2003.9.27 By.ゆみ

 =発掘された古代のニュータウン=

成田市台方下平T遺跡 現地説明会風景


2003.9.27 ぐずついていた空も 今日は秋らしくきれいに晴れて、現説日和になりました。


台方下平遺跡を見る

縄文時代の動物捕獲用落とし穴
ロープがあるけどよく見て歩かないと危険!
 台方下平遺跡は、成田ニュータウンの南西端の舌状台地を開発に伴って発掘調査が行なわれている遺跡です。
 このうち昨年度はU遺跡の調査が終了し、2003年7月の遺跡発表会でその全容を見聞きする機会がありました。

 縄文から奈良・平安時代まで、457軒の住居跡、154棟の掘立柱建物跡という大規模の「古代ニュータウン」が現れた遺跡です。
 中でも、東海地方で作られた須恵器の高盤や、銅に金メッキした毛彫りの帯金具(=「巡方」)が、住居跡から出土して話題をよびました。

 15年度は、U遺跡の西側の台地「T遺跡」を調査中で、9月27日一般市民向けの現地説明会が行なわれました。
 この日までにやはり270軒の住居跡が見つかって、その生活ぶりなどが明らかになりつつあるそうです。

 そのうちの、見せていただいたほんの一部をルポしました。

見学会の案内とU遺跡の調査報告は主催の印旛郡市文化財センターへ


下平T遺跡の北側は成田ニュータウン、ここには印波国造の勢力を示す公津原古墳群があります。
この古墳群に眠る人々の暮らした古代の大住宅街が、手前のT遺跡、右手の造成中のU遺跡に現れました。

 幾重にも重なり切合った古代住居の跡

古墳時代のこの住居には、焼けて炭になった建材が残っていました。
右手に印旛沼を望む掘立柱建物跡 

西向きに庇がついた2間×4間建物は、奈良平安時代の寺院のお堂のようでもあります。


 

8世紀後半の床のある住居から、長さ55cmの鉄の直刀が見つかりました。刀身には木質が残っているとか。

  

5世紀後半以降の住居のかまどの状態。 高杯を逆さにして、土師器の甕を支える台(支脚)にしてました。

  

滑石製臼玉と高杯が見つかった住居は小さめでかまどがない。拝み屋さんの家だろうか。
  

U遺跡でりっぱな高盤が見つかりましたが、T遺跡でも住居から古式須恵器(TK208)が13点ほどみつかったそうです。
 
謎の「印波国造」と公津原古墳群


 台方下平遺跡は、公津原古墳群に隣接しています。

 7月の印旛郡市文化財センターの遺跡発表会で、「竜角寺・公津原古墳群と印波国造」と題する白石太一郎先生の特別講演が行なわれました。
 これまで7世紀最大の岩屋古墳のある千葉県竜角寺古墳群を支えた勢力は、印波国造丈部直といわれてきましたが、平城京左京大路側溝から出土した木簡に「下総国埴生郡大生直・・・」と書かれていたことから、本来の「印波国造」は6世紀の公津原古墳群を残した印波の地の氏族で、後に急に勢力を伸ばした「埴生郡」(=竜角寺古墳群の地)の大生部直がこれにとって替わったとの興味深いお話でした。


 見学会が終ってから、成田ニュータウンの中に残る公津原古墳群のいくつかの古墳と、麻賀多神社の中の「伝初代伊都許利命(いつこりのみこと)墓所」という古墳を探索しました。
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