八千代市郷土歴史研究会 機関誌 『史談八千代』29〜33号  蕨由美の執筆論文HP「さわらび通信」 
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『史談八千代』29号(2005年11月発行)

高津のムラ境を祀る民俗
              蕨由美

1.はじめに
平成15年秋、高津は三山の七年祭の最中にあった。11月2日三山へ渡御した高津比盗_社の神輿は、翌日高津のムラウチを隈なく巡る。「花流し」の祭礼である。
花流しで神輿の渡御する範囲は、原則的にツジ(辻)と言われる地点、すなわち「ツジキリ」の行われる地点内で、かつて旧高津村の集落はこのツジの範囲にあった。ただし昨今のように氏子の家がその外に転居したなどはこのツジを越すこともあり、またこれらのツジのほか、庚申塔なども神輿の折返しのポイントとなっている。このように高津の「ムラ内」は時代とともに変わりながらも、花流しの神輿の渡御によってしっかりと認識されてきたといえる。(写真1)
もちろんこのムラ内の外には、旧高津村の村域としてとして田畑や山林などの「内野」「内山」が広がっていた。今はその多くが自衛隊演習地や住宅地、団地へと変貌したが、かつてはムラの生産と生活を支える重要な場所でもあった。
これらの旧高津村の村域とムラ内の姿、そしてそのムラ境を祀る民俗を、行事や祭祀、石造物などの調査を通して明らかにしてみたい。

2.高津の「ツジキリ」
外からの邪悪な霊や疫病や災害の侵入を阻止しムラ内の平和な生活を守るため、ムラの境ではさまざまな呪術を行ってきた。高津ではムラの境を守る民俗行事として、毎年1月25日に8ヵ所の地点でツジキリ(辻切り)が行われている。筆者は毎月晦日に高津比盗_社のオコモリ(お籠り)に集う念仏講のご婦人方からその場所や方法などをお聞きし、2004年1月25日とその後日に調査した。(図1・表1参照)
八千代市内では、高津のほか、小池・島田台・島田・桑納・下高野・上高野・下市場・勝田などでも行われているが、その形態は、注連縄に柊・ヤツデ・大蒜・抹香などをつるす勧請縄のタイプと、蛇をかたどったタイプ、経文を書いた板や塞神のお札を竹などに挟んでたてるタイプなどさまざまである。そのうち、勧請縄(注連縄)の形態は自動車が普及するまでは、「辻を切る」ように道を横断して設置されていたが、現在は片方の道端に丸めて置いたり、立ち木や電信柱などに輪にした縄と呪物をくくりつけたりしてある。
高津の「ムラ内」は、「中村」「南」「西」「新田」の4つのニワ(庭)に分かれて、地域活動の分担や祭祀の当番を行っている。ツジキリもこのニワごとに行われていて、今この行事を継承しているのはツジキリの場所に近い旧家のご婦人方である。
中村・南・西の各2ヶ所ずつでは、環状の勧請縄タイプのツジキリを行っているが、藁に挟む呪物の中には、ヤツデ・柊・大蒜・トウガラシなどは鬼(悪霊)が嫌うもののほか、「蛇の目」といって墨で二重円を書いた半紙に線香などを包んだもののように、元は敵を威嚇する蛇形のツジキリではなかったかと想像させるものも入っている。この6ヶ所のツジキリを担当する婦人たちは、藁などの材料の入手を助け合ったりして、昔ながらのツジキリの伝統を守っていこうと努力されていた。(写真2)
一方、新田のニワの北田では、先代からの方法で「咳神様」を祀る家の垣根の下のほうにお札・ヤツデ・お米・胡椒の粒を小さなポリ袋に入れて結びとめているだけである。(@)さらの永森では高津比盗_社のお札をその家の垣根の支柱に貼るのみであった。(A)このように新田のニワでは、お札の呪力により厄を払うという簡略化されたツジキリとなっている。
これらのツジキリの地点は、家々の並びが途切れて道が田畑に差し掛かる地点か、ニワ単位でその居住地を通る道の出入り口であった。そしてツジキリの外側には、ソウマント(馬捨て場)、ラントウバ(両墓制の埋墓)があり、外敵ではなくても浄化されない霊は、その外に留め置かれている。(南のニワの北端のラントウバの場合は、観音堂が、鎮霊の役わりを負っているのであろう。)
なお高津のツジキリが行われる毎年1月25日は、立春を新年とした暦で前年の邪気を全て祓うための追儺の行事の盛んな時期で、また他の地域も高津と同様におおむね1月下旬に行われている。

3.馬頭観音塔と庚申塔
各ニワの出入り口を守るツジキリの外には、高津の各イエが耕作する田畑や持ち山、入会地の山林が広がっていて、その中を主要な街道に通じる道が通っている。それらの道の分岐点や隣村との境には石塔などが多く祀られているが、特に検見川道や三山へ行く道の分岐点や道沿いには、江戸時代の初期からりっぱな庚申塔や馬頭観音塔が建立され、今も旧家の方々によって香華も手向けられ大切に手入れされている。
中には外部の通行者の道案内を兼ねた道標銘の刻まれたものある。検見川道の南端(ツジキリBの向かい側)にある馬頭観音群aは、新道開通によりまわりの環境が大きく変化しているが、今も「右けみ川 左柏井道」の道標の刻まれた明治23年銘を含む6基もの馬頭観音塔(石造物供養塔No.68〜73)が、その左手に残った検見川道の旧道の面影とともに、道行く人を見守っている。
一方、検見川道北端の消防本部左脇「庚申様」bには、明和8年(1933)建立の庚申塔(No.100)と延宝2年(1674)の「下総国葛飾郡二宮庄高津村」銘の庚申塔(No.99)がある。ここは集落から北東の方角、すなわち鬼が出入りする方角として忌み嫌われた鬼門の方向に当たり、特に厳重な祭祀が必要なのか、今も新田のニワのサカシタ家が鳥居を立てて守っている。現在は高津ではなく大和田新田の地番となっていて、七年祭花流しの神輿も「辻を切ってはいけない」と必ず折り返す地点で、隣村との境を意識させる地点のひとつでもある。(写真3)
また、「南」のニワ南端のツジキリCのある場所cにも、「牛魂供養碑」と刻まれた石塔(No.65)と2基の馬頭観音塔(No.64.66)があり、この道は西へたどるとかつては三山へと通じていた。(写真4)
さらにここから、自衛隊習志野演習場のフェンス沿いに進むと、右側の畑の中に庚申塚dがあり、そこには庚申塔11基(No.87〜97)と「サンヤ様」(二十三夜塔No.98)1基がある。昔は道がこの塚のすぐ下を通っていたが、その間に住宅が建って石塔群が畑の中に取り残されてしまっている。
また、ツジキリDの先を三山に向かっていくと、ソウマントe(葬馬処)の先の十字路fにも「庚申様」と呼ばれている小さな駒型の石碑(No.86)がある。
三山道沿いの石塔群は、自衛隊習志野演習場内にもある。ここは戦前戦後を通じて軍用地に接収され、特に近年は立ち入りが厳重に禁止されているが、八千代市郷土歴史研究会では平成10年6月と平成16年5月に、この自衛隊習志野演習場内の通称「馬頭塚」の石造物を調査した。
馬頭塚gは高さ3mぐらいの円形の塚で、塚の上にある華麗な笠付の享保と寛政年間の庚申塔2基(No.75.76)と手水鉢がある。(ちなみに馬頭観音塔はない。)いずれも江戸時代の石造物として優れた意匠のもので、寛政4年(1792)の青面金剛刻像碑の台座には寄進者銘として旧高津村の主だった家の数十の屋号が、また安政5年奉納の菊紋のある手水鉢(社寺宝賽物No.16)には江野沢、岩井、鈴木姓の10名が金50匹ずつ出して寄進した旨が刻まれてあった。(写真5)
この馬頭塚の位置は、高津比盗_社から三山七年祭の神輿がまっすぐ三山へ向かう道が、ツジキリDの中村のニワからの道と合わさって、さらにツジキリCからの道が合流する重要なポイントであり、またムラの裏鬼門(南西)にもあたる。高津へのムラの入り口を守る道祖神として、この馬頭塚の2基の庚申塔はまさに民俗学的にも貴重な史跡であり、文化財としての保存と公開が望まれる。
以上のように、高津のムラを通る主要な古道の出入り口や分岐点には、17世紀半ばより庚申塔や馬頭観音塔が建てられ、特に江戸中期以降は主尊を青面金剛とし、下に三匹の猿と邪鬼、左右に2羽の鶏などを配し、大勢の村人が名をつらねた石塔が庚申信仰によって造立されている。
一方、馬頭観音は馬の頭を持つ姿で疾駆して魔物を打ち破り、衆生を救済すると信仰される観音菩薩であるが、江戸時代には生活に密着していた馬の守護仏として各地に建てられようになった。特に明治以降は馬による運送の発達とともに、交通の守り本尊としての造立が増えていくが、埋墓nの傍に6基、西霊園pの角にもソウマント近辺から集められた13基もの馬頭観音があり、愛馬を家族同様に惜しみ供養する高津の人々の心をうかがうことができる。

4.高津の「咳神様」
2004年の1月25日、新田のニワの北田にあるツジキリを探して旧家をたずねると「咳神様のところ」と教えられ、行ってみると成田街道に向う細い坂道の大和田新田との境手前に、家の塀にくいこむような1坪ぐらいのスペースがあり、そこに石塔(No.45)が1基祀られてあった。それが「咳神様」hで湯飲みが供えられていたが、石塔に刻まれた銘文は判読しにくく、後日調査をする予定で、その時はツジキリとともに写真撮影だけを行った。(写真6)
その後、「近日中に撤去移転されそうだ」という情報を2月晦日のオコモリで聞いて危惧していたところ、3月14日の本会の例会で訪ねた時にはもうそのスペースがつぶされて、「咳神様」といわれた石塔はなくなっていた。幸いその地所を所有する家人から観音堂の石段の脇に移転したと聞くことができ、調べたところ銘文は「地蔵堂跡」の刻字が確認され、また裏返してみると地蔵像胴体部分であることが判明した。(写真7)
この咳神様の伝承について、ここのツジキリを担当しているヘイシロウ家のツギさん(大正5年生れ)にお聞きすると「逃げるときに咳をしてつかまったお姫様の供養の墓で、お茶を供えると咳が止まる」とのことであり、またオコモリの婦人方にお聞きすると「チョウベの家に働きに来ていた許されぬ仲の男女が、一緒に逃げようとして咳をして捕まり殺された」という伝承も語られ、チョウベ家のチヨさん(大正11年生れ)の家でもそのように伝えられているとのことであった。そして咳神様として隣にさらにもう一基石塔があり、それは観音寺の墓地に移転したが、最近、墓地が整理されて無縁墓石群の中に入れられてしまったため、どの石塔かはもう特定できないとのことあった。
石塔石仏を咳神として祭る信仰は、北総に多く見られ、船橋市の事例(註1)を綿貫啓一氏が、また印西町の咳神信仰(註2)については榎本正三氏が紹介している。筆者も会員の協力で八千代市内と佐倉市ほか近隣の事例を調べたところ、表2のような数多くの咳神の信仰例が採取できた。
これらに共通するのは、そのほとんどの場所がムラのはずれや境の場所で、そこで咳をして逃げそこなった人や行き倒れた旅人の霊を供養すると咳止めの利益があると伝承されていることである。
今回の調査で存在が確かめられた高津の咳神もムラの境に立地しており、また逃げそこなった人の供養のためという伝承は、北総一帯のさまざまな咳神信仰と共通するものであった。またこの高津の咳神の石碑は、地蔵像の下半分を転用し裏側に「地蔵堂跡」との刻字した記念碑の形態をとっていることから、元あった地点にはかつて小堂に入った地蔵像が奉られ、大和田新田との境で行き交う人々を見守っていたと想像される。

また咳神ではないが病を防ぐ神様として、自衛隊演習場の中の高津川西岸に大六天の祠iがある。ここは南のニワの南端で、シチゼム家の三代位前の当主が疫病退散のため勧請し)たという。今も4月13日の縁日には念仏講の婦人方により「唱え」が唱和される。(写真8)
大六天は第六天とも書き、仏説では欲界の最上に位置する天魔で他人の楽しみを自在に自分の楽しみに変える力を持つたたりの多い神とされているが、関東では千葉県香取郡山田町山倉大神の「山倉の大六天」が広く知られ、病魔退散を祈願する信仰が盛んだった背景がある。

5.ムラ内の範囲の変遷
ムラ内が時代とともに発展していく過程で、ムラの境も拡大する。今は旧村の真ん中にある石祠の場所も、かつては家並みの途切れた境であったらしい。
現在、高津団地行きバスの通る道にある「北向道祖神」j(No.85)は、「ドウロクジン」と称して足の病に効くご利益があり、小さな祠ながらムラ全体で大切に守られている。この場所も、西のニワと中村のニワの境で、かつては大日さま(No.81.82)を祀る梵天塚kを経て馬頭塚へ直進する三山への道の入口であった。
また、この道祖神の向かいの道を北へ行くと、新しい住宅の角lに「妙正大明神」と「子安大明神」の名号が刻まれた文化年間の石祠が2基(No.77.78)祀られている。現在、観音寺は曹洞宗、廃寺となった正福寺mは真言宗であるが、この石祠の名号は日蓮宗系のもので、「妙正大明神」とは疱瘡神のことである。中田悌之助氏は先崎鷲神社の疱瘡神の事例から、「疱瘡信仰の立地」を「村境を侵入する悪霊悪疫から守る辻の霊域に臨んで鎮座している所」(註3)と記しているが、ここもかつては境谷を渡って成田街道へ通ずる細い小道の入口であった。今は「子安様」として、サブロー家からキュウベ家のおばあさまが引き継ぎ、新年の注連縄などをして守っている。
高津には、ゴルフ練習場の右手奥に、中世に築かれた高津館址の土塁や堀が残っている。
ムラのたたずまいを見ると、この土塁手前の部田沿いと土塁奥の郭にあたる部分には中世から屋敷が並んでいたように思われる。すなわち、ツジキリC〜観音堂n(埋墓)〜「妙正大明神」石祠〜妙見社o〜道祖神に囲まれた範囲(図のA)が、ムラ内の中でも最も古くからムラの生活が営まれた核となる集落ではないだろうか。
ここからシンタク(新宅)が、西や新田、石橋の東側へと広がって近世の終わりには現在のツジキリに囲まれた集落(図のB)、すなわち明治前期の迅速測図が示すような集落を形成していったと考えられる。(図3参照)

6.ムラ境の祭祀と構造
ムラはツジキリや道祖神などの幾重ものバリアで守られ、ムラ内の安寧を祈願してきた。ムラ境の外は魑魅魍魎が跋扈する異界であり、疫病も災難も道を通じてムラの外からやってくると信じられていたからで、特に鬼門(東北)や裏鬼門(南西)は厳重な守りが必要であった。
これら民俗信仰として祀られるムラの境界は、水田などの所有権や行政上の町村の境とは必ずしも一致しない。高津の事例では、生活道路を機軸に家並の端、そこから少し外へ行った畑の中の道の分岐点、さらの外側の山林の奥の分かれ道や坂、そして(あまりはっきりとしていないが)隣村との境など、図2のような3〜4重の同心円状の境界線があり、それは産土神社の氏子居住地を中心とする伝統的な「ムラ内」意識と日常的な交通路や陰陽道の方位説などに支配される祭祀のラインでもある。
また高津の場合、両墓制による埋葬地(ラントウバ)pや馬捨て場(ソウマント)が居住地の外にあること、また高津比盗_社から聖地の三山(御山)への道はそれらを避けているなど不浄と聖の区別がはっきりしている。一方、近世に成立した高津新田では、各屋敷内か屋敷に隣接してイエごとの墓地が営まれており、墓制もムラの成立した時代の反映とすれば、高津は中世的な意識と習俗を維持してきたといえるであろう。
現代は境界や異界という概念が薄れ、交通の障害となる路傍の祭祀物は片付けられ、ツジキリを存続している旧村も少なくなった。高津も八千代台団地・高津団地や都市計画道路の建設などでよりいっそう都市化が進んでいて、今回の調査が遅れれば「咳神様」なども不明になる直前であった。
最後に今回、本会会員と調査にご協力いただいた高津の方々により、これらの2004年現在の路傍祭祀の貴重な記録ができたことを感謝します。

参考資料:註1「船橋市域の風邪・咳の神様」『房総石造文化財研究会会報』第11号(1982)註2「印西町の咳神信仰」『印西町の歴史』第11号(1995)
註3「先崎鷲神社と大江山伝説」『佐倉市史研究第16号』平成15年
『よなもと今昔』12号(1996)13号(1998) 阿蘇郷土研究サークル
『明治前期測量 2万分1 フランス式彩色地図 復刻版』(財)日本地図センター

(PDF⇒高津のムラ境を祀る民俗


『史談八千代』29号(2005年11月発行)

