその名のとおり烏を描いた的を射る。*3
 北総各地で行われるこのような弓神事は、柳田國男の説により年頭に弓を射てその年の豊凶を占う神事で、騎乗で行うヤブサメに対し、「歩射」の字を当てるとされてきた。
この定説に対し、萩原法子は利根川沿いの多くの事例が、太陽を意味する三本足の烏の的を必ず射当てることに注目し、中国の「十日神話」から、無秩序に昇る多数の太陽を整え天体の運行を順調にする古俗に由来すること、字は「奉射」を当てるべきと説き明かす。*4(ちなみに私は高津の的の「鬼」に似ている「甲乙ム」は、十個の太陽、いわゆる十干の「甲乙丙丁・・」ではないかと思っている。)
 またオビシャは、必ずオトウワタシすなわち当番の引き継ぎを行う。オトウとは、神事を司る祭りの年番のことで、頭屋ともいう。オビシャは、その本質として頭屋祭であり、「奉射日記」などの祭事記録、当番名の累代の記録を次の当番に引き継ぎ、ムラの「時間と秩序の更新」が行われる。
杯を新旧の当番で交わす杯事を伴う場合もあり、市川の「ニラメッコオビシャ」や佐原市大倉の髭撫祭*5のようにこっけいなほど厳粛に行いすぎて、有名になった祭事もある。
 八千代市内では、かつてどのムラでもツイタチビシャ(男ビシャ)・女ビシャ・天神ビシャ(子供主体)・子安ビシャなど男女・世代別にいろいろなオビシャが行われてきたが、だんだんひとつに統合され、親睦会のようになりつつあると聞く。
 上高野のオビシャは弓神事を伴っていないが、下高野・米本と同じく「蓬莱山」を飾り、頭屋祭の本質であるお札の受け渡しを確実に伝えて、順調で平安なムラの一年を願いつづけていくことだろう。

Bツジギリ=大地の主・蛇をムラ境に奉る
 今年(2001年)は巳年、上高野のツジキリの賀状をお出ししたら、先生・友人からも市川市・船橋市中野木・八千代市下市場のツジギリの大蛇を題材にしたそれぞれ立派な年賀状が届いた。並べてみると表情は異なるが、北総各地で藁の蛇が道行くモノをにらんでいる姿は実に壮観である。
 村境はムラの内と外を区別する場所、そして精霊が出会う場所であり、道祖神や賽の神を奉ったり、道切り・辻切りを行う神聖な場所でもあった。
 関西では勧請吊という注連縄を道を遮るように渡し、新潟・茨城や東北では大きな藁人形を呪物として設置する。(中世の絵巻にも描かれている勧請吊は、国立歴史民俗博物館にその再現品が中世展示室の入り口に張られている。)
 関東でも呪物の種類は多種多様で、だいたい藁で作られているが、横浜市では大草鞋だったり、袖ヶ浦市では注連縄に蛸だったり、路傍の石仏に比べ、ムラ毎の創意の多様さに感心してしまう。あたかも邪霊と知恵比べをしているようだ。*6
 大蛇のツジギリは、市川市国府台・堀之内・船橋市中野木・市内下市場のほか下高野や佐倉市井野で行われているが、八千代市内でも勝田・桑納では、注連縄を渡し、(実際はじゃまになるから、道の片方に纏めて置く)小池では篠竹に経文の木札・注連縄・柊などを吊るす。
 注連縄と蛇の違いはいったい何かという答えを探していると、「正月の注連縄は年縄とも呼ばれる。歳神は蛇として捉えられるから、年縄とは蛇縄を意味する」*7とあった。本質は同じであるとしたら、その形態の違いは、ムラの個性というほかない。
 蛇は龍でもあり、また大地の主であり、水の神である。
今年も大蛇が上高野のムラの境に設置された。印旛沼の水位に命の営みをゆだねざるをえなかった祖先、その願いと記憶が蛇の姿に込められているように思った。