平成15年「御山の七年祭り」準備記録
 2.高津比盗_社の七年祭
                蕨 由美

高津比盗_社は旧高津村の産土神社で、105軒の氏子組織で構成される特別委員会が大祭委員会(役員実数48名うち4名は若衆の立世話人)を召集し、この大祭委員会が七年祭の執行を担った。
T 大祭準備
1. 七年祭関係神社合同打ち合わせ 於二宮神社社務所 
・ 第1回 平成15年6月1日(日) 高津より江野澤隆之特別委員会委員長ほか2名出席 祭典日程・連絡窓口の確認、意見交換。
・ 第2回(6/29)は高津の宮司とともに二宮神社正式参拝。
・ 以下、第3回〜第4回は、P□「大和田の時平神社」とほぼ同じ。
2. 高津の大祭委員会
・ 第1回 6月22日(日) 於自治会館祭典委員長1名・副委員長2名・会計3名を選出、氏子負担金(1戸3万円)、謝礼金、自治会(主に新住民)への参加依頼、舁夫・衣装・屋台・太鼓(若撥会)などの対応などを協議
〜この間、委員会文書作成(6/23)、執行部の会合2回(神輿検分)〜
・ 第2回 7月20日(日) 予算案の可決、バス・トラック輸送、紋章(丸に高のマークを委員全員が付ける)、役割分担、受付場所・各休憩所のお願い、往来切り日程(10/12)、立世話人からの提案(貸付衣装の新調、屋台の車輪の新調など)、委員会監事選出
〜この間、執行部の会合6回、長副会合5回〜
・ 第3回 9月7日(日) 氏子各戸の役割分担(休憩所ほか)照明工事発注、屋台子どもへの対応、交通係りのユニホーム、ガードマンについて協議
〜この間、執行部の会合6回、長副会計会合3回、各係長会議1回 警察との協議3回〜
・ 第4回 10月19日(日)街路の注連縄張り日程(10/25各ニワ毎)、立世話人による祭礼日程の確認、招待状送付の件、物収袋(各戸1000円以上)配布
〜この間、執行部の会合4回、警察との協議3回〜
・ 解散式 11月28日(金)
3. 神輿と屋台(山車)の点検修理
・ 7月1日(火)浅草宮本神輿店立会いで御神輿検分、今回は修理不要と判断
・ 7月22日(火)屋台車輪調べ。8月7日神輿店立会いで屋台車輪の検分の結果、日本の松材で新調の必要ありとことで、急遽予算を検討。8月11日税込み220万円で発注した。
・ 10月5日 若衆による屋台の瓔珞(ようらく)磨き
・ 10月16日 執行部による神輿磨き(写真1)
・ 10月31日〜11月1日 若衆による屋台の組立てと飾りつけ(写真2)
・ 11月1日 神輿飾りつけと御魂入れ
4. 大祭の経費
・ 氏子負担金1戸当たり3万円、奉納花代総額500万円、特別会計より597万円、総計1450万円の予算で執行。
5. 警察との打ち合わせ
・ 第1回 6月16日(月) 大和田・萱田町と合同。警察からの要望は「全面通行止めはよくない、自主警備の強化(地元の人数増とガードマンの要請)、警備の人は禁酒」
・ 第2回 9月9日(火) 大和田・萱田町と合同。高津は警察官の配備はなく、自主警備を。手示棒を用意。
・ 9月18日(木) 神輿渡御順路の現地確認、一方通行遵守で南のニワの順路が変更。
・ 第3回 10月14日(水) 神輿屋台の渡御順路、提出資料の確認。主要交差点には、警察官が3人、自主警備は6人出すように。
・ 10月21日と22日 警察官派遣要請書提出の手続き、道路使用許可証。
・ 10月23日 神輿渡御順路の現地検分、注意事項の確認。
6. 祭りの役職と役割分担
・ 委員会役職:宮司、大祭委員長、大祭副委員長2名、大祭会計3名、大祭監事2名、立世話人4名、その他大祭役員 計48名
・ 委員会役割:神輿係、金幣、飲食係、囃子接待係、交通整理係、警備係、運転係。2日はバス係、警備係。3日は子供世話係、受付。
・ 若衆役割分担:大世話人4名、立世話人(前回金棒)4名、金棒4名(*各ニワ1名)、高張4名*、拍子木(前立世話人)2名、神輿係(前立世話人)2名、屋台係4名*、交通係4名(ならし中心)、棒頭16名(各ニワ4名)、子供世話係(ならし中心)、スタッフ(高津消防団第5分団)
7. 大祭直前の準備
・ 10月11日 案内状宛名はインターネットで調べ、送付。紙垂作り2430枚。
・ 10月12日 往来切り(全員参加)、大祭のため迷惑お知らせ看板設置
・ 10月25日 街路の注連縄張り(写真3)
・ 10月30日 神社への国旗、神社入り口への大祭看板設置、若衆による屋台の組み立て
・ 11月1日 神社、神輿の飾りつけ、屋台飾りつけ(若衆)

U 祭礼日程
・ 11月1日(土)前日
午後3時から勢揃い式(委員長挨拶・お神酒・若衆役付け紹介・神輿担ぎのリハーサル)、午後5時から御魂移しの儀
・ 11月2日(日)三山大祭当日 
午前7時から発與式(神事・委員長挨拶・神輿引渡し・立世話人挨拶・乾杯)、8時出発、県道近くで車載、10時三山のジョウグチ宅で休憩後、チュウベイ宅まで渡御、昼食。
12時40分神揃場到着、献幣の儀、午後3時二宮神社昇殿式典、4時チュウベイ宅帰着、夕食。6時還御へ向け出発、途中磯出式に向かう一行を見送り、7時駐車場で三山の氏子に見送られ車載、8時半に還御。
・ 11月3日(祝)花流し(ムラウチ巡幸) 
午前7時半から発與式(収祓の儀・祝詞奏上・拝礼・委員長挨拶・乾杯)、8時神輿の渡御開始、9ヶ所のヤドで休憩しながら全日氏子の家をまわる。
10時子供の待つデンニム家で屋台と合流、12時弁天様先の空き地で昼食(雨が本降りとなる)。午後2時、神輿と屋台の同時巡幸、シチロウザエモン家前で屋台休憩、八千代若撥会による太鼓ショー、3時子供解散。
3時半神輿渡御再開、途中夕食休憩。予定より早く7時40分還御、境内で神輿揉み。
8時半手締め、遷與式(祝詞、御魂移し、委員長挨拶、神輿引渡し)解散。

V 祭礼を継続させるしくみについて気づいたこと
1. 消防団のメンバーが若衆の中心となり、各ニワから選ばれた4人の金棒が次期の世話人を務め、さらにナラシとしてサポートして若衆組織を育て、ダンナ衆の一員になってからは自らもリーダーを担っていくという世代交代のしくみが有効に働いている(写真4)
2. 若衆とダンナ衆の分担は明確で、神輿引継ぎ式まで、若衆は神輿に触れることはできない。屋台の準備は全て若衆。ダンナ衆は若衆の組織には自主性を認めて介入しない。
3. かつては由緒ある大家が伝統的に世話人を務め、ヤド(休憩所)やカカリ(経費)を負担してきたが、現在は政教分離の原則から105軒の氏子で特別委員会を組織し、委員会として飲食の手当てや休憩所の設置を行い、また分担金や当番も公平にするなど民主的な運営を目指している。旧家のご婦人方は「昔はヤドの世話で神輿も見に行く暇もなく寝ずに働いた」と言っていたが、近年は各戸の負担を少なくし、三山へはシャトルバスも運行して家族で楽しめるように心配りをしている。
4. 元農家の資産家の家が多いと思っていたが、自営のほか学校の先生や会社や役所で活躍している人が多く、ダンナ衆は休暇をとったり、若衆は週末を祭礼準備に当てたりして大勢で楽しく運営している。神輿の舁夫は、縁故や新しい住民を含む自治会へも呼びかけて確保に努めている。
5. 神輿はツジキリの範囲内の渡御となっていたが、氏子がその外に転居すると、渡御コースも拡大することになる。一方通行などの規制もあり、毎回コースの設定に苦労しているが、昨今は警察の注意をよく守るようにし、理解が得られるよう努力している。

〈 最後に 〉 平成9年の大祭では2日間、祭りの見せ場である神輿と山車の巡幸の写真撮影であったが、今回は祭礼の準備過程を調査しようということになり、半年前の5月から高津の皆様のお世話になりました。氏子のダンナ衆、若衆、旧家のご婦人方にお話をお聞きしながら、祭りだけでなくムラに伝わるしきたりやしくみを一から学び、またその過程のルポと画像をリアルタイムで筆者のホームページに掲載し、ともに祭りの興奮を共有化できたことは個人的にも貴重な経験となりました。
 資料を提供くださった岩井健三様、また取材をお許しくださった高津の皆様に感謝します。なお、いただいた全ての資料とホームページ画文集は、酒井会員の手で製本していただき八千代市立郷土博物館図書室に寄贈したことを申しそえます。

(PDF⇒2.高津比盗_社の七年祭


『史談八千代』30号(2006年11月発行)

高津の女人信仰の民俗‐子安講・秩父参り・念仏講・観音堂のすがた‐
                  蕨 由美

1.はじめに−姫神の霊宿る高津から
旧村高津は、姫神の霊の宿る里である。
はるか古代、都からこの地に下った藤原時平の息女高津姫の流離譚にいろどられた伝説が寺院やお堂、産土の社に息づき、神仏への信仰を通しての旧村のコミュニティの活動が今なお盛んな地域である。
高津姫の守り本尊を祭るという観音堂、高津山観音寺、産土の高津比盗_社を中心にムラにはさまざま講やツジキリなどの民俗行事が継承されているが、特に2004年、高津比盗_社が参加する「下総三山の七年祭り」は千葉県指定文化財に、「高津のハツカビシャ」は八千代市指定文化財にもなった。
三山の七年祭りは、馬加城城主康胤の安産祈願の故事にならって近隣9神社の神輿が三山に集い、七年に一回、高津もその心意気が燃える祭りである。
これらのムラの行事を支えるのは、4つの「ニワ」に分けられた地域ごとの当番と、男女別、年齢階層別の祭礼の氏子組織や講である。
七年祭実行委員会に結集するダンナ衆の結束力は日ごろから強く、その跡取りである青年層は八千代市消防団第5分団メンバーとして通常から活動し、祭りに際してはダンナ衆とは自立した「若衆組」となる。
一方女性たちにおいては、若い主婦・母親世代では「子安講」に、また高年齢の元気なおばあさん方では「念仏講」に集い、これらの講は今なお伝統的なムラづきあいと懇親を深める場となっている。
そのほか、秩父坂東・奥州・富士・御岳・吉橋大師・相馬大師などの巡拝を目的とするさまざまな講がこの旧村にはあるのだが、今回のレポートは高津の「子安講」の取材と念仏講のおばあさま方からの聞き取りと、観音堂のたたずまい、絵馬、奉納記念写真などから高津の女人信仰とその変遷を探っていきたいと思う。

2.子供の健やかな成長を祈って
2003年12月、小春日和の静かな高津比盗_社の境内を、その年の七年祭で山車の組み立て場所と休憩所となったデンニム家のご家族が新生児の初宮参りにみえていた。七年祭で若衆として活躍し、この度父親となったばかりの息子さんと、被布をまとって初孫を抱いたデンニム家の奥様を先頭に、赤子の母親であるお嫁さんとその親一同そろって神社本殿を拝礼(写真1)し、そのあと、息子さんが、袋からお米を一掴み奉納する。続いて、境内の御岳社など末社9社全てに拝礼し、お米の奉納をして廻る。三峰神社石碑だけは、女人禁制で男性だけのお参りで、ほかの7社は全員での拝礼であった。1-01
この時は神主さんも常駐ではなく、身内だけの簡素なお参りであったが、高津比盗_社は、姫神(多岐津姫)が祭神であり、高津の産土であることから、氏子にとってまずは初宮参りを始め、子供の健やかな成長を祈願することは当たり前のことでもあり、産土への信仰と慣しが生活の一部となっている光景であった。
かつて、女性にとっては出産と子育てはたいへんな苦労を伴うものであり、特に乳幼児の死亡率は高く、「七歳までは神のうち」として初宮参りから始まって、高津ではミツメの祝や初節句の行われる家へ念仏講の婦人たちが「ハナミ」の祝歌を唱和しに出むき、各イエだけでなく、ムラのコミュニティ中でも子の成長を祈願してきた。
高津比盗_社の灯篭に何気なく刻まれた地紋は、麻の葉のデザイン。(写真2)麻のようにたくましく育ってほしいと願って、産着に使われる模様である。こんなところにも子供の成長に寄せる村人の心がほのかに表れている。1-02

3.現在の高津の子安講
高津の旧家の結婚した女性たちは現在も、観音寺本堂に毎月19日に集まって「子安講」を開く。月待講である十九夜講に由来する19日の開催日は、他地区のように週末に移動させることなく、今も伝統を受け継がれている。
2005年2月19日に開かれた子安講に私も参加させていただいたが、当日は28人の講のメンバーのうち18名が参加し、子供連れの参加もあってなごやかな雰囲気の中で講が開かれていた。1-03
あいにくの氷雨の降る日であったが、正午ごろ、集まった参加者は最初に昭和59年に境内に建立された「水子地蔵」に参拝(写真3)してから、本堂右陣の昼食の席につく。その日は午前中から4名の当番が3升の米に鶏肉をしょうゆ味で炊きこんだ鳥飯をつくる。これは昔からのメニューで、そのほか昨今は、漬物、具がたくさんの味噌汁、コロッケ、付け合せの生野菜とだいたい決まっている。子安講名物の鳥飯は、食べきれないので、残った分はお土産となる。
会費は月500円、それに、枡にいっぱいのお米をあらかじめ集めておく。2個ある年季の入った3合強ほど入る枡(写真4)は、「昭和三十二年三月十七日 子安講」の墨書があり、今も大切にされている。1-04
食事が終わると、世話人さんが事務連絡をしていた。この日は、翌月の春休みに坂東33観音霊場巡礼の手続きや、納経帳の整理に世話人さんは余念がない。団体でスムーズの納経を済ませ、効率よく廻るためには、あらかじめ各自の綴り式になっている納経帳を集め、集印用紙を各札所に送っておくのだ。
数年〜十年ぐらいの間隔で行われる秩父巡礼は、女性が一生に1回行くことになっていて、子安講を卒業し中年を過ぎて余裕もできたころから、「秩父参り」に参加することが多かったが、現在は、子安講から秩父や坂東観音霊場巡礼に参加することは珍しくない。
ヨメを迎えて子安講を卒業すると、しばらくして念仏講に誘われる時代もあったが、現在は念仏講に入る人はほとんどなく、子育てが終わってもそのままとどまることもあり、また最近は中年講に入る人もいる。中年講は、高津比盗_社の前の自治会館で毎月最終日曜日に集まっているが、「拝む」ことなど民俗宗教的なことはない。
高津の子安講では、現在は33年に1回、子安講の供養塔を建てることと決めているとのこと。毎月集金する500円の講費から「イシダテ」の費用を積み立てている。前回は、1982年(昭和57)だったので、次回は2014年となる。
さて子安講のほうは、食後のおしゃべりが一段落すると、「そろそろ拝みましょうか」といって、一同本堂内陣に移動し、本尊の十一面観音の前に正座して、「子安講のハナミ」を美しいコーラスでゆっくりと唱和する。(写真5)「拝んだ」あとは、また卓を囲み、ケーキなどお茶菓子をいただきながら、懇親を深めるというのが、現在の子安講に姿であった。1-05

一、めでたやな これのおざしき ところよろこぶ はばをとる
  なにごともかきとるように ひとのもちいのあるように 
ひとのもちいのあるように
二、このむらのあねさまがたは どこへまいるか おそろいで
  みをきよめ かみを清めて 子安様へと ごさんけいに
  子安様へと ごさんけいに
三、このむらのあねさまがたは やなぎだるをひきさげて 
まずをはつを 子安様へ あとはおざえとひろめする
あとはおざえとひろめする

4.秩父・坂東観音霊場巡礼今昔
高津の女性たちは、一生に1回、秩父34ヶ所観音霊場巡礼に参加した。数年から十年ぐらいのサイクルで団体巡礼が企画され、その際の機会をなるべく逃さないよう心がける。同行の仲間は「組」とよばれ、一生のおつきあいとなることも多い。
高津の女性たちは、一生に1回、秩父34ヶ所観音霊場巡礼に参加した。数年から十年ぐらいのサイクルで団体巡礼が企画され、その際の機会をなるべく逃さないよう心がける。同行の仲間は「組」とよばれ、一生のおつきあいとなることも多い。
秩父巡礼は2泊3日の行程を貸し切りバスで、坂東33ヶ所観音霊場は1泊2日で廻るが、坂東は範囲が広いので3年で一巡する。2005年は坂東の2年目で春休み中の3月25〜26日に廻る準備をしていた。今回は18名参加の申し込みがあり、一人38000円ほどの費用を負担する。
女性なら年齢にかかわらず誰でも参加できるが、かつては旅費もかかるので、小遣いを貯めたり、息子にヨメをむかえてシュウトになってから行かせてもらったとも。また息子が兵隊に行くイエの人は、無事帰ってくるよう、必ず参加したとのこと。女性なら年齢にかかわらず誰でも参加できるが、かつては旅費もかかるので、小遣いを貯めたり、息子にヨメをむかえてシュウトになってから行かせてもらったとも。また息子が兵隊に行くイエの人は、無事帰ってくるよう、必ず参加したとのこと。
昔は、和服にそろいの道行きコートを着て手ぬぐいをかけ、ついでに三峰や佐渡へ足を延ばしたこともあったらしい。「ハダシタビ」(地下足袋)や「わらぞうり」を履いていったこともあったとか。イヘイさんのおばあさんのお話では、途中でわらぞうりの後が切れて道の石を跳ねてしまい、その石が着物の長いたもとに入って重かったという笑い話もあった。
またしばらく前までは普段着に袖なしの白衣をはおったりしていたが、現在では歩きやすい普段着の上に紺や赤、緑の輪袈裟をかけるだけの姿で、また観音経と般若心経の経本を持参する。先達は昔から男性で、鈴木信司氏が、ここ毎回勤めてくださっている。
同じく男性が一生に一回の出羽三山を巡る「奥州参り」の後は、記念の供養塔を建てる慣しがあるが、女性の秩父・坂東巡礼では建てたことはない。
そのかわり、観音堂の中には向かって左の壁の上に、昭和四年(1929)五月十五日銘のりっぱな秩父参拝絵馬が奉納されている。嶋田髷を結って紋付の正装をした女性20人とザンギリ頭の先達2人が祈る姿が描かれて、左下に先達2人女性20名同行者の名前が記載されている。(写真6)1-06
現在は、秩父・坂東巡礼の記念写真を額に入れて観音堂の右壁の鴨居に上に飾っている。
一番古いのは、年号が入っていないが、昭和25年の女性23名の写真で、参加者名は屋号。全員和服にそろいの道行きを着て手ぬぐいを首に掛け、下駄履き姿である。このときは佐倉駅の駅長さんが事前からいろいろ世話をしてくださり、佐倉駅から巡礼専用列車で秩父に向かったと参加したイヘイさんのおばあさんがお話してくれた。
次は、昭和38年4月20日16名、続いて昭和43年4月15日25名の写真で全員和服。昭和49年3月29日27名の写真は、雪の残る秩父13番慈眼寺での撮影、このころから洋装となっている。以上、いずれも先達は1名である。
それ以降はしばらく間をおいて、平成13年3月25日21名(内男性1名)、秩父札所24番法泉寺でのカラー写真となる。その十年ぐらい前(平成の初めごろ?)と見られる36名のカラー写真は、高津に帰ってから、袖なしの白衣を着けて観音堂の前で撮った写真。また昨年平成14年3月10日25名参加の坂東三十三観音巡りの写真も帰ってから観音堂での撮影である。
4月と8月の観音のオコモリに集まった念仏講のおばあさんがたは、写真を見ながら他界した同じ組の仲間のことも懐かしく思いだしつつ、秩父の話に花を咲かせる。秩父巡礼は、女性の人生経験の中で大きなイベントであったようである。