Cテントウネンブツ=太陽と人のよみがえり
 『江戸名所図会』を開くと、「船橋驛天道念佛踊之圖」という絵がある。祭壇を作り梵天を立て、シメを張り巡らし、鉦を打ちながら廻り踊る姿は、祭壇の荘厳さは手が込んでいても、上高野のテントウネンブツとそっくりだ。
 八千代市では北部日蓮宗の地区を除き、全地域で今も存続し、また市外では、下総を中心に埼玉・茨城県でも広く行われているという。*8
 各地の祭儀の進行は、「ボンテン作り−祭壇(テントウ棚・オタナ)の設置−念仏踊り−祭壇の解体−ボンテン塚への移動−ボンテン立て−お神酒をあげて拝礼−寺へ帰って餅配りと直会」というコースが標準で、中には前半を省略しボンテン立てから行うムラもある。
 またその意味もいろいろ伝承されてきていて、天道=オテントサマを奉る風習、奥州参りに行った人の供養、羽黒修験の祭祀、疫病流行時の災厄避けという説から、「江戸名所図会」の註「弘法大師が山形の天童で開闢」という根拠の不明な説まで諸説紛々のようである。
 最近の研究では萩原秀三郎が、「太陽の運行に関する春分の行事で、太陽の祭壇を右回り(太陽回り)に巡って天道の安穏を祈願する行事」*2と位置付け、またさらに宮田登はテントウ棚が天蓋(白蓋)に類似することから、「地域社会の擬死再生の装置」*9と暗示し、平野馨は「日輪崇拝と念仏行事を基本とし、天候の順調と豊作を祈るもの」*10と述べている。
 ボンテンは修験道の儀礼で使われる御幣で、本来は神の依り代であり、語源は目印を立てる「ほて」の意味が梵天の語と結びついたらしい。*11
 萩原秀三郎は、沼南町のテントウ棚に日月を象徴する三本足の烏と兎の絵を飾る事例から、ボンテンは太陽柱であり、秩序を創出する中心軸、すなわち「生命の樹」を示唆している。*2
 千葉県北部では、中年男性による出羽三山講の奥州参りが盛んで、奥州参りをした人が亡くなると同行が集まって講の葬式をし、ボンテンハギといって、墓にテントウネンブツと同じボンテンを立てる。出羽三山を登拝した死者はすぐ神になるという。
 上高野ではかつて念仏講により、葬式と同じ念仏を唱えた。
 テントウネンブツは、太陽を蘇らせる原初からのムラの共同祈願に加え、人の死からの再生をともに想起させるドラマ仕立ての祭儀だと私は思う。その後半の意味は、念仏講や出羽修験の先達によってさらに強められたのだろう。
 上高野では、奥州参りが昭和57年に一区切りしたままの状況と、念仏講の解散で、テントウネンブツはムラ行事に移行した。
ま た15年前の記録と比較すると、まず白のオヤボンテンの位置が平準化されて区別がなくなり、タナに飾る大日如来が大師像にかわり、各家から米を集めてついた餅を角餅にして奉ったあと各家に配るのを廃止するなど、いろいろ省略化されてきている。
 地域の民俗行事として続けていこうとすれば、当番に負担のかからないようにすることと、現代の住民にも親しみやすいようにすることは必須である。今後も変化を続けながら次の世代に継承されていくことだろう。

4.春をむかえるムラのくらしとこころ
 上高野は、私がよく通りかかるムラの中で、不思議に満ちた未知の世界だった。
 近代的な病院横のフェンスにかけられた藁の蛇、長屋門のある屋敷、藁葺きの民家、暗く細い坂に建つお堂、道しるべなどなど、いつかその秘密をのぞいて見たかった。
今回の上高野研究には、充分調査日程がとれず、したがって平成7年のツジキリ見学からのアルバムやメモを探し出して、その一部を再構成してみた。
 15年前の学習院大の調査報告*1の緻密さにとうていかなわないが、上高野の民俗行事の「今」をスケッチし、その意味を私なりに追ってみたつもりである。
四つの行事をまとめてみると、北総の典型的な農村の祈りと暮らし、祖先からのこころがみえてきた。
 ムラの人々は、時と空間の区切りに特別な思いをこめて、まつりを毎年繰り返し行ってきた。太陽の運行と自然に依拠するムラのいとなみ、さらに生と死をうけとめて心の平安を共にしようとする人の思いは、原初からのまつりに変化を与えつつ、連綿と続くということである。
 忌みこもりから晴れ、太陽もムラも人もよみがえる。祭儀はその記憶のリピート、かくしてムラはいのちの更新の春をむかえる。

参考資料
*1『学習院民俗』第3号 学習院大学 民俗研究会(1985)
*2『神樹 東アジアの柱立て』 萩原秀三郎 小学館(2001)
*3『八千代の歴史 資料編民俗』 八千代市史編纂委員会(1993)
*4『熊野の太陽信仰と三本足の烏』萩原法子 戎光祥出版(1999)
*5「奇祭 側高神社の髭撫祭」『史談八千代』第7号(1982)
*6『目でみる民俗神 3 境と辻の神』萩原秀三郎 東京美術(1988)
*7『蛇 日本の蛇信仰』吉野裕子 講談社学術文庫(2001)
*8『よなもと今昔』11・12・13号 阿蘇郷土研究サークル(1994.・96・98)
*9『ケガレの民俗誌』宮田登 人文書院(1996)
*10『図説 ちば民俗誌A ときめく人々:祈りと暮らしの日々』平野馨 崙書房(1997) 
*11『日本民俗大辞典』吉川弘文館(1999) 