5.「畑の子安様」、富士講、「市川の地蔵樣」への安産子育て祈願
〈畑の子安様〉
女性だけの参拝先としては、秩父・坂東のほか、近隣では5月7日にお参りする「畑の子安様」がある。
畑の子安神社は、「子安神社御由緒」によると、「延暦年間子安古墳のお山を御神体として五穀豊穣の神として創立され、延喜年間奇稲田姫命を勧請し子安大明神として祀る」という。また建久3年に千葉常胤の息女が懐妊し、産月に至っても臨産の気配がなかったため、子安大明神に安産祈願を行ったところ、産気づき安産されたと伝説があり、馬加康胤所縁の三山の七年祭で妻の役割で参加している。
下総では、子育ての稲毛浅間神社とともに、安産祈願の子安様として、遠方からの参拝が多く、5月7日の安産子育講社祭は、各地からの子安講の参拝でにぎわう。子安神社が安産祈願して下賜する岩田帯も妊婦が5ヶ月目の戌の日に着ける帯として有名で、皇室への献上も栄誉として神社に伝わっている。
また神社境内には、子安観音と子安地蔵の石像も小さなお堂の中に安置されていて、お参りにくる人も多い。(写真7)1-07

〈富士講と浅間様〉
「富士講」もまた子安信仰と密接な講である。富士山の祭神、木花佐久耶毘売命は山の神、大山祇神の娘で、ニニギノミコトに姉の石長姫とともに嫁した女神である。木花佐久耶毘売命は一日にして子を孕み、 その身の潔白を証明するために産室に火を放って子を産んだことから、火の神や安産の神、子育ての神などとして信仰を集めている。
富士登山には体力が必要なので30〜40歳ぐらいが多いが、高津でも、現在も老若男女誰でも体力があれば参加でき、お父さんの代わりに中学生が参加することもあった。八合目と熱海で2泊の3日の行程で、山ではよそ見をすると「山酔い」するといわれ、ひたすら登ったとか。
昔、講の先達をしていたシチゼムさんの家には、中に掛け軸が入っている「富士講のオハコ」を持っていて、富士登山の際は、誰かが借りてきて掛け軸に判をもらってきたという。
念仏講のおばあさん方のお話では、正月3日に講の人が集まり、「オハコ」を開けて拝む。赤い傘もあった。箱を縛ってある紐はお産の時の腹帯にし、安産すると新しい紐を返す慣わしがあったというが、現在のご当主は覚えがないというから、ずいぶん昔のことだったらしい。
稲毛の浅間神社には、イエの惣領の初子が7歳ぐらいになると、家族で7月の15日の縁日にお参りに行った。お祝いをいただいた親戚縁者に、お札と桃と団扇を土産に買って帰り配ったというのは、高津新田など近隣の地域と同じである。

〈市川の地蔵さま〉
また「市川の地蔵樣」も、安産子安のご利益があり、世話人のキンニムさんが代参していた。「市川の地蔵樣」は、「安産子安の時間の地蔵さま」として、都合のよい時間にお産が無事できることがご利益の明王山根本寺のことで、現在の国府台5 丁目に移転する前は、国府台駅の近くにあった。毎年4 月12 日〜15 日の大祭には、地蔵講の婦人たちが各地から今でも大勢集まる。(「郷土史研通信」平成15年7月号、「史談八千代」28号9-5)

6.観音堂と念仏講にみる信仰世界
高津の女人信仰を語る際、現在もその中核となっているのが、「史談八千代」第29号の成瀬の報告「7.高津比盗_社晦日のおこもり」にある念仏講のおばあさん達である。
現在20数名の講員が、毎月晦日は神社でのおこもりを行っているほか、毎月11日(1月と8月は16日)の月並念仏、新年や彼岸、盆の行事の念仏、また、子の神、弁天、ドウロクジン、大六天などムラの小さな神々の祭りなど、講員が集まって念仏や祝歌であるハナミを唱える回数は四十数回に及ぶ。(詳細は「よなもと今昔」12号)そのほか、11月9日の「九日念仏」は子安様のムラ行事で、9つの団子を供え塔婆を立てて念仏を唱える。
中でも、観音様の縁日の4月18日と8月17日は、この日だけご開帳された観音堂でおこもりする。(写真8)1-08
高津姫伝承の宿る観音堂については、念仏講の女性たちにとって、ひとかたならぬ愛着をよせていて、観音様の由来や姫の墓のことなど、また秩父講の奉納写真などを見ながらともに巡礼した亡き友の思い出を語り合う場でもある。私は、年2回だけこのお堂が開かれるおこもりの雰囲気に魅せられて、数年前から同席させていただき、ゆったりと流れる時間のなかで、旧村の女性たちの人生と祈りを知る貴重な機会を与えていただいた。

〈観音堂の姿〉
観音堂は、船田からの谷と高津川が合流する地点の北側に広がる台地の突端に位置している。今は新田のニワに属するが、中世的な旧村落の景観としては集落のはずれで、観音堂の裏はラントウバとよばれる埋め墓である。高津は両墓制で埋め墓が、新田のこの観音堂裏と、西のニワの現在の西霊園にあった。ちなみに詣り墓であるウチラントウは今の観音寺墓地で、石塔だけが個人、のちに夫婦単位の追善供養のために建てられてきたが、近年墓地整理が進んで各家単位の現代的な納骨墓となり、西の埋め墓も平成8年に整理改葬し同様の家毎の墓となって両墓制を廃した。
観音堂裏の埋め墓は、土葬したときの塚が手入れよくきれいに並び、花や線香が常に手向けられていて、念仏講のおばあさんたちは、おこもりの前や後に、裏の墓に詣でて、かつての親しかった友人の墓に話しかけ、しばし故人を偲んだりする。(写真9)1-09
最近の葬儀では、お寺の新しい墓に納骨されるので、直接この埋め墓に埋葬することはなくなったが、四季の花が咲き乱れる塚に観音堂が重なるその景観は今もなお、身近な人の死が自然と一体となりつつ浄土へと導かれるにふさわしいたたずまいをみせている。
観音堂は間口・奥行き3間の宝形型のお堂で、昭和30年(1955)までは茅葺きであった。(「岩井岩雄氏功績記念碑銘文」)
赤い須弥檀に江戸時代の作の像高47cmの聖観音立像が安置されている。(写真10)建立した年月は不明であるが、厨子の中に納められた修理札によれば、安政5年(1858)に本尊の聖観音像と光背蓮台を修理し、大正4年(1915)に本堂と須弥檀などの塗替えや修理を行っている。(資料1.@A)1-10
内陣の左右の上の壁には、天女の絵が描かれ、正面に鴨居の上龍の絵の額が掛けられてある。
念仏講のおばあさんの話では、もとあった高津姫の守り本尊の観音様は、お堂に住み着いた乞食に盗まれて花島にほっぽられ、そのまま花島の寺のものになってしまい、今の観音様は新しいものだとか。また、お堂右横の最近他所から移されたコクゾウさまの石祠のある塚には、ここで生涯を終えた高津姫が葬られているという。確かめようもない噂話だが、高津姫の伝説をどなたも身近に感じておられるようで、興味深い。

〈観音様のおこもり〉
さて、観音堂のおこもりの日、この日は朝から「新田」のニワの4人の当番がお堂を開けて準備をする。お堂の鍵はお堂の前のサダイムさんのおじいさんが預かっていて、力仕事やお厨子の開帳をしてくださる。一通り準備がすむと、昼食をとり、皆さんが集まるのを待つ。少し前までは、皆でアカメシなどの食事をともにしていたが、講員の超高齢化で負担がたいへんとなり、当番だけの食事となった。昔のおこもりは文字通り夜の行事で、念仏や飲食のほか夏は盆踊りなどもあったという。
正午ごろ、講の一同が境内の大師講札所にお参りしてから、お堂の中に集まり、しばらくして観音の念仏の唱和を始める。(写真11)夏は、観音寺のご住職が来てお経をあげてくださるので、その後となる。観音の念仏は、「我借所造(ガシャクショウゾウ)・・」、「観音の念仏」、「差し上げ」「三界万千・・」を唱える。(資料2.@A)8月は「十三仏・・」がその前に加わる。春も夏も気持ちのよい風が堂内を吹きぬける中、ゆったりとした節回しの念仏の声が流れ、現代の喧騒を忘れさせてくれる時間である。1-11 
念仏が終わると、机を出してきて飲食をしながらの懇談となる。(写真12)献立はだんだん簡素になり、お茶と漬物、菓子などで、お土産は袋いっぱいの果物や袋菓子などが配られる。1〜2時間ほどで、最後は「ごちそうさま」のハナミ唄「今日は大変ごちそうになりました ごちそうのお礼に木を植えて 金の成る木に植えてたつ 咲いたらまたあげましょう いく枝にも」を唱和して散会する。1-12

〈死者への思いと念仏帳の世界〉
念仏講の信仰の基本は、月並念仏である。月並念仏は、「殺生地獄」「畜生地獄」「血の池地獄」など「八万地獄の苦をのがれる」ことがくり返し唱えられ、「一年十二の皆月が成就したるときは、現世は無病で息災で、来世は必ず仏なり」と宣言される。
念仏はとても難しく、昔は練習がたいへんだった。それぞれ、手作りの念仏帳があり、和紙に漢字にひらがな書きまたはカタカナのものや、ノートにすべてカタカナで記したものなどに、節回しなどの注意点をそれぞれ記号で書き入れており、人さまざまである。(写真13)1-13
十九夜講は、近世の中期ごろから子安講となり、安産子育て祈願に集約されるようになるが、延享や正徳期の十九夜塔には、「念仏」「二世安楽」の銘文が入っており、女人講による現世と来世の安穏を期する目的であった。考えるに現在の念仏講こそ、女人講の原点であったといえる。
念仏帳を紐解いても、安産子育てを直接祈願する念仏はない。しかし、「川施餓鬼」「若死にしたる時」「子供死にたる時」の念仏を読む時、女人ならではの死者への思い、悲しみと 諦観とが伝わってくる。(資料2.BCDE)
「川施餓鬼」は、流れ灌頂のことである。念仏講のおばあさんたちの若い頃の話しでは、妊婦はお産で亡くなると、弁天池の脇を流れる川に、四本の竹に赤い布を結んで張り、通る人がそこにある柄杓で水をかけ、布が色あせ形もなくなるまでその方の供養をおこなっていたという。
念仏(2.C)の中の「血の池」とは、女人が生理やお産の血の穢れのため免れ得ない地獄のことで、特にお産での死は、来世も血の池地獄で苦しむと怖れられていた。如意輪観音は、その地獄で女人を救済する菩薩で、それゆえに女人講の信仰対象であった。(写真14)1-14
現在、女人だけが血の池地獄へ堕ちるとは、仏教の側も説いたりはしない。女人救済の利益を説いて「血盆経」を広布し、江戸時代から近代まで北総一帯の女人信仰の民俗に大きな影響力のあった我孫子市都部の正泉寺も、曹洞宗本山の指示で、「血盆経」はかえって女性を精神的に苦しめる偽経として配布をやめている。(研究目的であれば入手は可能)
現在は、中世的な女人成仏へ切実な願いも、また、医療の発達で産死や乳幼児死亡が減って、安産子育ての近世的な願望さえもがうすれつつあるが、医療や福祉の発展でも解決されない心の傷への癒しとして、流産によりこの世に生をうけなかった児への丁寧な供養が「水子地蔵」の建立などに見られるようになった。
女人信仰も時代とともに変わりゆく。高津の念仏講もあえて後継者を求めず、時代の変化にその身をゆだねようとしている昨今であるが、彼女たちの二世安楽の信仰と長寿に支えられ、今しばらくは観音堂とともにおだやかな日々が続いていくことだろう。(写真15)1-15

【資料】 
1.観音堂須弥檀厨子内の修理札
@安政五年観音像等修理札(写真16)1-16
「国土昇平 五穀豊穣 佛日永輝 郷中安全
奉修補聖観世音菩薩 並 舩毫蓮臺壱式
安政五戌午年 十二月吉祥日
世話人村役人一同 
(朱書きで)信心施主家内繁昌子孫長久無災無難
高津山二十世臥雲真龍叟代(花押)
(朱書きで)山門榮昌火盗潜消衆僧無難檀信帰崇」

A(表)「天下泰平 五穀成就 佛日増輝 當村安穏
奉拝請聖観世音空殿須彌檀塗替壱式」
(裏)「信心発起者 江野澤善十郎 同 江野澤宗治
檀家総代 岩井佐助 鈴木弥五郎 江野澤熊治郎 江野澤 明
區長 岩井寅吉 同 江野澤 明
大正四年乙卯四月十八日入佛式 高津山二十三世勗心叟」

2.念仏帳の内容の一部
岩井吉之助氏から贈られた鈴木タケさん所蔵の念仏帳(写真17)を原典として、岩井せんさんの念仏帳と筆者が照合し整理した。すでに『よなもと今昔』12号と『聞き書き 八千代の女たち』『八千代市の歴史資料編民俗』にも念仏帳の一部が紹介されてあり、紙面の都合で重複しない部分の一部だけを資料として紹介する。1-17

@観音様念仏
観音様へ参り来て 蓮華の頭を地に付きて 塔の蓮華を差上げて
浪花の咎を差置いて 救わせたまえよ 氏子だに
白根の木の根片やぶき 花で括して茶で染めて
早る観音金の尾ににつ

A差上げ
扨ても見事な御前かな 香花燈明常立てて あれが極楽浄土なり
我等が申した御念仏を 黄金の小盆へ積み上げて 観音様へと差上げる
お暇申していざ帰りやる 御祝御念仏 御目出度い

B川施餓鬼
十七が御産の紐を解き兼て 川へ下りて川施餓鬼
鬼香(キコウ)花取りて 棚へ上げ水にもまれる子安縄
その時十七浮ぶなり 十七へ御坂の宿を通る時ハ
小袖を肩に掛け 何所で干そうかこの小袖 阿弥陀の前の油光で

C同宿にて(十三仏)
血の池に浮かべし船に乗る人ハ 慈悲の菩薩で光り明か
明かな光で私を越すなれば 越されざるもの 池の船かな

D若死にしたる時
十七が弥陀の仏の手を掛けて 助け給へよ 弥陀樣よ
助けられぬよ十七よ 娑婆に蒔いたる種ハなし
娑婆に蒔いたる種あれば 何しに弥陀樣頼む可き
其こで弥陀樣理につまる
極楽舟に招き寄せ 中へ十七打ち乗せて 極楽浄土へすらすらと
阿弥陀の前の蓮池に 姉子の髪と我が髪と 柄杓を曲げて柄をすえて
酌み干す程に親恋す。
白鷺が姫の小松へ巣をかけて 子を取られて 松を怨みる
白鷺が流す泪が池と為る 姫の小松が浮いて流れる

E子供死にたる時
十七が花の様なる子なくし 余り辛さに寺参り 寺へ参りて花見れば
開いた蓮華散りもせず 蕾し蓮華は散り落ちる
実には我が子もあの如く思いまいぞや 嘆くまい
(白鷺が姫の小松・・)
新がし観音誰が建てた 木の根長者が御建てやる 何の為とて御建てやる
我が子の為とて御建てやる 
登る導者も多けれど 我が子に似たる人はなし 思いまいぞや嘆くまい

【参考文献】(『史談八千代』は省略)
『女人哀歓‐利根川べりの女人信仰‐』1992 榎本正三 崙書房
「高津の信仰‐ムラ行事と念仏講のかかわり‐」1996木原律子『よなもと今昔』12号
『八千代市の歴史 資料編 民俗』1993 八千代市史編さん委員会
「高津の念仏講を守り続けて」2004 大木めぐみ・犬塚和子・岩井由利子『聞き書き 八千代の女たち』八千代市
『八千代市の仏像』1987 八千代市文化財総合調査団

)(PDF⇒高津の女人信仰の民俗‐子安講・秩父参り・念仏講・観音堂のすがた


『史談八千代』30号(2006年11月発行)

  高津と八千代市内の女人信仰に関わる石造物の変遷について
          蕨 由美

1. 高津の十九夜塔
高津山観音寺の本堂の右手、ひときわ高い水子地蔵の右奥の崖のテラス状の場所に藤棚がありその下に、高津の子安講が建立した十九夜塔などの供養塔が14基ずらりと並んでいる。(写真1・表)
「十九夜塔」とは月待塔のひとつで、特定の月齢の晩に当番の家に集まり、飲食・会話をしながら月の出を待つ「十九夜講」が建てた記念の供養碑で、如意輪観音を守り本尊とし、女人救済と子安祈願を目的とした。当研究会の石造物調査では、銘文に「十九夜」の文字が記されている石塔を「十九夜塔」、それ以外の、たとえば「女人講中」などの銘文では「供養塔」と区別しているが、高津で「女人講」とは現在の「子安講」のことであり、今も毎月19日に開かれていることから「十九夜講」と同意である。表・2-01

〈八千代市内最古の「十九夜塔」〉
14基の塔のうち、一番大きくひときわりっぱなのは、真ん中の延宝2年(1674)の十九夜塔である。(写真2)像容は、舟型光背に六臂の如意輪観音像、台座に「十九夜講中」正面に「下総国葛飾郡二宮庄 奉 造立観音石像依□徳現世安穏及 至後生安楽思往生不可有疑者也 高津村施主敬白」、さらに、この像の丸みがかった衣の裾と蓮華座に模様のように「おつる・おみや・おまめ」など結願した女人名がびっしり彫られている。男性名はなく、妙桂、春香など出家した尼の法名のように見受けられる漢字名2名以外は、49名のひらがなの全て女性の俗名である。密教系像容の儀軌である六臂の威厳ある姿で、村の女性たちがひとりひとり、現世のみならず来世での救済を切実に祈願した信仰が伝わってくる。明らかに「十九夜塔」あるいは女人講の供養塔と認識できる石塔として、この石塔は八千代市内最古でもあり、市の文化財相当の石仏といえるだろう。2-02(資料に銘文を収録)
近隣での先行する像容の類型としては、佐倉市臼井台実蔵院の寛文9年(1669)の十九夜塔があるが、願文と蓮華座の寄進者銘から、男女の講による建立で、まだ十九夜塔が女人講と限定されない時期の塔と推測される。
延宝2年十九夜塔の右は、正徳3年(1713)銘の二臂の如意輪観音供養塔で、首を傾けて深い思惟を表している姿は美しく、「史談八千代」29号表紙にもその写真を使わせていただいた。銘文は「奉造立□□□菩薩願成就処 結衆女四十箇」。六臂の延宝2年塔に比べ自然な姿で、神仏というよりヒューマンな深い知性と慈愛が感じられるが、この如意輪観音像の作風は、高津梵天塚の大日如来像(写真3)の哲学的な美しさに合い通じるものがあり、このような優れた作品を残した石工の系譜をぜひ知りたいものである。2-03
以下、明和6年(1769)の如意輪観音供養塔、文化8年(1811)の如意輪観音十九夜塔、弘化2年(1845)の如意輪観音供養塔、安政5年(1858)の如意輪観音供養塔と江戸期の石仏6基が並ぶ。造立年の間隔は、弘化2年までが34〜56年、安政5年が13年目となる。
明治以降は、明治6年(1873)、明治19年(1886)の如意輪観音供養塔2基。石材の質ももろくなり、また首が立ち右手が頬をおさえているかっこうで、思惟を表すため首を左に傾けているということの意味は忘れられているようだ。またこれ以降は「女人講」銘とともに、村の世話人屋号、または氏名(男性名)が昭和25年まで記されるようになる。

〈子安観音像への変化〉
像容が、如意輪観音から離れ、子供を抱いた「子安観音」像となるのは、高津の場合、近代に入ってからである。明治24年(1891)の子安塔(写真4)が初出で、以後、明治33年(1900)、昭和2年(1927)、昭和25年(1950)と続く。剥落が著しく建立年が不明な子安観音像が1基あるが、像容からおそらく明治末から大正期の建立と思われる。安政5年から昭和25年までの建立年の間隔は、5〜23年である。2-04
最後は、昭和57年(1982)の正観音像で、寄進者銘は「高津女人講中」。世話人の名前はない。昭和25年から、数えで33年後になるので、この塔を建立する際に、御姿を変えて衆生を救済する観音の三十三応身にちなんで「33年毎に建立」のいわれが成立したといえる。
正観音像を建立したころは、出産と子育てが女性の最大の課題であった時代は遠くなり、その翌々年の昭和59年、水子地蔵像(写真5)が子安講その他大勢の寄進で完成すると、子安講の参加者はこの地蔵像に香華を手向け、この世に生をうけることのなかった小さな霊に祈るのが常となっている。この水子地蔵の下の納骨堂の壁面には、旧村の内外の多数の個人名のほか、高津の子安講とその世話人、畑の子安講の世話人も名を連ねている。2-05

〈「子安大明神」「妙正大明神」の石祠〉
その他、子安講とは関連しないが、路傍の石造物として、妙見神社に通じる道の角に文化9(1812)年銘の「子安大明神」と文化7年(1810)銘の「妙正大明神」も石祠と、小さな釈迦像が並んでいて、「こやすさま」と称されている。(写真6)2-06
年末に清掃と注連縄張りをしているキュウベ家のおばあさんに石祠のいわれなどをお聞きしても、前にお世話していたサブロー家のおばあさん方が亡くなられ、お世話を引き継いだだけで、詳しいことはわからないとのこと。
「妙正大明神」とは日蓮宗系の疱瘡神で、市川市北方の池にすむ「龍神」が、女人の姿をして日蓮に帰依した奇談として市川市の龍経山妙正寺の宝暦3年(1753)の縁起に、記されている。さらに明暦年間の疱瘡の大流行の際、車方の村人が妙正大明神を祀り、効能があったことから中山法華経寺領の八千代市北西部を含む村々に広がっていった。妙正寺は桜の霊場として知られ、桜の樹皮が疱瘡の解熱に効能があるなどの背景や、また「龍神」とはすなわち「姥神」でもあることなどから、疱瘡神と子安神をセットで祀られても不思議はないが、高津には日蓮宗の寺はない。私は日蓮宗の家から高津に嫁入りした人が実家の宗旨で建立したのではないかと推察するが、実態は不明である。

2.八千代市域と近隣旧村の女人信仰の石造物およびその変遷
ところで、十九夜講の供養塔が如意輪観音像から子安観音へと像容が変化するのは、高津では明治中期からであるが、一般的には何時ごろ、どういうプロセスで変わるのであろうか。近隣の旧村のうち、千葉市花島と市内勝田と大和田の女人講の供養塔群を調べてみた。

〈花島と勝田、大和田の十九夜塔群〉
花島の十九夜塔群は、花島観音境内の山門右手にある。正徳2年(1712)、元文3年(1738)、延享4年(1747)、文政5年(1822)までが如意輪観音の十九夜塔である。以後、嘉永3年(1850)から、赤子に乳を含ませる子安観音像となり、明治5年(1872)、明治15年(1882)、明治28年(1895)、昭和6年(1931)の全てが子安観音像である。(写真7)2-07
勝田では円福寺に江戸期の天明8年(1788)、享和3年(1806)の十九夜塔があるが、明治33年(1900)から平成9年(1997)まで、近代らしい年不詳の1基を含む9基の全てが子安観音像である。(写真8)2-08
大和田の円光院では宝永5年(1708)、延享元年(1744)、明和9年(1772)、文化15年(1818)まで4基が如意輪観音像で、嘉永元年(1848)、文久15年(1818)の2基が子安観音像、明治18年(1885)以後は、昭和4年(1929)まで4基の子安観音像を造立、昭和32年(1957)は小さな子安観音像と講員の氏名を陰刻した石碑を建てている。2-09

〈グラフ 市内全域の江戸期石造物〉
『八千代市内の石造物‐江戸期‐』のリストをExcelに入力したデータから、造立年の明らかな女人信仰に関わる石造物128基を選び出し、江戸時代を3期に分け調べてみることした。(グラフ参照)グラフ 
江戸前期(1615〜1716元和〜正徳年間)までの十九夜塔は、高津村の2基を含む光背型の如意輪観音像10基と吉橋寺台の正観音像1基で、石材の質や彫像の技術も高く、「二世安楽」や「念仏」などの銘文があり、仏教的な救済を如意輪観音に求める信仰をよく表している。
江戸中期(1716〜1804享保〜享和年間)も前期に引き続き、光背型の如意輪観音像の造立が42基と盛んである。この時期の十九夜塔の珍しい石造物としては、宝暦13年(1763)建立された萱田長福寺の層塔がある。銘は「奉造立地蔵尊奉供養十九夜講中当村善女人」で、女人救済を地蔵尊に求めていることも注目される。(写真10)2-10
一方、中山法華経寺旧神保領であった日蓮宗傘下の島田村では元文2年(1737)と寛政13年(1801)に子供を抱いた「子安釈迦像」が建立される。
また神道系の「子安大明神」銘の石祠が、前期は1基だったが、中期は9基と増えてくる。前期の石祠は、「史談八千代」第26号で報告されている上高野の子安神社の社内の石祠で、側面の銘は元禄3年(1703)である。また村上百余所神社境内の「子安大明神」には宝暦9年(1759)銘が刻まれてあり、富士塚にあることから「子安大明神」と浅間信仰の木花佐久耶毘売命との関わりが推測される。神社に祭られるこれらの「子安大明神」石祠は、現世的な利益を祈る子安信仰の石造物として、二世安楽を求める密教系の如意輪観音信仰とは別な古代からの信仰の系譜をひくものであろう。
後期(1804〜1867文化〜慶応年間)は、文化文政期に突如として市内に子安観音像が登場する。米本林照寺境内の文化11年(1814)銘の子安観音像(写真11)が初出で、その数は幕末になるに従い、市内北西部や街道筋では徐々に増えていくが、高津や勝田などでは明治も半ばを過ぎて、また下高野では大正2年(1913)で初めて子安観音像を建立しているなど、その受容時期は地域によって異なる。2-11
なお、日蓮宗系では、鬼子母神説話に基づく子を抱いた訶梨帝母像を、子安観音像に似た子安神として祀るが、その事例を萱田町長妙寺の子安鬼子母神像に見ることができる。水子の霊を供養する現代の慈母観音像の横に子安像が3基あるが、嘉永2年(1849)建立の像(写真12)は、懐に子を抱き左手にざくろの実(枝)を持つ子安型の鬼子母神座像で、台石に「女人講中」のほか講の女性の名も記されている。鬼子母神像には合掌した鬼型もあるが、日蓮宗地域の女人講では子安型の訶梨帝母石像が一般的のようで、近代の建立では長妙寺の明治16年(1883)像のように右手に蓮を持ち如意輪系の子安観音とその像容の区別がつかないものもある。もう1基は昭和39年(1964)の造立。これも「子安鬼子母神」と刻されていなければ、一見子安観音像のようである。2-12
この嘉永2年の子安鬼子母神像1例を含め、表2のように、市内には幕末までに建立された19基の女人が子供を抱く子安像が現存している。

3.子安観音像の像容成立の背景をさぐる
男性中心の世界観の仏教では、観世音菩薩は明らかに男性であり、江戸時代になるまで日本では赤子を抱く観音像はなかった。江戸中〜後期における子安観音像の像容成立のプロセスは現在よくわかっていないが、私が見聞きした範囲で、子安観音像の像容成立の背景を考察してみたい。
二十六聖人記念館の結城了悟館長のご教示によれば、鎖国になる頃、長崎港に福建省から白磁の子供を抱いた白衣観音像がもたらされた。白衣観音は清浄菩提心を表し、諸観音を生み出す母と考えられ、その柔和な姿は仏教徒のみならず、初期は西日本に多かった潜伏キリシタンにも聖母像の代用をして受け容れられた。今も長崎と大村藩の寺々にはそのような観音像がまつられているが、キリシタンの子孫の家から「マリア観音」として発見されることもある。やがて平戸焼きのより柔和な、慈愛満ちた母子像に近い観音像が造られ、日本中に普及したという。この作例のいくつかを、私も国立東京博物館でキリシタン取締りの際の幕府押収品としてみたことがある。(写真13)2-13
関東・南東北近辺の子安観音の石仏としては、小林剛三「郡山地方の子安信仰塔」挿図に、左足を半伽にして首を傾け、あるいは片手に蓮華をもった「如意輪観音に子を抱かせた像」と、「如意輪観音像から変化したとは考えられない像」の絵が載っている。後者について、著者は述べていないが、頭から布を被って肌を表さず子を抱くその像容は、おそらく江戸初期のこの子供を抱いた白衣観音像の系譜を引くのではないかと、私は推測している。
高津と八千代市内の女人信仰に関連する石造物を総括すると、江戸時代前期は、十九夜の月待講に結集する女人たちが「二世」、即ち来世と現世での救済を如意輪観音に念仏し、その供養塔として十九夜塔に如意輪観音を刻んだ。この像容の塔はその後近代に至るまで盛んに造り続けられる。
また中期からは、仏教的な月待講とは別に、神道系の「子安大明神」銘の石祠が現れるが、その背景には、古来から性に関連する呪物(二股大根・うば石・石棒など)を道の境に祀る風習や、浅間信仰など修験宗教系に由来するさまざまな子安神信仰を伺うことができる。
日蓮宗系に多い子安神像は、ハーリティ(訶梨帝母)は他人の子供を奪って食べてしまう鬼神だったが、釈迦が彼女の末子を隠して子を失う母の悲しみを悟らせたことから、仏教に帰依して子供の守り神となったという鬼子母神説話(「雑宝蔵経」)に由来し、この説話は密教とともに日本に伝えられ、平安後期には安産祈願の修法が盛んに行われたという。この訶梨帝母が天女の姿で右手に柘榴(吉祥果)をもち、子を抱いた像としては、鎌倉時代の滋賀県園城寺蔵の訶梨帝母座像(重要文化財)など優れた彫刻例がある。
八千代市島田の子安釈迦像は、他に作例が少ないのでその由来が定かでないが、釈迦が子を抱くというのも、鬼子母神説話の子を守る釈迦になぞらえたものであろう。

那須の温泉神社の宝暦12年(1762)の十九夜塔は、如意輪観音が袈裟の中に赤子を抱く姿という(『石の宗教』)。また、さいたま市大間木の墓地には、赤子を抱く丸彫りの子育観音が、明和4・5年(1767、1768)銘の墓塔が見られる『石の文化財‐浦和の石造物‐』。寛政4年(1792)、秩父四番札所の金昌寺では、「マリア観音」と後世俗称された美しくも大胆な子安観音像(写真14)が奉納され、近隣では佐倉城下の鏑木の周徳院の子安観音(通称「子育地蔵」)が寛政6年(1794)に建立された。
女人講の如意輪観音像が子安観音像に変化する背景として、現世利益の神道系の「子安大明神」の石祠の流布を背景に、子供を抱いた白衣観音像、または訶梨帝母座像からの影響などが考えられるが、決定的な事はわからない。2-14
市内北西部の一部の地域では、江戸時代後期の文化文政のころ如意輪観音像が子安観音像に変るが、この現象は、印西町の調査でも同時期であり、石工の新しい像容への挑戦意欲や、秩父巡礼や地域の観音巡礼や大師講などを通じての地域の人々の動きにも規定されるであろう。榎本正三氏は天保天明の飢饉に際して横行した「子がえし」(間引き)に対する施政者側からの戒めと関与が強く働いた子育て勧奨の成果とも判断している。
江戸後期、如意輪観音像を建てていた各ムラの女人講も、明治・大正時代にはほとんど子安観音像を採用するようになり、その数も圧倒的に増える。女人講が文字通り、母性を象徴した現世的祈願の子安講に変わった近代の現象といえるだろう。

【資料】延宝二年造立十九夜塔の銘文
(上部舟形光背部)「下総国葛飾郡二宮庄 延寳二天 奉 造立観音石像薩依□徳現世安穏及 至後生安養思往生不可有疑者也 甲寅二月吉日 高津村施主敬白」
(石像下部・写真15)2-15
 妙桂        お□
 春香        おは□
 おまち       おかん
 おいぬ       おくに
 こ志まる      おはつ
 お□い       おふく
 おまん       おくら
 おまち       おふく
 お谷        おまつ
 おい祢       お宮
 おつる       おなつ
 おみや       おたつ
 おまめ       おえよ
想女子
 お長        おミや
 おくら       おかつ
 おまめ       お長
 おせん       お松
 おたけ       まんよ
 およせ       およ□
 おせん       おま□
 お祢        お さ
 おかま       おく□
 おはる       おけ□
 おま        お□
 おなや       おたノ
 おかめ       
(以上は滝口昭二・鈴木登・関和時男会員のご協力により解読したものである)