(PDF⇒上高野の民俗 春をむかえるムラの行事


『史談八千代』27号(2002年11月発行)

今に伝わる高津新田の民俗行事
            蕨 由美

 「高津新田」は、延宝4年(1676)の検地により成立した村で、長作村(千葉市花見川区長作町)などから入植してできたという「新田」のムラである。
現在は大規模な住宅団地に囲まれて、畑とアパート・分譲住宅が混在するこの地区では、数十軒ぐらいの旧家によって「カラスビシャ」・「子安講」・「千葉寺十善講大師廻り」などの民俗行事が、今も素朴に伝えられている。
 今回、カラスビシャ・子安講・千葉寺十善講大師廻りについて、高津新田の皆様に快く取材調査をさせていただいたほか、オビシャの詳細な内容を大木茂夫氏にお教えいただいたので、2002年に行われたこれらの行事の現況を報告したい。

1.オビシャ
 京成線八千代台−実籾間の線路西側に八千代台西市民の森がある。現在は松くい虫のため、松もまばらになってしまったが、一面松林だったかつての景観をその中にとどめている森で、その森の中にひっそりと諏訪神社がある。
 この神社のオビシャは、カラスの絵の的を射る神事をともなうので「カラスビシャ」、また現在は休日の11日であるが、以前は2月10日に行われたので「十日ビシャ」ともいう。
 2002年の2月11日も、穏やかな晴天に恵まれ、朝8時半頃より当番の方々が準備のために集まってきた。
 まず社殿の左に的を立て、安全のため、後ろにベニヤ板でバックボードを設置する。的は、竹で編んだ六角形のカゴメに、カラスの絵を墨汁で描いた白い紙を貼る。以前は焙烙につく墨をお酒で溶いて、稲穂を筆代わりにして描いたそうが、今は、カラスの絵を拡大コピーして切りぬいた紙型を使って作る。カラスは左向きに羽をひろげて飛んだ姿で、足は2本である。
 弓と矢は、かつては当番が竹で、羽は紙でその都度手づくりしていたが、現在は市販の和弓を毎年使用している。
 準備が終わると、代々氏子総代の当主が挨拶の後、弓を引いて的を射る。その後は和気あいあいと交代で何回も弓を引く。だれが何回射ってもよい。
 本会会員も飛び入りで弓を引かせてもらったが、うまく射るのは案外と難しく、慣れた氏子の方が射るとさすが大当たりとなって、自然に拍手が起こる。最後に手で目に矢を突き刺すというが、この日はみごとに目を射抜き目的を達した。
 和やかに弓神事が終わってから、高津新田西集会所に移動し、「オトウワタシ」となる。
 神殿に奉げた御神酒は、杉の束で栓がしてある。2名ずつ新旧当番が向かい合い、区長が御神酒を当番に注ぎ、「ご苦労様」「次はよろしく」と新旧当番で挨拶して交互に飲み乾す。続いて半切りの大根に塩をつけ、互いに相手の頭に擦り付ける。
 オトウワタシの「オトウ」の中身は、縦に半折した紙に「諏訪神社奉謝名簿」と簡単な「目録」(*資料1)が記されて綴じてあり、これを紙に包んで新旧当番の名前を表書きする。
 毎年、氏子総代が筆書きで名簿の清書をする作業はたいへんなので、2002年からはパソコンに入力された諏訪神社氏子名簿データから、奉謝名簿を作成・印刷し、綴じて従来の体裁に整えている。なお2002年現在、諏訪神社の氏子63軒中、43軒が奉謝名簿のメンバーで、死去などの理由で異動の申し出があれば、更新される。当番は名簿により順番に回ってくるが葬式があった家はとばす。(一方、神社の氏子当番の場合、不幸のあった家は、その年のみ順番から抜かれ、翌年は回ってくる。)
 この最新の名簿は単独でオトウワタシされ、高津など他の地区のように旧名簿の上に年々新名簿が重ねられるようなことはない。
 オトウワタシでは、この名簿を区長が新当番のカシラの背中に差し込む。名簿は尊く大事なもので、ナオライで酔ってなくさないためらしい。
 続いてナオライとなり、当番が準備した膳を皆でなごやかにいただく。粳米を小豆で色づけした「オミコク」というご飯が必ず全員に配られる。このオトウワタシからナオライまでは、かつては「ヤド」という当番の家で行われたが、当番の負担もたいへんなので、今は高津新田西集会所で行うようになった。
 午前中のここまでの儀式は男性のオビシャで、午後からは女性の「オンナビシャ」が行われ、ここでは飲食のほか、「ハツセ」という祝い歌が、ゆったりとした節回しで謡われる。またかつては、夜、若者だけのオビシャも行われ、こちらはとても賑やかだったそうだ。
 また、高津新田西集会所の南向かいにある愛宕神社(小さな祠)でも2月24日(最近は24日に近い日曜日)に「アタゴビシャ」を行うが、これは集会所でのナオライのみで、弓神事などはない。