【参考文献】(『史談八千代』は省略)
「金石文が語る女人信仰」1986 榎本正三 『印西町の歴史』第2号
「北総の子安塔とその背景」榎本正三 『日本の石仏』66
「郡山地方の子安信仰塔」小林剛三 『日本の石仏』66
『女人哀歓‐利根川べりの女人信仰‐』1992 榎本正三 崙書房
『八千代市の石造物‐江戸期‐』1986 佐野二郎
「八千代市下高野の十九夜講と十九夜塔」1994 川戸彰 『千葉文華』千葉県文化財保護協会
『石の宗教』1988 五来重 角川選書
『石の文化財‐浦和の石造物‐』1996 浦和市教育委員会


『史談八千代』32号(2007年11月)

9. 民俗行事にみる旧村の伝統と新しい街・大和田新田の姿
                  蕨 由美
1 はじめに
大和田新田は近世になって村立てされた新田村である。成田街道に沿った立地から、特に近世からは農業以外の様々な生業が盛んで、近隣の村からだけでなく遠方からも人々が流入し、それらの人々が善兵衛組の流れをくむ上区と佐五兵衛組の後の下区の二つの自治組織を構成して、それぞれ発展して現在に至っている。
八千代市郷土歴史研究会では、中世にさかのぼる旧村の上高野と高津、近世からの新田村である高津新田、そして今回の大和田新田の地域総合調査を行ってきているが、それらのムラで現在に至る民俗行事は、基本的に近世後半から近代のムラの生活に定着し、そして戦後急速に廃れていく流れの中にあった。
大和田新田もその例外ではなく、ムラからマチへ、そしてニュータウン化へと変貌のスピードは著しく速く、伝統的な民俗行事とそれを支える講などの組織もその変化の只中にある。マチのコミュニティは、開発のラッシュと流入する住民層との中で、どのように適応し、維持されているのであろうか。民俗行事と伝統的な習俗はどのように変わろうとしているのだろうか。
大和田新田の上区・下区の民俗行事の変遷を、石造物を手がかりに整理し、そして平成18年(2006)から19年(2007)にかけての地元の方々からの聞き取り調査の記録と、祭りなどの参加取材を通じて、明らかにしていきたい。
なお聞き取り調査にこころよく応じていただいた次の方々と、取材に同行くださった石井尚子会員に謝意を表します。
上区:白井富美子様・五十嵐正彦様・中台房子様
下区:澤田文済様・小林恒様・小林佐和子様・鈴木薫明様・鈴木君子様

2 大和田新田の年中行事歳時記
現在行われている年中行事と、最近まで続けられていた講については、次の通りである。

(1)下区の祭礼と講
@  神社の祭礼
・下区八幡神社元旦祭 1月1日  (大晦日から奉仕して、参拝者を迎える)
・八幡奉射      1月15日  (当番制で飲食中心)
・神明奉射      2月1日  (当番制で飲食中心)
・稲荷奉射      2月初午  (これだけは当番が東側から回ってくる)
・天塔奉射      2月8日 
・八幡奉射御幣入り  10月10日 
A  講
・念仏講   毎月21日 (高齢化により平成13年解散)
・八日講   奇数月8日 (出羽三山参りをした男の人 八幡神社本殿にて)
・庚申講   庚申の夜  (7軒の講員 持ち回りで自宅をヤドに開催)
・観音講   毎月22日  (80歳代の女性)
・秩父講   毎月20日と22日 (秩父参り同行の女性・世代別に2グループある) 
・観和講   毎月23日 (子安講を卒業した女性、50歳代が多い)
・子安講   毎月19日 (子育て世代の母親が現在も数名集まる)
B  その他
・お盆祭り  8月第一週の土〜日曜日 

(2)上区の祭礼と行事
  @ 神社の祭礼
・上区八幡神社初詣  1月1日 (青年会が大晦日から奉仕し、参拝者を迎える)
・新木戸まつり   10月9日前後の週末(青年会主催の神輿渡御とパレード)
・八幡神社例大祭  10月9日 (「ココノカマチ」、神明社も同日)
A講 (いずれも日にちは当番が調整する)
・二十六夜講   正月、5月、9月、(「六夜さま」)
・観音講     正月、5月、9月
・子安講     毎月
・大師講     2月、6月、10月(他の講と同月にならないようずらしている)
B その他
・盆踊り  8月第一金〜土曜日 (町会が主催)
・合同七五三祝   11月第一土曜日   (町会が主催)

3 出羽三山信仰について
北総の真言宗の盛んなムラでは、イエを継ぐ惣領(長男)は「一生に一度は奥州参り」をすることが不文律になっていたといわれ、奥州参りを成し遂げた「行人」になってはじめて寄り合いへの仲間入りが許されたという。
出羽三山信仰は、山形県の月山、羽黒山、湯殿山を行場として山伏の修験道を背景とする呪術的信仰で、その極意は即身成仏にあり、山伏修験者は大日如来または不動明王と同体になることを目的としている。
かつては旅立つ前に同行の者が集まり、七日間のお籠りして別火精進の修行を行い、自らの擬死再生を意味する白装束に身を固め、1ヶ月以上の登拝の「三山駆け」の旅に出て、帰村すると村をあげての祝福をうけ、行屋でさらに三日ほどの後精進を済ませて解散となる厳しい宗教行事であった。
行人の証しとして新行人は「剣梵天」を与えられ持ち帰る。この剣梵天を供養塚に埋納する行事を「梵天納め」といって、擬死再生によって宿した命を再び祖霊の鎮まるお山(梵天塚)に埋葬する葬送儀礼であった。同行した行人同士は、兄弟以上に結ばれた縁と三山巡拝の記念、そして大日如来供養のため、梵天塚に供養塔を建てる「石建て」を行い、行人によって組織される「八日講」などの三山講に入る。(八日講は、空海が湯殿山を開基した大同元年四月八日に因む湯殿講に由来すると伝承されている。)
また、ムラの平安と五穀豊穣を祈願して、春にテントウネンブツ*(天道・天塔念仏)などの行事が行われたり、行人の死去に際しては、登拝時の装束を着せ、梵天を立ててカミとしての葬儀を同行者の講で執り行ったりするなど、三山信仰はムラの重要な宗教行事の中心であった。(テントウネンブツ*については、筆者が『史談八千代』第26号(2001年)で、上高野の事例を紹介した。)
戦後、特に高度経済成長以後は、交通・生活・信仰形態が著しく変化し、かつてのような厳しい「奥州参り」や三山講のムラ行事は様変わりしていると聞く。現在、大和田新田では、どのように三山登拝が行われているのだろうか。上区・下区の梵天塚の三山供養塔の記録をデータに、下区では「八日講」世話人の澤田文済氏、上区では最近の三山登拝で先達を務めた五十嵐正彦氏に、現代の奥州参りの様子をお聞きした。

(1)下区の出羽三山講(八日講)
@  下区では、都市計画道路開通のため平成7年(1995)に移転後完成した八幡神社境内の西側に新しい梵天塚が築かれ、毎年2月8日ムラの行事であるテントウビシャ(天塔毘社)の際に立てる梵天の後ろに、8基の出羽三山供養碑が並んでいる。★01
A  下区の梵天塚は、元は一本松にあって、かつては2月8日に梵天を一本松の塚までかついで行ったが、八幡神社完成の際、新しい梵天塚を境内に整備し、8基の出羽三山碑と「天明四年」(1784)銘の大日如来石像を移転した。この大日如来石像も寄進が「大和田新田講中」となっており、元は梵天塚にあったことから、出羽三山信仰に関連する供養塔であった可能性があり、この地区の三山信仰は18世紀末にさかのぼれるだろう。 ★02
B  下区の最初の三山碑建立は明治17年(1884)で同行者は7名、右に月山・真ん中に湯殿山・左に羽黒山の神社銘を刻んでいる。以下、明治24(1892)・昭和14(1939)・昭和26(1951)・昭和34(1959)・昭和44(1969)・昭和54(1979)・平成2(1990)年に建立されているが、これらは全て月山神社銘を中央に配している。戦後は、ほぼ10年の間隔で三山登拝が行われているが、平成12年(2000)に行われた登拝では、石塔の建立はしなかったとのことである。
C  碑文から同行者の数がわかる範囲で、推察すると昭和44年(1969)が32名と一番多い。また同行者の年齢が刻まれた平成2年(1990)の碑文で見ると、年齢層は先達の52歳を最高に50歳代3名、40歳代8名、30歳代4名、最年少は22歳で、40歳代の働き盛りの男性が中心である。
D  現在の三山登拝の日程は、平成2年の碑文によると、「7月18日 鳴子温泉、同19日 西蔵坊、同20日 温海温泉、同21日 湯田中温泉」の4泊5日の旅程となっており、御師の宿坊である西蔵坊に泊まった翌朝に月山登頂を含む三山詣を行っている。
E  聞き取り調査では、大正10年(1921)にお生まれになった澤田文済氏(屋号チョウチンヤ)にお聞きした。澤田氏は、八日講の世話役のお一人で、平成17年(2005)に梵天塚前の灯篭2基を個人で寄進されている。
澤田氏が奥州参りに参加したのは、50年前の昭和44年(1969)のときで列車の旅であった。羽黒山西蔵坊に泊まり、翌朝3合目までバスで行き、そこから月山へ。昼に登頂し、湯殿山を巡って、鶴岡温泉に泊、翌日は新潟から佐渡島へ行って泊まり、戸村温泉にもう1泊して帰ったという。
F 「八日講」は、奥州参りの成就者のみ講員になれる講である。世代交代があれば、若い人が入ってくるが、一つの家で一人だけの参加である。
奇数月の8日の午後から八幡神社本殿に集まり、「三山拝詞」を唱えてから、飲食を共にする。食事の用意も全部男だけで行う。
三山登拝の際に着用した行衣は、大事に保管されている。昔は、八日講の人が亡くなるとこの行衣を着せ、梵天を立てて、八日講で葬式を行ったが、今は葬式にやり方が現代化してしまったので、講が関わることはない。
なお、下区の八日講に関しては、『よなもと今昔』13号に「大和田新田の天塔毘社」として詳細に報告されている。★03

(2)上区の出羽三山講
@ 上区では、神明社の西側「コウシンヤマ」に出羽三山塔が並べられてある。
自然石の大正5年(1916)は最初で、平成11年(1999)まで9基がそろっている。
建立間隔は数年〜二十年ぐらいで、登拝しても石建てしなかった回やすぐに建てなかった回もあるが、現在はおおむね十年ぐらいごとに登拝が催行されている。
A 同行者の年齢の刻まれた昭和32年(1957)の参拝記念碑では、23名の男性が参加し、61歳1名が最高齢で、30歳代は3名、40歳代9名、50歳代8名である。1960年代までは数年経って5〜6名で行われた回もあるが、近頃はバスなどの手配や費用から20名以上の参加が望ましく、ほぼ十年ごとを目途に参加者を募っている。
平成元年(1989)の参加は、60歳以上が3名(内71歳が1名)、30歳代は3名、40歳代11名、50歳代21名の総勢38名の参加である。平成11年(1999)33名についてもほぼ同傾向で40歳代と50歳代が中心に行われている。
B 最近に行われた平成11年の登拝については、参拝記念碑に53歳で先達を務められたとある五十嵐正彦氏にお聞きした。五十嵐家では、昭和32年(1957)に先代の佐市氏が43歳で、昭和16年(1941)に先々代の豊彦氏が57歳で参加されていることが、参拝記念碑で確認できる。
一生に一回の三山登拝の準備は一年前から企画され、平成11年の登拝では、「新木戸三山会」という会を組織することから始まった。会長(先達)・副会長・会計・世話人の人選を行い、予算を決め、会員を募り、会費の積立てを行う。40歳以上の男子であれば、一緒に登拝を希望するだれでもが参加でき、会員に関して旧家とか跡取りとかの資格は以前から一切ない。30歳代は十年後の次の登拝を挙行する世代なので、特別の事情でなければ誘わない。
平成11年の新木戸三山会の登拝では、7月18〜21日の2泊3日の予定で、会費は1名八万円、残金があれば記念碑建立に当てることとした。第1日目は、山形新幹線で山形へ、そこからバスで羽黒山に着き、すぐに羽黒山神社を参拝し、宿坊に一泊する。翌朝は月山八合目までバスで上り、2時間かけて月山頂上を登拝、湯殿山へ徒歩で巡拝する。登山の際は「強力(ごうりき)」とよぶガイドが案内してくれる。八合目までバスで上がれるので、ハイキングコース並みの登山であるが、以前革靴で参加して苦労した方もいたと聞いているので、登山の基本的な注意点は事前によく説明しておく。湯殿山からはバスで秋保温泉に行き、宴会を行い、翌日は仙台から松島を遊覧して、帰宅の途についた。
旅行社にすべてお任せしてあるが、宿坊だけは宮田坊を指定する。宮田坊からは毎年4月に挨拶に人が来る。また羽黒山神社の初午のお札を送ってもらうなど、永年のお付き合いがある。
その年(平成11年)の秋11月に石建てを行い、ささやかな宴会を開いた。その後、お礼参りとして2年後の平成13年(2001)、伊勢神宮参拝旅行を行った。★04
C 下区の八日講のように登拝経験者が講を日常的に開くことは、現在上区ではないが、登拝旅行の度ごとに、例えば平成11年の新木戸三山会のように独自の名前のつけた会が結成され、その会が懇親行事を行うことは多い。「三山拝詞」を唱えるなどの宗教的な神事は、今はもう行っていない。ちなみに平成元年に登拝した会は、「平成元年会」という。
昨年(平成18年)、各三山会全員の集まりが、珍しく持たれ、有志で八幡神社の清掃奉仕を毎日曜日の朝行うことになった。各三山会は「講」という伝統的宗教的な形ではないが、町会行事などを担う壮年層の同じ世代間のコミュニケーションの場でもあり、新しい地域活動の活力の源となっている。

4 女人信仰と講、石造物について
ムラの女人信仰とそれに関わる石造物については、筆者が『史談八千代』第30号(平成17年)に、高津の事例を元にその考察を報告した。高津と大和田新田は隣り合わせのムラであるが、村の生い立ちとともに両村でどのように異なるものなのか、あるいは同質なのであろうか。大和田新田の女人講について、石造物の調査データを基本に、聞き取り取材による現在の状況を記しておきたい。

(1)下区の女人講
@ 下区では、庚塚に女人講の供養塔が集められている。安永10年(1781)の十九夜塔(如意輪観音像)が初出(「十九夜講中廿四人」)。明治22年(1889)の子安観音像の浮彫りに「十九夜」の刻字と台座に「女人講」。大正年4(1915)からは子安塔に変わり、昭和34年(1959)まで計9基。そのほか、下区公会堂には、昭和59年(1977)の百観音参拝と、平成9(1997)年の秩父参拝の巡拝供養塔が建立されている。★05
A 聞き取り調査では、女の人の講は、子安講が世代別に5つもあるとのこと。
現在の最高齢世代の講は「観音講」で80歳代。その下は一緒に秩父参りをした縁に結ばれた70歳代と60歳代の2つの「秩父講」で、10名ぐらいで一番元気がよい。公会堂に集まり、秩父巡礼の朱印を押した掛け軸をかけるほか宗教的なことはなく、プライベートな懇親に徹している。★06
その下の50歳代は、かつての子安講を卒業した仲間で結ばれている「観和講」で、この講の名前は鈴木君子さんが名づけた。今は14名ぐらいが公会堂に毎月23日に集まるが、二十三夜講の謂れとは無縁で、公会堂が空いている日だったからとのこと。四国八十八ヶ所巡りや秩父・坂東巡りなどをしていたが、今は観光旅行が主で、もっぱら親睦をあたためている。
その下の子供養育中の世代の子安講は、昔は人数が多かったが、今でも数名で続けている。

(2)上区の女人講
@ 上区の女人講関連の石塔は、合計で14基ある。子安塔(子安観音の像容の石塔)は、八幡神社境内に天保3年(1832)(「子安講中」)から昭和44年(1969)(「女人講中」)まで6基、十九夜塔(如意輪観音像に「十九夜」)は、神明社境内に天保10年(1839)と、明治4年(1871)の2基が残っている。★07
そのほか特質すべきは、二十六夜塔(文字碑)群で、神明社境内に並ぶ明治14年(1881)から大正・昭和時代の4基、そして最新は平成13年(2001)の造立(白井秋子他34名)の5基がそろっている。また下区太郎兵衛野の庚申塚に安政2年(1855)年銘の二十六夜塔(文字碑)があり、19名の寄進者が屋号で記載されているが、そのうち、善兵衛など10軒の屋号は上区の旧家で、4軒が下区の屋号である。
また、新木戸前の成田街道沿いに近隣の「運総連」が大正2年に建てた「無縁法界供養塔」があるが、吉橋貞福寺からいただいた施主名「新木戸二十六夜講」の卒塔婆が、毎年春の彼岸に供えられている。この地点(送電塔の向かい側)は成田街道の分水界となる地点で、かつては高さ2mの塚があり、無縁法界供養塔もこの上に奉られたという。
A 聞き取り調査(白井家・中台家)では、女性の講は3つの世代別に構成され、お嫁さんから子供が7歳ぐらいまでは子安講、45歳ぐらいから上は二十六夜講、さらに上は観音講に入る。
二十六夜講は、愛染明王を主尊とする月待講で、十九夜講・子安講に比べて少なく、石造物調査表で類推すると、個人の建塔は別にすると、八千代市内では唯一の講の可能性がある。(6 まとめと考察を参照)
現在の二十六夜講は、「六夜さま」と称して、3人ずつの当番が、お寿司屋を予約して、正月・五・九月に講を開く。日取りは、当番が調整し決める。儀礼は掛け軸を掛け、テープのお経(?)を流すのみ。昔は公会堂がいっぱいになったが、今(平成18年)は20名ぐらいの参加である。講に入るときと抜けるときはお菓子を配る風習がある。
もっと高齢な女性は、観音講に入り、正・五・九月に講を開く。人数は少ない。念仏はもともと新木戸の男性中心で、女性は和讃を覚えたという。
子安講には、昔は子供を負ぶって参加し、当番は混ぜ飯を炊き、皆はおそうざいを持ち寄った。35年前は、市川真間の手古奈様にお参りしたこともあった。今も毎月開かれているとのこと。