 以上、八千代市内には弓矢で的を射る神事として、高津新田のカラスビシャのほか、北隣の高津では、1月20日の「ハツカビシャ」が伝えられている。高津は「甲乙ム」の字を組み合わせた大きな丸い的を使い、現在は、はじめに三山二宮神社の神主の司式で御祓いと玉串奉奠の祭儀が行われた後、社殿の中から参道入り口鳥居の下に設置されたこの的を射る。
 また、南隣の千葉市花見川区長作町の諏訪神社でも、毎年1月11日(江戸時代までは2月10日)六角形に「る」のような文字らしきものを描いた的に向かって弓を射る神事が行われている。民俗研究家の萩原法子氏のご教示によれば、この的の意匠は「烏」の崩し字に似ており、高津新田の絵と同様にカラスを意味するものと推定できるとのこと。また、高津新田の諏訪神社は開拓に伴って、長作の諏訪神社から、景観の似ている大留入の台地上(現在の八千代台東6丁目)に分祀され、その後現在の地に移ったといわれていることから、両諏訪神社のオビシャを比較検討することにより、その原型と変容の過程を探ることができるかもしれない。

2.子安講
 高津新田では、毎月15日現在でも「子安講」が行われている。
 子安講は安産・子育ての神である「子安様」を祀る若奥さんの講で、信仰的な集まりであるが、農繁期でもかならずお嫁さんを出席させることになっていて、昔からお嫁さんたちの息抜きの場であり、骨休めのレクリェーションでもあったという。
 最近は、お勤めにでられるご婦人も多く、勤め人の当番の方の都合によっては15日に近い日曜日に行われることもある。
 筆者が取材させていただいた2002年4月も14日の日曜日で、この日は、当番が朝、諏訪神社の子安様にお神酒を上げる。子安様は、本殿右脇の祠に祀られている元冶2年造立の子安観音と子安地蔵の2体の石仏である。
 午後からは、高津新田西集会所に奥さん方が十数人集まり、飲食とおしゃべりを中心に懇親の会を開いていた。以前は、当番の家や諏訪神社のお堂で行っていたが、今は西集会所か公会堂のどちらか当番の住まいに近い場所で行っている。
 特に宗教的な儀礼はないが、懇親の会の終わりごろに、「子安様」と「ごちそうさま」の「ハツセ」を全員で謡う。高津の念仏講と違って、若い方が多いので、ママさんコーラスのようなきれいな声の斉唱で、ゆっくりとしたメロディが印象的であった。(資料2)
 高津新田では子安講のほかに、その上の世代の婦人による念仏講が行われていたが、現在は行われなくなっていて、そのため子安講もやや年齢が高くなっているとのことであった。

3.千葉寺十善講大師廻り
 高津新田公会堂の玄関前に小さな大師堂がある。村上会員による本誌掲載の「高津新田大師堂調査報告」にあるように、昭和40年9名の発起人で再建されたお堂で、真言宗の円光院(大和田)の檀家の住民によって維持管理されてきた。
 ちなみに地域内に寺院はなく、高津新田の旧家は主に日蓮宗の長胤寺(長作)を、他に浄土真宗の了源寺(船橋)、日蓮宗の長妙寺(大和田)を旦那寺にしている。
大師廻りは近隣の地域をエリアに、四国遍路をなぞらえて行われる巡礼で、八千代市内には、千葉寺十善講と吉橋大師講の大師堂が各地にあり、季節になると白装束に身を包んだ巡礼が接待を受けながらこれらの札所を訪れる。
 春は4月2日、十善講の大廻りが高津新田にも巡ってくると聞いて、板谷会員が巡礼に同行、またその後の八千代市近辺の巡礼と、4月28日の千葉寺「送り込み」には筆者を含め数名の会員が同行取材を行った。
 2002年4月1日千葉寺からスタートした千葉寺十善講は、板谷会員の取材によると、2日目、千葉市の畑〜坊辺田〜天戸〜花島〜柏井を経て高津新田に正午過ぎ、マイクロバスと乗用車で到着した。高津新田側の接待役は5名ほどで、お茶・ジュース・お茶菓子・おにぎり・煮物・漬物などを公民館に用意して待つ。
 講の一行の数は十数名、御前様(千葉寺の住職)より南天の木の錫杖を預かり大笠を被った総代(1名)のほか、シルバー系の大笠を被っている先達(1名)・総代補佐(2名)・視察係など講の役職によって、編み笠・たすきなどの身なりが異なる。