4 その他の講
(1)下区の念仏講
最年長の男性の「念仏講」は、毎月21日に開かれていた。高齢化により2001(平成13)年に解散、公会堂にはその年(2001)の9月に、念仏講解散の記念碑が建立された。澤田文済氏が最後の親方で、念仏の帳面*が手元に残されている。(*資料2)★09

(2)下区の庚申講
庚申講は、今も7軒でヤドを持ち回りで行っている。7軒はジンベイ家・ジンベイ新宅のキンニム家・チョーチンヤ・トバヤ・ソゴゼム家・ホンゴウ家・コマツヤで、前の当番が「オカケジ」(掛け軸)を持ってくるが、今はもう拝むことは略されている。
庚申の日は60日目なので、ほぼ1カ月おきに当番の家をヤドにして開かれ、会費は100円を負担する。昔は、お米を集めてご飯を炊き、また徹夜だったが、今は女の人がたいへんなので、手間はかけずに夜8時ごろから11時ごろまで酒宴を開く。

(3)上区の富士講
上区神明社には、幕末の嘉永3(1850)年と慶應3(1867)年の富士講の巡拝塔2基が残されているが、今も富士講が続けられている。
現在の講社は、船橋市宮本町下宿の茂呂神社にある「やま玉・まる下講社」の新木戸支部に所属する。この講社の名前は、トレンドマークが山の絵の下に「玉」、丸の中に下宿の「下」であることに由来する。
五十嵐正彦氏など世話人が地域の人に呼びかけて、隔年おきに富士登山が催行される。最近では平成18年(2006)年に行われたが、今は、ほとんどこの登山ツアーを行うことが目的で、日常の行事は、宮本町下宿公会堂で行われるこの講社の正月3日の「初拝み」と7月1日の「山開き」に役員が行く程度である。
富士登山はここ数年、7月21〜23日に2泊3日で行われ、バスで富士山五合目まで上り、ここで登頂を目指す登山組と、登山はせずバスで景観地を巡る「中道(ちゅうどう)組」に分かれる。登山組は八合目の山小屋「蓬莱館」に宿泊し、翌日午後に二つの組が合流して温泉に一泊し、帰路に着く。
蓬莱館に泊まることは昔から決まっていて、また昔からお世話になっている富士吉田の御師の「菊や坊」にも毎回寄って、白装束の行衣に登山の朱印を押してもらう。神聖な行衣以外に朱印を押すことは今までなかったが、昨年、講社のマークの入ったTシャツを作ったところ、このデザインなら御師さんが、捺印を許可してくれたとのこと。★10
(4)上区の大師講
上区の八幡神社の裏にある吉橋大師講第67番札所のお大師様の供養にちなむ講。巡礼は行っていない。二十六夜講と観音講の講員が多いので、重ならないように2月・6月・10月に新鮨隣の第二公会堂で飲食をともにしている。

5 青年会中心の新しい祭り
大和田新田、特に上区は、旧来からのムラヅキアイとムラの行事を、新しい街の発展にあわせて変容させ、新旧住民の新しい共生の場を作っている。
特に上区・下区とも青年会は会員が多く、その活動も盛んである。また両地区の青年会のその主要なメンバーが、八千代市消防団第3分団にともに所属し、ともに活動していることから情報交換も盛んで、お互いの活動をフォローしたり学んだりして、地域に貢献している。その姿を紹介したい。

(1)上区の「新木戸まつり」
上区の青年会主催の「新木戸まつり」は、戦前までの八幡神社の10月9日例大祭「ココノカマチ」の「餅をついて、甘酒を飲んで、神主が来る」だけのささやかな祭りの翌日の10月10日に、青年会が神輿の渡御するにぎやかな祭りを加えたのが始まりで、体育の日が祝日として定着した高度経済成長以降の新しい祭りである。昨今は「ハッピーマンデー制度」の適用で、10月9日の本祭と離れない週末に行われる。)★11
新木戸保育園の園児たちによる鼓笛演奏のパレード、地元少年野球のリトルリーグチームの参加もあり、また神輿入れ後、神社の境内では子供相撲や幼児向けのゲームなど、子供と若い子育て世代、マンション住民の参加に努力している。★12

(2)上・下区の両八幡神社元旦祭(初詣)と盆踊り(お盆まつり)
12月31日の大晦日、夜がふけると上・下区の両八幡神社とも、テントが張られ、照明が煌々と点き、午前0時の初詣を目指す参拝客の行列が長く伸び、境内では餅つきや甘酒をふるまう準備が進められていく。この徹夜の行事を支えるのは、それぞれの神社の氏子世話人と青年会である。下区の青年会は、塀に沿って長時間並ぶ参拝客に地域の歴史を知ってもらおうと、様々な展示を試みている。(平成18年は、「史談八千代」第31号のからの抜粋を展示された。)★13 ★14
また、夏の行事として、上区では「お盆まつり」を8月第一週の土〜日に、下区では町会主催での「盆踊り」を8月第一週の金〜土に行うようになった。いずれもマンションなどの新しい住民の参加を呼びかけており、また青年会のメンバーがこれらの行事を担っている。

6 まとめと考察
@ 江戸時代の新田ムラである大和田新田の基本的な民俗行事、特に様々な講が、男女別・世代別に組織され現代に続いている姿は、高津や吉橋など中世からの古いムラと共通する点が多い。宗教的な習俗である講が、世俗化されてムラの生活に定着していく時期が、江戸時代の新田開発以降、特に生活にゆとりが生じ、巡拝などが自由にできるようになった江戸後期に盛んになるゆえであろう。
しかしながら、新しい新田ムラであり、流入してくる世帯が近世からも多く、イエの格式や序列に縛られない大和田新田の気風は、時代の変化に臨機応変に適応していく機敏さなどにおいて、他の旧村から際立っているように感じられる。
上区の現在の三山登拝は、男なら誰でも参加できるハイキングと名跡めぐりと宴会の楽しいツアーで、昔の記録で見る「三山駈け」の厳しい修験道の世界とは隔世の感があるが、町おこしの核となる壮年世代の連帯を強めるコミュニティのひとつとして、おじいさんの頃からの伝統は続けていきたいという世話人の思いは充分かなえられていると思う。
両区の青年会が、神社祭りや初詣などのイベントに積極的に関わり、ユニークなアイディアで、新しい町の住民と共通のコミュニティを作ろうと模索している姿も注目される。
A また大和田新田の上区が成田街道の入口である立地は、江戸時代から様々な情報と流行、人の流入の玄関であった。上区の二十六夜講は女人講として珍しい習俗である。二十六夜講は、二十三夜待のように全国的な行事ではなく、やや偏った分布を示す。その原因として関東地方では、「江戸の六夜待」として近世の江戸で隆盛をきわめた一時期があったからという。月齢二十六前後の月は三日月のように細く、東天に姿をみせるのは明け方に近い時間である。この際、弥陀三尊が見えるといって、文化・文政の時代には湯島天神などの高台や芝高輪などの海岸は見物客でにぎわい、月待信仰の名を借りた夜遊びの遊興娯楽の行事であったことから風俗の乱れを懸念する幕府の取り締まりが行われ、天保期に入って急速に廃れたらしい。
上区の二十六夜講についてそのいわれは伝わっていないが、江戸の流行はいち早く吸収する成田街道筋のムラという要素は否定できないと思う。
B 以前調査した高津新田も同じく江戸時代の新田ムラであるが、出羽三山講が行われていないなどその民俗は異なっている。高津新田では村だての際、その草分けに日蓮宗の長胤寺を檀那寺とする家が多かったことに対し、大和田新田では、上区では吉橋貞福寺、下区では正覚院や大和田の円光院など真言宗系の檀家が多いことなど、仏教の宗派の違いが一因であると考える。

資料1 八日講の「三山拝詞」
一、モロモロノツミケガレハライ ミソギテスガスガシ
二、トホツカミエミタマエイヅノ ミタマヲサキハエタマヘ
三、アマツヒツギノサカエマサンコトアメツチノムダトコシエナツベシ

一、アヤニアヤニクスシクタフト 月ノミヤマノカミノミマエヲ
  オロガミマツル、クリ返し三回
一、アヤニアヤニクスシクタフト 羽黒ノミヤマノ神ノミマエヲ
  オロガミマツル クリ返し三回
一、アヤニアヤニクスシクタフト 湯殿ノミヤマノ神ノミマエヲ
  オロガミマツル クリ返し三回
一、アヤニアヤニクスシクタフト ゴダイソンノカミノミマエヲ
  オロガミマツル クリ返し三回
一、アヤニアヤニクスシクタフト 四十八村ノ神ノミマエヲ
  オロガミマツル クリ返し三回

資料2 念仏講の帳面(全部で21ページにわたるが、1~6ページまでの「一、ほつがんき」を採録し、「二、十三佛」以降は省略した)
一、ほつがんき
がしやくしようぞうしよあくごうかいゆむし
とんじんじゆうしん言しゝそー一切が こんかいさんげ
がくぞうまく実りのみだのりの一声手に取る
珠子はのりの早舟六じき佛しよう
供養三法うち鳴らすごすいの鐘に夢さめて
あうんの二字をいるぞうれしき
めいこう三界じようごく十万苦ほんらい
むとうざいしよう南北南無弥陀佛せいー
せいとうとうがんすじようだつく三界とつけん
菩提諸行無情是しよう滅法生めつめつ
いじやくめついらく供養三法
二回「
一心頂末萬徳円満しやか如来しんじん
しやありほんじほーしんほーかいとーばー
がーとーらいきよいーが一心にゆーががーにゆ
佛界ちごがしよぼーだーあいいん佛人力
りしやくしゆうじよほつぼだいしん衆ぼー
さつぎよどうにゆいんじやく平等大師
こーをんちようーちをよらい
南無しやかふーげん文殊の修羅せつゝの
三十番じん南無大師遍生金剛
南無天台ちいしや大師
南無ぢいがくぢーいん大師
南無十を十三佛の南無はんやの十六ぜんじの
南無妙法蓮華経―え
がんたいはつしきようらい天にだいがくそんおーじや
ふくじかいいんまんいんねんがまんじようしよう
があく成就除念もこーらいこが長来にみだそん
がんていしんとうりんみようしゆうじよ
しんぷうてんとうしんぷうしやくらん
しんぷうしつねん しんじんむうしよ
くうつうしんじん けいらくによーにゆ
ぜんじよじよーをしげんぜん成就法願
成ぼん往生阿弥陀ぶつこくとうひ
こくいとくろくぜんつーにゆじゆう方界
そうしようくうしゆじよーをいこーをくー
ほー界じいがーん りやくびよをぜいー
ヱッほつがんヱゝいゝしき きいみよー
あーーゝゝゝ阿弥陀ーー

土かけ念仏
往生極楽南無阿弥陀佛
あいじよーどー往生をおがくう
そくしんじよーをゝ佛うーー
おや南無阿弥陀

参考文献
・『千葉県の歴史 別編 民俗T(総論)』平成11年 千葉県史料研究財団
・『日待・月待・庚申待』1991年 飯田道夫 人文書院

★写真のキャプション
01 下区八幡神社境内の新しい梵天塚
02 梵天塚にあった大日如来の石仏
(「天明四年」「大和田新田講中」の銘)
03 三山登拝の際に着用した行衣
04 平成11年の新木戸三山会の登拝記念写真
05 下区庚塚の女人講の石塔群
06 下区の観音講の掛け軸
07 上区八幡神社境内の子安塔(「天保三年」「子安講中」の銘)
08 上区神明社境内の二十六夜塔群(「明治十四年」銘ほか)
09 澤田文済氏の念仏帳
10 富士講で新しく作ったオリジナルTシャツのデザイン
11 上区の「新木戸まつり」 園児も一緒にパレード
12 神輿はリトルリーグのメンバーにリレーされる
13 下区八幡神社の大晦日深夜の元旦祭
14 上区八幡神社の初詣 新年に向けてカウントダウン

(PDF⇒9. 民俗行事にみる旧村の伝統と新しい街・大和田新田の姿


『史談八千代』33号(2008年11月発行)

新資料紹介:八千代市島田妙泉寺の戦時に供出された梵鐘とその銘文記録
                   蕨 由美

2008年8月28日、平戸での大川施餓鬼の際にお会いした八千代市島田妙泉寺の御住職の鈴木恵海師より、妙泉寺の梵鐘に関する史料が見つかったので、八千代市郷土歴史研究会の研究に役立ててほしいとお申し出があり、後日私のもとにFAXが届きました。
FAXに記されていたのは、昭和17年11月の戦時下、供出された島田妙泉寺の梵鐘の銘文記録で、これは供出時に記念に撮って飾ってあった写真の額を最近になって取り換えた際、その写真の裏側から発見されたとのことです。
銘文の記録によれば、梵鐘が鋳造されたのは宝永6年(1709)、当時の妙泉寺住職12世日奠、島田村の領主とその家臣、村の檀家の苗字と通り名、鋳造した冶など、梵鐘鋳造にかかわった人々や村の構成がよくわかり、文字通り、近世史の貴重な史料です。
また、お送りいただいた鮮明な写真は、第2次世界大戦中、貴重な村の信仰上の宝物を「御国のために」供出しなければならなかった方々の、村の鐘に寄せる思いと惜しむ気持ちが伝わってくる写真で、こちらも戦時下の現代史を語る貴重な史料です。
鈴木恵海師の郷土史研究への熱い思いに深く感謝し、ご提供いただいた梵鐘供出時の2枚の写真と、その銘文の記録をご紹介します。

銘文

南 無 妙 法 蓮 華 経

下総國千葉郡神保領嶌田村
本願主寶泉山妙泉寺十二世 日奠
干時宝永六巳丑歳九月下旬日
   本如院日順聖人
    養遠院日厳聖人
    本壽院日量大徳
    感恵日實法師
    恕三日視法師
    榮辨日光法師
當村領主  兼松又四郎 正韻
  家老  田邉江右エ門 遠盛
      同  籐兵衛定宣
      同  新右エ門延清
      同  平馬 延通
            於銀
       鈴木 七兵衛
       清水勘左エ門
       萩原 八兵衛
       森 半右エ門
       山崎三郎兵衛
       古池 伊兵衛
       鈴木権左エ門
       森 忠兵衛
       猿了治郎兵衛
       信田七郎右エ門
       園野惣八郎
       柴山治兵衛
       萩原八郎右エ門
       森 市良兵衛
       山崎 与兵衛
       鈴木三左エ門
       山口與左エ門
       萩原八右エ門
         源右エ門
       石 河 勘 助
       古池 吉兵衛
       萩原久右エ門
       柴山治右エ門
       森 利兵衛
       山崎 権四郎
代官 高井与市兵衛勝久
   清水万右エ門勝恵
   同 妻   津弥 
   森 清左エ門
  榊 渡
    萩原久兵衛
    同妻  常
    森 定右エ門
    柴山長三郎
    森  八 蔵
    同妻 於津摩
    鈴木伊右エ門
    半兵衛夫婦
  舩尾  横尾弥右エ門
  神野  佐々木傳左エ門妻
  大森  高橋作右エ門妻成
  小野田 積田市兵衛

南 無 妙 法 蓮 華 経

諸檀並米錢施主中現安後善成就所
  治工 武ы]戸深川住 田中氏 藤原重次
  同  下総舩橋 田中喜左エ門正信
  同 江川清兵衛時春

 鐘口外周 七尺一寸    昭和十七年十一月廿八日
 高サ龍頭迄四尺四寸     大東亜戦争銅鐡回収ニ之ヲ供出

(PDF⇒新資料紹介:八千代市島田妙泉寺の戦時に供出された梵鐘とその銘文記録)


『史談八千代』34号(2009年11月発行)