 御詠歌(資料3)を奉納した後、講の視察以上の役員は公会堂の座敷に上がり、巡礼者はその場で茶菓の振る舞いを受ける。接待は、する方も受ける方も大師様の功徳にあずかると信じられていて、大師堂に供えてある品々やお接待にだされた品々も巡礼者が持ち帰る。こうした接待に対して総代は心付けを出し、巡礼者はお礼をこめて御詠歌「おちゃのくどく」(資料3)を賛唱し、帰り際には挨拶をして次の札所へと移動する。
 各札所の大師堂でも、懺悔文などを唱え、役員が退席後に巡礼者が御詠歌を賛唱するが、お接待の席でも御詠歌を賛唱する場合もある。また、お接待のない札所もあり、まれに巡拝しない札番もある。
 こうして88ヵ所の札所と30ヵ所近い番外の札所を、3日続けて数日休むというサイクルで、4週ほどかけて廻る。高津新田の大師堂は番外の札所で、4月2日はこのあと、実籾〜屋敷〜武石を廻って第2日目を終了した。
 またこの年八千代市内では、4月10日に宇那谷から井野へと廻る途中、勝田・上高野原・上高野の札所が、翌11日は米本を起点に追分・逆水・神野・保品・下高野の札所が巡拝された。
 春の大廻りは、4月28日の千葉寺「送り込み」で終了。桜の開花をともにスタートして巡拝を果たした一行を、御前様や接待の方々が新緑の中に出迎え、ともに満願を祝った。

(付記)この稿では高津新田の民俗行事のうち取材できたオビシャなどを紹介したが、このほかの行事・儀礼の調査報告はムラの全民俗行事に関する考察を含め、来年度の課題である。

資料1.「諏訪神社奉謝目録」

諏訪神社奉謝目録

一、清酒参升 
旦那様方
一、清酒弐升 
御婆様方
一、御重物弐重箱 
赤飯壱重箱

平成十四年二月十一日

当番
○○ ○○
○○ ○○
新当番
○○ ○○
○○ ○○


資料2.高津新田の「ハツセ」

「子安様」(1番のみ、「バナラシ」といって子安講以外の場でも必ず詠う)
1.おめでたや これのおざしき ところよろこぶ はばをとる
何ごとも かきとるように 人のもちえの あるように
2.この村の 姉さまがたは どこへござるか おそろいで
身を清め かみを清めて 子安様へと ごさんけを
3.この村の 姉さまがたは やなぎだるを ひきさげて
まずはっは 子安様へと あとはめでたく 御座のしゅうよ

「おさめのさかずき」
1.さかずきを おさめる所へ さんじゃのたくが米(よね)をまく
何とまく 一にはちふく (2回)世の中によかれと 米をまく
2.さかずきを おさめのさかずき どなたからのおんちょうし
高砂と おのえの松と (2回)せんしゅうらくで おさめおく

「おびしゃ」
1.おぶすなへ まえり申して 右りと左を見申して
右りにはせき きょうを植えてござる 左に古木が植えてござる
頂上には 宮をかざりて 氏子 はんじょのがくをかけ
2.この村の おぶすなさまは みごとな松をおもちやな
一枝は水へとたながる 二の枝は 天へとのい育ち 
三枝は 村かたむいて氏子はんじょと 枝をふる
3.これさまの だんなさまは 
おぶすなさま(おあたご様)のおととりて
おまつり申して おわたし申して おめでたや

「ごちそうさま」
1.これさまへまいり申して いろいろごちそうに あずかりて
我々も うちへ帰りて ごちそうのようだい ものがたり
2.これほどの 花のおざしき ふみやちらして いでたち申す
たつあとは 花もさけかぜ しょたいにまさる やえぎくよ

資料3.御詠歌

「高祖弘法大師御詠歌」(番外の大師堂で詠う)
第1番 有難や高野の山の岩陰に 大師はいまだに在しますなる
第2番 高野山結ぶ庵に袖朽ちて 苔の下にぞ 有明の月

「おちやのくどく」
ありがたや おちやのくどくで みをやすめ このよのくどく のちのよのため

(PDF⇒今に伝わる高津新田の民俗行事