研修旅行レポート 丑歳御縁年秋の出羽三山めぐり             
         村田 一男
1 研修旅行記(前文)
◇ 旅行目的“みちのく随一の修験霊場・出羽三山、江戸時代の修験文化を求めて三山の史跡をめぐる”
◇ 2009年(平成21)10月18日〜20日 2泊3日 
◇ 企画・案内 八千代市郷土歴史研究会 ◇参加者 44名、会員および賛同者
◇ ツーリスト アン・トラベル
◇ なぞにつつまれた出羽三山へのいざない
出羽三山は千葉県から約500kmも離れた山形県のほぼ中央部にあり、磐梯朝日国立公園の一角を形成し、月山(1984m)・羽黒山(414m)・湯殿山(1504m)の三つの山で構成される古代から修験道が発達した霊山である。
八千代市域では四分の三の村々からたくさんの人々が出羽三山を登拝し、出羽三山碑が建てられてきた。多くの人々を出羽三山に惹きつけた魅力はどこにあるのだろうか。
昨年度八千代市立郷土博物館では企画展「八千代と出羽三山〜奥州参り〜」が実施され、そこで出羽三山の信仰文化の深さに触発された。   
修験とはなにか、修験道は現在神社も寺も行っている、それは近代の神仏分離以前の姿を残しつつ変遷・発展した姿であることに気付いた。供養に建てた三山碑は彫刻された主尊や神号が時代や時期によって違うことによく現れている。これらのことは政治・宗教史や民俗にかかわる歴史が凝縮されていることにある。このような興味関心から丑歳御縁年を期に江戸時代の名残を観るしかないという欲張りな旅を実施した。
3日間の旅は、神道系、仏教系や博物館学芸員らの話と文化財鑑賞と祈祷体験など信仰文化の深さ、複雑さに頭が一杯となった。しかし、出羽三山は二世安楽と現世利益を求め、登拝により生まれ変わって新たな力を持った自己が体得できる山であるという魅力に気付き、各自は楽しく学習成果を上げ、無事目的を果した。
◇10・18(日) 勝田台発7:00――月山花笠ライン紅葉良好、鶴岡市、曹洞宗玉川寺、抹茶・庭園鑑賞――月山八合目(風雨強く中の宮参拝中止)――斎館泊、山伏の話
◇10・19(月)雨のち晴れ 山伏の境内案内・三神合祭殿(昇殿・祈祷)・出羽三山歴史博物館――天台宗荒沢寺、石造物・地蔵堂・常火堂――随身門から羽黒山参道を五重塔往復――宿坊 神林坊で昼食――いでは文化記念館――天台宗正善院・黄金堂、住職の話――(月山はじめ周囲の山々くっきり遠望)――かたくり温泉ぼんぼで入浴――真言宗湯殿山総本寺大日坊泊、護摩祈祷、住職の話・即身仏見学
◇10・20(火)昨夜から大雨、朝のおつとめ・おさわめぐり見学――旧大日坊跡、六十里越街道・庚申塔、大日坊仁王門――注連寺、即身仏・森敦文庫見学――六十里越街道田麦俣、多層民家見学――湯殿山レストハウス昼食――湯殿山神社、仙人沢の紅葉特によし、雨あがる――往路と同じ――勝田台20:30帰着
 以下、2泊3日にわたる盛りたくさんな旅行の見聞を会員3名のレポートで報告する。
                            
2 玉川寺 〜 斎館・出羽三山歴史博物館
          三橋 俊一
雨もまた楽し。1日目
 10月18日(日)午前7時。待ちに待った「丑歳御縁年、秋の出羽三山めぐり」がスタート。総勢44名。研究会始まって以来の最高人数の宿泊旅行だという。
村田会長とアントラベルの安藤女史は舞台で言えば演出家と舞台監督だなぁと、実は「直江兼継と良寛」に参加したときに感じていた。旅の充実に欠かせないお二人に感謝。
強行軍でレストランに寄る時間がないとのことで、昼食は車中弁当。これが旨かった。朝早かったので、私は朝食も車中弁当。これもまた旨かった。ウマいウマいのウシ歳御縁年、なんてね。
 「レポートを!」ということで資料がたくさん送られてきているうえに、バスの中でもちょっと分厚い資料が…。しかも私は、岩槻街道の宿場・岩淵の善徳寺にあったお竹の墓を思い出し、羽黒山正善院のお竹大日堂に行くのだからということで、その資料も持ってきてもいたので、けっこうバッグが重い。お竹大日如来の話とは、ものすごく簡単に記すと、「江戸大伝馬町の豪商の女中お竹が、湯殿山大日如来の化身であった」というものである。出開帳により広まった、庶民信仰としての流行(はやり)神(がみ)(この場合は流行仏(はやりぼとけ)か?)である。善徳寺の墓に刻まれていたのは、どう見ても如意輪観音だったが…。
 さて本題。
村田会長から、今回の旅(学習会)のテーマについての話があった。神仏習合がどのように出羽三山信仰を形作り、神仏分離により今どのように変わり、その神仏分離の中にかつての神仏習合の姿がどう残っているか、それが今回のテーマなのだと思う。
ほかにも、「江戸時代には三山碑の真ん中は湯殿山であったこと」「羽黒山・月山・葉山を出羽三山と言った時代があったこと」「葉山は端にある山、つまり端山であること」など、興味を盛り上げてくれる。配ってくれた資料の中で、ことに羽黒山の古絵図が面白く、江戸切絵図探歩のようにこの図で辿ってみようと思う。ところで、古代において出羽三山とは鳥海山・月山・羽黒山だったと聞いたことが、どうなのだろうか?
 東北自動車道から山形自動車道へ。雨が落ち始める。月山ICを経て、まず始めの訪問先国見山玉川寺で、国の文化財「名勝」に指定された庭園を前に、お抹茶で心和らぐひととき。雨の庭園はしっとりして良いもんだな、と思いつつ。
 月山八合目に向かうにつれて、雨が強くなり始める。右側に旧六十里越街道が見える。実はこの時、私はとてつもない間違いによって感慨にふけっていた。司馬遼太郎の「峠」にあった、河井継之助が戸板に乗せられて越えた道だと勘違いしていた。かつて戊辰戦争に関わる歴史探歩でこの話を私とともに学び、実際にその雪の山道を踏破した友人の記録を読んだ。その道だと思ったのだ。帰宅してその記録を見てわかったことだが、あれは会津から越後への八十里越えだった。それは、さておき…。
 雨が少し弱くなると、バスの中で歓声が上がる。しかしまた、雨は強くなる。その繰り返し。綾なす紅葉が心を和ませる。地色の緑と裾のススキが紅葉を引き立てている。やがて霧が深くなる。風も強くなる。月山八合目に向かう。中の宮の参拝は希望者だけということにする。八合目到着。かなりの強風と雨。傘が役に立たない。「勇気ある撤退!」という声があちこちから聞こえ、ついに参拝中止となる。戻り道は霧に阻まれて紅葉は全く見えない。しかし日増しに彩の増すこの時期。二日後の帰途の素晴らしい光景が予見される。
 こうなるともう、宿が恋しくなる。今日泊まる宿坊・斉館は羽黒山の中で最古の寺・華蔵院がその前身である。中に入ると、「碧の羽黒山」「蒼の月山」「橙の湯殿山」とそれぞれ書かれた3枚のポスターが目に飛び込んでくる。部屋には布団が敷き詰められ、修学旅行を思わせる。夜、枕投げが始まれば楽しいのだが…。風呂につかりたいところだが、朝風呂派の私はおもむろに、関裕二の「修験道がつくった日本の闇」を読み始める。ちょっとだけでも、修験の気分に浸っていたい心持ち。
 午後7時、精進料理の膳に就く。部屋には祭壇があり、そこには神の寄り代である鏡があるが、祭壇の上部にはなんと「卍」マーク。どう見ても、ここは寺である。二拝二拍手をためらってしまう雰囲気がある。欄間に「現権大所弐黒羽」の額がある。もちろん右から読むのだが、面白いのは「弐」である。普通は「三」か「参」だ。「弐」という文字があるのだから「なるほど」とは思うが、初めて目にした。
さて、15秒ずつの自己紹介を終え、山伏による話が始まる。人は「山伏」にどんなイメージを持っているだろうか。修業に明け暮れて浮世離れしている人? 体育会系で凄みがあり声は低い? ところが…。「は〜い、皆さ〜ん!」。高めの声で親しげに語りだしたのは、吉本興業から派遣された芸人さん風の好男子、権禰宜の藤田昌信氏だったのです。「これでも、山伏でしょうか?」って感じ。
 ユーモアたっぷりに語るそのテーマは、やはり神仏習合と神仏分離。「神道が求めるものは法力というような力ではなく、清めるための禊である。つまり、パワーをつけるのではなく、穢れを落とすのだ。」など、羽黒修験の本質を教えてくれる。興味深い話が続く。それを、酒を飲みながら聴く。快いひととき。睡魔も忍び寄ってくる。

雨あがる。2日目朝。
 私は旅先で、いつも5時に起きて風呂で読書をする。時にはビールも…。入浴してから日の出を見ようと思っていたが、あいにくの雨。とはいっても、そう憂鬱な気分ではない。最近、雨は平気になった。雨には雨の良さがある。日の出は諦めて、湯につかる。たっぷりとあったまる。「修験道がつくった日本の闇」を読みながら…。
 朝食を終え、8時。昨夜の山伏に境内の案内をしてもらう。神仏分離により弁天堂が厳島社に、開山堂が蜂子社に変わったと言う。仏教を追い出し、仏教の施設であるお堂を神道の施設である社に変えてしまったのである。全国的に吹き荒れた廃仏毀釈。しかし、ここの建物はそのまま残った。ただし、中身は入れ替わった。ここの開山は蜂子皇子ということになっているが、これらの状況を考えれば、大日坊瀧水寺のご住職等の言う、弘法大師開山説に軍配が上がるのではないだろうか。しかし、まず蜂子皇子が修験の地として開き、そこに仏教が入り込んで仏教形式の建物が建てられ、神仏習合・本地垂迹の信仰が続き、やがて明治になって廃仏毀釈が…。うーん、やはりわからない。
 現在(羽黒山)・過去(月山)・未来(湯殿山)の三世に渡って救いの手を差伸べてくれるという出羽三山。雪によって月山や湯殿山に行けなくなるので、ここを三神合祭殿にしたと言う。この神殿も、元は寂光寺金堂である。そこに昇殿し祈祷を受ける。ご朱印(何と見開き2ページ)を頂き、出羽三山歴史博物館へ。渡辺幸学芸員が私たちのために特に資料を用意され、熱気あふれる解説で感銘した。丑歳御縁年事業の一環として「神々を招き祀る梵天展」が開催されていた。梵天とは山伏や行者が呼ぶ言葉で、神道では御幣という。社殿を持たない湯殿山の本宮は、梵天に囲まれ守護されているそうだ。展示されている梵天の殆どが千葉県、さらにその半分が市原市の講中(檀那場)ほかに四街道市・君津市・木更津市・一宮町のものであった。出羽三山信仰は千葉県で隆盛していたということだろう。確かに千葉県の社寺には三山碑が多い。
 この後、集合写真。そしてバスに乗り出発。雨は上がっていた。私のレポート分担はここで終わるが、今回の旅のテーマ外で私には関心のあった「お竹大日如来」に少し触れる。午後行った「いでは文化記念館」のチケットに「お竹大日昇天図」の写真と解説が印刷されていた。お竹譚は決して埋もれてはいない。そして、やはり午後見学した正善院にお竹大日堂はあった。しかしお竹大日如来像は、あたかも秘仏のように、寂光寺金堂(現在の三神合祭殿)から移された観音・阿弥陀・大日像の奥に安置されてしまって、見ることができないとのことであった。

3 荒沢寺(こうたくじ) 〜 かたくり温泉
            成瀬 摩希子
荒沢寺常火堂見学
降り続いた雨も、歴史博物館からバスへと向かう頃にはほぼ上がっていた。10:30バスに乗り込み荒沢寺へと向かう。山伏で神主の藤田さんの法螺貝が見送ってくれる。
山門の前でバスを降りる。通りの向こう側には山の斜面を下って来る石段が見える。今バスが通って来た道が出来るまでは、この石段が荒沢寺への参道だったという。「用のある人しか来なかった」と、ご説明下さった副住職長南師がおっしゃっていた。さもあろう。なかなか険しそうな道である。お散歩しようとはあまり思わないに違いない。
境内へは、通りのこちら側に沿った小川を渡って石段を登り、山門をくぐる。参道は苔生し、雨を吸って生き生きと輝き、落ち葉とのコントラストも美しい。しかし、濡れた石や葉っぱがツルツル滑って及び腰で橋を渡り階段を上った。
荒沢寺は、明治になるまでは、北之院・聖之院・経堂院の三院からなり羽黒山の奥の院と言われ、常火堂(じょうかどう)を管理する特別な寺院であった。常火堂は日本三常火の一つとされ、明治になるまで(一説には戦後まで)、古代から消える事無く清浄なる火を守り続けてきたという。ここの常火はお皿の上でちょろちょろ燃える火とは違って、大木を燃やしていたそうだ。
聖なる火を守っていた為、出羽三山の中で唯一山上まで女性がお参りできた羽黒山の中にあって、荒沢寺の境内とその周辺だけは女人禁制であった。火は水に弱く、女性は水分と縁が深いからなんだそうだ。「女は不浄」といわれるより納得のいく説明だなと感心した。
女人禁制だった証明の「是より先女人きん世以」の碑が参道を入って正面に建っている。バスが通れる道が出来て誰も通らなくなった野口の古道沿いに建っていたものを境内へ移動したものだという。この石碑を筆頭に、羽黒山内で打ち捨てられていた石碑をあちこちから集めて境内に並べてある。中には「從是羽黒女人道」という碑もあり、女性用の迂回路があった事がわかる。
羽黒山は、修験道の根本道場の一つである。修験道は、日本古来の山岳宗教と仏教が合体した、所謂「神仏習合」の代表である。明治の神仏分離令、修験道禁止令と畳み掛ける迫害によって、羽黒修験も大打撃を受けた。この時に羽黒山は、神道への変更を余儀なくされる。山内には33の寺院が建っていたが、廃寺になって取り壊されたり、神社へ改築させられたりした。仏寺として残る事を許されたのは、ここ荒沢寺と正善院、金剛樹院の3ヶ寺だけだった。荒沢寺では「神仏分離なんてしていない。昔のままの修験道を行っている。」とおっしゃっていた。昭和21年に天台宗から独立し、羽黒山修験本宗の本山となって羽黒修験道を盛り立てている。
さて、山門を入って、左の赤いお堂(地蔵堂)の横を入っていくと、常火堂がある。思っていたよりも小振りなお堂が木々の間に建っていた。現在では火の代わりに不動明王が鎮座している。
もっと色々なお話を伺いたいと思っても、時間はあっという間に過ぎ、次へ向かわないといけない。荒沢寺を去る時に、副住職が法螺貝を吹いて見送って下さった。

五重塔見学
山を下って手向の隋神門へと向かう。空には青空が覗いている。
ここでは、市の観光協会のガイドの方が案内をしてくださった。なんと成瀬さんという方である。名前が同じだけで親近感が湧くから不思議なものだ。成瀬さんは、藤田さんが着ていた市松柄の山伏姿では無く、行者の白衣(びゃくえ)姿だった。八千代の講の人たちもこの成瀬さんと同じような白衣で登るのだそうだ。
随神門には、神様の随身(ボディガード)が弓を持って左右に座っている。しかし、この門は明治までは仁王門と呼ばれ、仁王像が睨みを利かせていた。明治以降仁王像はどうなったのか?手向地区にある正善院黄金堂に安置されている。その他、羽黒山が神道となり不要となった仏像の多くがこの黄金堂に運ばれている。こちらも後ほど見学させていただく予定である。
かつては、この随神門から杉並木の参道を2446段上って三神合祭殿へと参拝したが、今では車で山頂まで行ける。しかし、門を潜ると空気が澄むのが分かる。これはぜひ体験するべき。神域を実感できる。杉並木と石段は、宥源・宥俊・天宥と3代に渡る別当により整備された、約400年の歴史の道である。国の特別天然記念物にして、今年ミシュランの三つ星に選ばれた。今回は日程の都合で五重塔までの往復のみとなった。
登る気満々で、随神門を潜るといきなり下りの階段である。しかもかなりな急坂。その名も継子坂。かつて、この坂下には閻魔大王が待ち構えていた。今も小社が6つあるが、その内の1つが江戸時代までは閻魔堂だった。ここは地獄へ落ちる坂だったのだ。地獄へ落ちる道すがら人に構っていられないほど大変なので継子坂というそうだ。
下には、祓川(はらいがわ)が流れている。本来はここで禊をして身を清めるのだそうだ。赤いご神橋を渡る。右手には須賀の滝が流れる。天宥が新田開発の為に引いた水路から造った人工の滝だそうだ。
ここからは、上り坂になる。随神門から約10分で五重塔に着く。五重塔のちょっと手前右手に「羽黒山」が中央に刻まれている三山碑が建っている。多くの碑は「湯殿山」か「月山」が中央になる。やはりお膝元だからか?そこを過ぎると左手に樹齢千年の爺杉が見えてくる。周りの杉の何倍もの太さ。迫力が違う。単独で国の天然記念物である。目的地、五重塔はすぐお隣だ。
かつては、山内に33在ったと言う寺院のひとつ、瀧水寺の本堂だったという。塔は南面して建ち、高さが29mの純和様三間五層?葺きの素木造りである。現在は補強の為に鉄釘が使われているが、本来は1本の鉄釘も使わずに造られているのだそうだ。東北地方では最古の塔と言われ、昭和41年に国宝に指定された。創建は平安中期、平将門の建立とも言われる。現存する塔は、室町時代前期の応安年間(1368〜1375)の再建と考えられている。江戸時代までは聖観音が本尊だったが、明治以降は大国主命を祭神とする神社となっている。
「まるで白鳥が飛び立つよう」と表現した人が居たそうだが、確かに下から見上げると屋根の反りがそんな風に見えるかも。何もかもが木で出来ているし、白いので軽やかさがあるのだ。しかし緑に映える存在感はなかなかのもの。重厚な瓦葺とはまた違った雰囲気である。
塔の横がちょっとした広場になっている。そこは昔「血の池」と呼ばれる池のあったところだという。女性はこの池で再度禊をしてから参拝したのだそうだ。
ここでUターンである。五重塔までの往復は、雨で石畳が滑るかと心配していたが、そんな事も無く、皆無事に随神門まで戻って来た。ここでお昼の休憩となる。

宿坊で精進料理を食べる
お昼は、随神門からすぐの宿坊、神林坊である。茅葺で玄関口が唐破風になっている。なんとも風情のある建物である。入るとすぐに祭殿があり、お参りしてから膳に付いた。ご飯が絶妙に美味しい。今日に間に合うように急いで新米を用意して下さったのだそうだ。大感謝である。山形の秋の味覚「もってのほか」も、本当に以ての外美味しかった。
この宿坊は、八千代の講の方々も泊まっている宿坊で、廊下の寄進者札に名前が載っていた。八千代の三山講が健在な証である。
宿坊は現在も33軒残っているが、麓と呼ばれた手向地区にかつては360軒もの宿坊があったという。他の登山口では20軒前後というから八方7口の中でも飛び抜けた信仰圏の広さと信者の多さを物語っている。
食後はそれぞれ集合時間まで、お土産を買ったりして過ごした。

いでは文化記念館で山伏の実態に迫る
いよいよ午後の部スタートである。先ずは、いでは文化記念館の見学である。午後も引き続き、成瀬さんが御案内してくださった。いでは文化記念館は、山伏や修験道について詳しく映像や実物展示でわかり易く説明してくれる市立の施設である。
こちらが無知な為、成瀬さんには山のように質問を浴びせてしまい本当に申し訳なかった。しかし、嫌な顔ひとつせず、丁寧に教えてくださり感謝感謝である。

正善院黄金堂見学
バスに乗って手向の道を下っていく。次に向かうのは、正善院黄金堂(こがねどう)である。建物は国の重要文化財となっている。黄金堂は、元々は羽黒山長寿寺の金堂であった。創建に関しては、はっきりしない。神亀5年(728)聖武天皇の勅願建立という伝承や建久4年(1193)源頼朝の再建あるいは建立と伝わる。現存している建物は、文禄5年(1596)に酒田城主甘粕備後守が大修復したもの。山上寂光寺の大金堂に対し、小金堂と呼ばれた。正善院本堂の向かいに、お竹大日堂、鐘楼と共に建っている。正善院は長寿寺の首院だったが、明治維新の折に、荒澤寺の支配下となった。現在は羽黒山荒澤寺正善院黄金堂として羽黒山修験本宗を継いで、正善院のご住職島津弘海師がこれら全てを管理している。
まず、正善院にてご住職のお話を伺い、次に黄金堂の中を見学させていただいた。
荒澤寺も正善院も元々は真言宗系の寺院だったが、50代別当の天宥が一山上げて天台宗へ改宗した折に天台宗となった。明治の神仏分離で一山は神社へ改組、全僧侶が復飾を命じられたが、粘り強い嘆願の末、仏寺として存続を許された。羽黒山内の多くのお堂が壊されたり、神社へ改装させられて、行き場の無くなった仏像や仏具を黄金堂へと運び保護したという。黄金堂前の仁王門は、下居堂(おりいどう)の仁王門を移築、継子坂の閻魔像も移動して境内に座し、お竹大日堂には寂光寺金堂(現三神合祭殿)の本尊だった観音・阿弥陀・大日像が安置されている。現在、隋神門になっている、かつての仁王門の仁王像は、黄金堂の中に保存されている。京都の清水寺の仁王像をモデルに京都で造られ、大八車で羽黒山まで運んだものだと言う。黄金堂の本尊は三十三体の聖観音像で、この観音の輝きから「小金堂」に「黄金堂」の字を当て「こがねどう」と呼ぶようになったという。五重塔の聖観音もここに避難して来ている。
こうして、多くの貴重な文化財であり、信仰の拠り所である仏像が現在無事にあるのも、廃仏毀釈の暴挙を嘆き、保存活動を行った当時の羽黒山の人々の信仰心の賜物だろう。

かたくり温泉で一日を考察
神道と仏教異なる立場からお話を伺い、頭の中がごちゃごちゃになりながら、次の目的地、かたくり温泉ぼんぼへと向かう。平野に出て、四方の山が見渡せる。前方には昨日霧にまかれ登ることが出来なかった月山がクッキリと見えている。何で今日こんなに綺麗かなあと悔しくなる。今から登れるんじゃないの?と思うほど。でも、美しい月山を見ることが出来てよかった。そこには霊山の神々しさがあった。
去年、平成19年に松聖位上を勤められた星野さんのお話を伺った時に、「日本人の心の中には神仏が一体になって存在している、神仏習合が本来の姿なのだ。」とおっしゃっていたことが強く心に残っていた。神社とお寺でお話を伺いながら改めてそれを思い出した。
羽黒山が神道になって、神社では山伏の服装から数珠や錫杖をなくしたり、結袈裟を七五三襷に変えたりして仏教色を廃した。そんな間も荒沢寺では、神仏習合時代から変わらない修験道を行ってきた。しかし、秋峰の修行の根本的な部分は何も変わらず、荒沢寺でも出羽神社でも同じように行われているという。元々が合体していたものを無理矢理分離して、片方だけにしてしまおうと言うのはかなり不自然な感じがする。神社の方々も、「元は寺だった。神仏習合だった。」としきりにおっしゃる。お寺でも、「何も変わってない。今でも神仏習合。」とおっしゃる。神仏習合が本来の姿だからと、寺と神社と合同での火祭りが計画されたという話も去年伺っている。
ここに至るまでの、長い複雑な歴史がある。それぞれの立場もあり、色々と難しいこともあるかもしれないが、お話を聞いていて、いずれまた神仏習合に戻って行くかもなんて思ったりした。
お風呂で頭を解し脱力したが、再度気を引き締め、大日坊でいざ修行である。夜はまだまだ長い。

4 大日坊 〜 湯殿山神社
            蕨 由美
・夕暮れの湯殿山総本寺大日坊に到着
旅も2日目の10月19日午後、羽黒町手向の正善院黄金堂を後にし、バスは大網の湯殿山総本寺大日坊を目指し、夕暮れの出羽三山山麓を走る。空は、昨日からの雲もすっかり晴れ、月山の姿もくっきり夕日に映え、絵のように美しい。途中、かたくり温泉入浴、外へ出ると陽は傾いて、西の山々の稜線に吸い込まれるように沈んでいく。
5時を告げるチャイムの音が流れる六十里越街道沿いののどかな集落を通り、「夕焼け小焼けで日が暮れて〜」の唄のように寺の鐘が鳴る中、5時15分、大網の湯殿山総本寺・瀧水寺大日坊に到着した。

・夜の「湯殿山大権現御法楽」の御祈祷体験
玄関を上がり、男女別に用意された大部屋に荷物を入れ、休む間なく5時半に本堂へ。これから今回の旅での体験のひとつ、「御祈祷」をいきなり実体験することとなった。
本堂の右手には大きな大黒天、左手にはにこやかな弁才天が祀られていて、思ったより庶民的な雰囲気にほっとする。内陣は網戸で仕切られ、その奥には、湯殿山の御縁年、丑歳と未歳だけ御開帳の御本尊の胎蔵界大日如来像が遠くに輝いている。
ご住職の第95世遠藤宥覚師と3名の僧が入堂し、祈祷が執り行われる。参加者一人一人の住所氏名が呼ばれ、真言密教の護摩が修された。「般若心経」などの声明、さらに、「南無帰命頂礼湯殿山大権現」から始まり湯殿山に祀られる諸仏に加護を願う「湯殿山大権現御法楽」の読経のリズムに合わせて、内陣手前左右で錫杖がはげしく揺すられ、その音が堂内に響き渡る。そして最後に大きな梵天を参籠者の頭上で振っての加持祈祷がおこなわれた。

・湯殿山と大日坊の歴史
外の寒さが肌に感じられるころ祈祷が終わり、遠藤師が護摩行の意味と大日坊の歴史をお話しくださった。
中世まで出羽三山は月山・羽黒山・葉山で構成された神仏習合八宗兼学の三山であり、湯殿山はその出羽三山総奥院であった。
出羽三山の山域は女人禁制であったので、三山入り口の一つ大網口のあった別当寺の瀧水寺大日坊は、七五三掛口の注連寺と同じく、女人参詣所としてもにぎわった。大日坊の御本尊大日如来像は、空海が女人を哀れんで自ら彫られた湯殿山大権現とのこと。春日局も家光の三代将軍への祈願のため来山、その際に奉納された金剛界大日如来像、建堂の棟札など寺宝を今に伝えている。
江戸時代初頭、羽黒山・月山を羽黒山別当職になった天宥が徳川家の庇護を受けるため東叡山寛永寺末の天台宗に改宗、これに抵抗して湯殿山派の4カ寺のみ真言宗の宗旨を貫いた。
浅間山噴火による大飢饉の天明3年、96才の真如海上人が生身で入定し、その三年三ヶ月後弟子らにより掘り出され清められて即身仏となられた。托鉢でいただいたものも村人に分かちあうような慈悲の方で、死後も体を残して衆生を救うため七十数年にわたる木食を続けられた。「肉体も魂もここに生きておられる」とのこと。
明治維新の時は、廃仏毀釈をともなう強制的な神仏分離令により、羽黒山・月山の寺院や宿坊が次々と神社へと転向していく困難に耐え、真言密教として出羽三山から独立して湯殿山の信仰の法燈を伝えてきた。さらに昭和11年(1936)に、地すべりの災害によって里へ下り、現在の境内に本堂のほか鎌倉時代創建の仁王門を再建、今に至っているとのことであった。
そのほか、寺宝の飛鳥時代の銅造如来立像(2008年重文指定)や大日坊の旧境内地にそびえる皇檀の杉の伝承など興味深い話は尽きないが、夜も更けてきたので、即身仏の拝観をお願いし、そのあと7時から精進料理の夕食となった。

・堂内の御沢めぐりの後、旧大日坊の故地へ
3日目の10月20日、5時過ぎに起床。昨夕の夕焼け空がうそのように雨が降っている。6時から本堂で朝の勤行、7時に朝食。
出発前に本堂の周りの回廊に並ぶ御沢胎内めぐりの諸仏を拝見する。子安地蔵や飯縄権現像など「仙人沢」の諸仏を祀ってある。行人塚のある湯殿山大鳥居の場所から湯殿山宝前に至る梵字川の峡谷には、江戸時代まで権現・如来の像を安置し、「御沢駆け」と称して巡拝する行が行われていた。御沢駆けは、渓谷を胎内に見立て、そこを抜けて命の再生を感得するという湯殿山修験の重要な行場であり、仙人沢の名は入定して即身仏となった行人たちの厳しい修行の聖地を意味した。現在は本堂の周りの諸仏巡拝で、その御沢駆けの御利益がいただけるとのこと。神仏分離の際に廃された親しみある仏像を間近で拝観できる場でもあった。
8時にバスですぐ近くの大日坊の元境内地に向かう。江戸時代は行間(ゆきま)四十二間に梁間十二間の本堂など大伽藍の並ぶ境内であったが、明治8年火災の後再建、昭和11年の地すべりで現在地に移り、今は石造物と県指定の天然記念物の「皇壇の杉」などにその姿がしのばれる。皇壇の杉は、東北鎮撫のため下向しこの地で亡くなった景行天皇の皇子の墳墓に植えられたものという。雪の重みにその枝を下に曲げてそびえるその姿は見事で、千年を超す樹の生命を感じさせる名木であった。
帰路は六十里越街道を歩いて下りながら、朝日村一の大きさを誇る安永9年(1780)建立の庚申塔を見てから、大日坊の仁王門を見学する。山形県最古の中世建築で県有形文化財の三間一戸の八脚門の内部には、仁王像(市文化財)・風神雷神が祭られ、草履や草鞋などが奉納されている。仁王像が後ろ向きになっているのは、ここに再建した時に前後逆になってしまったからとか。
仁王門の立つ懐かしい風景を振り返りつつ、9時20分六十里越街道からバスで移動し、注連寺(ちゅうれんじ)へと向かった。

・注連寺
10分ほどで七五三(しめ)掛(かけ)の注連寺に到着。本堂前の回向柱も降りしきる雨にぬれている。
注連寺創建も空海の湯殿山開山を伝える湯殿山別当四ヵ寺の1つ。大日坊と同じく女人禁制だった湯殿山の中で女人のための遥拝所として栄えた。寺名の「注連」とは、「神域と現世の境界にある結界」を表す注連縄のこと。境内の神木の「七五三掛桜」に注連縄をかけていたという。
名僧鉄門海上人の即身仏が安置されて、松尾芭蕉も奥の細道行脚の際訪ねた寺院であったが、明治時代に堂宇は焼失。唐破風向拝付きの本堂が再建されたが、神仏分離後は大日坊同様に寺勢が衰え「破れ寺 (やれでら) 」の雰囲気だった。昭和26年当時ここを舞台にしたのが、森敦の「月山」。その後現在のように復旧され、昭和61年には境内に森敦文庫が建てられている。「月山」登場する「和紙の蚊帳」が文庫の2階に再現されていた。冬の寒さに耐えかねて「祈祷簿」(お得意先名の帳簿)の紙を張り合わせ、「カイコみてえにつくってた和紙の蚊帳」にこもり厳冬をすごしたというエピソードが思い浮かぶ。
本堂での住職の話の後、案内されたのが、建物の天井を彩る数々の天井絵画。故村井石斎画伯や十時孝好画伯による伝統絵画のほか、現代作家よるユニークなポップ調の絵画が楽しい。
本年2009年3月『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』で、注連寺が二ツ星に選定されたことなどにより、湯殿山の宗教史の一面を一般の人の伝える観光スポットとしても定着しつつあるようだ。

・田麦俣集落の兜造り多層民家
この旅の最後湯殿山参拝の前に、六十里越街道沿いの田麦俣の多層民家を見学。田麦俣は六十里越街道の中継点であり、また湯殿山への参拝が盛んになると宿場的性格を帯びて、江戸時代は七、八軒の旅籠があった。
兜造り多層民家は江戸時代後期二百年ほど前の建物と推定され、当初は寄せ棟造りであったが、明治時代になって養蚕が盛んになると、屋根が改造され、妻側は兜造りに、平側にも採光と煙出し窓が作られた。現在2軒が残っていて、手前は民宿、奥の「旧遠藤家住宅」は県重要文化財に指定され、見学者に公開している。
雪国独特の造りの重厚な民家が雨に煙るたたずまい、集落前の渓谷の紅葉など、しばし写真撮影に時を過ごした。

・紅葉の仙人沢から湯殿山神社参拝へ
いよいよ出羽三山めぐりの終着点湯殿山の聖地へ向かう。かつて六十里越街道など険しい山道や峠道を歩いて詣でた日は遠く、今は有料道路で参籠所までバス。大鳥居の下のレストハウスで昼食をとり、さらにここから参拝用の専用バスで本宮入口まで行く。
本宮入口から徒歩。立ち並ぶ奉納された白い千枚梵天もポリ袋に包まれ、雨は止まないが、雲が切れて視界は良く、紅葉した仙人沢が美しい。
御宝前の前で素足になり、お祓いを受けて中へ。ここからは芭蕉も「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」と読んだように、今も「語るなかれ」「聞くなかれ」と述べてはいけないと戒められていて、神社の公式HPでも「湯殿は、湯殿山神社のご神体である出湯と、その湯ばなにおおわれた巨岩を示している。出羽三山の奥の院として、羽黒山・月山で修行した修験者が大日如来の境地に入る場所」と記すのみある。
専用バスで大鳥居まで戻り、最後に湯殿山参籠所で江戸期の湯殿山御本尊だった大日如来像を拝見することができた。
出羽三山丑歳御縁年に際して、鶴岡市金峰山青龍寺から特別に借りて展示された2体の大日如来像のうちの1体で、仙人沢行屋に安置されていた室町時代の作とされる木造の胎蔵界大日如来坐像である。御縁年期間中、交代で展示されていた御宝前の鋳造製の大日如来像とともに、神仏分離前は三山信仰の中で最も尊崇されていた仏像であった。
山伏修行をされている方でお昼に挨拶に来られた草の根活動家の草島進一氏も「地元でもこんな美しい紅葉を見たことはありません」と言われたほど色とりどりに色づいた仙人沢の景観、そして丑歳御縁年特別事業で里帰りされた湯殿山本尊の大日如来像の拝観は、この時でしか見られない貴重な経験であった。
午後1時20分雨の湯殿山を出発、山形自動車道で山形盆地に下り、笹谷峠から仙台平野に抜けると西高東低の冬型の気圧配置のせいか、空はすっかり晴れていた。一昨日登った月山高原ラインも今日で閉鎖と聞く。出羽の山や里に降っていた秋の冷たい雨が深い雪に変わる日も、もうすぐなのかもしれない。

・旅をふりかえって
今回の旅は、八千代とその周辺のムラに残された出羽三山供養碑と、今でも一部地域で形を変えながらも続けられている三山講(奥州まいり)の歴史と民俗の背景を理解するためであった。
出羽三山は今も「現在・過去・未来」を体験する信仰の山であるが、神仏習合の時代に遡っての理解を深めるため、中世以前からの湯殿山修験の法灯を伝える真言密教の大日坊と注連寺、江戸時代の羽黒修験の中心だった天台宗系の荒沢寺まで足を運べたことは意義深い。
そして明治以降さらに盛んになった千葉県各地からの出羽三山めぐり。そこには、神仏分離の生々しい歴史があり、また遠くからの登拝を促す山伏や寺院、宿坊の企業努力ともいうべき活動の実態も知ることができた。
かつて私は、高山植物や雪渓の景色を楽しむため夏山登山として月山山頂に登り、帰路、羽黒の五重塔と湯殿山神社を観光したことがあった。観光や登山だけでなく、今も信仰のための巡礼が絶えない出羽三山であるが、郷土史研究に関連して出羽三山信仰の歴史と民俗を知る目的という今回の私たちの旅は、かなりユニークだったと思う。
最後にこの旅の「先達」として、念入りに準備してご案内くださった村田一男会長に感謝いたします。