2003.9.27 By.ゆみ

 =成田ニュータウンの中の古墳群=

台方下平遺跡にくらした人々の奥津城を訪ねて




秋の日は短い。赤坂公園内の大きな船塚古墳にて。




ニュータウンの中の公津ヶ原古墳群
成田ニュータウンが造成される前には、110基以上の古墳がありました。 

ボンベルタの外にあった案内板
クリックすると大きくなります

今、そのうち39基が、ニュータウンの中に残っているとのことです。
  
台方下平遺跡のすぐ北側に隣接した数基の古墳を、訪ねてみました。
ニュータウンの中央センターに位置する赤坂公園内に、長さ85mの前方後方墳があります。
7世紀代と思われる船塚古墳(8号墳)です。
隣に小さな円墳(9号墳)が寄り添うようにありました。
  
公園の前の歩道橋を渡って、メーンストリートの向こう側のビルの間に3基の古墳があります。
ボンベルタという大型商業ビルの
駐車場横に1基センタービルとの間に2基。 
ビルの狭間のポケットパークのような不思議な光景です。



  
赤坂公園内の9号墳(13mの円墳)  と ボンベルタ裏の6号墳(34mの方墳)
秋のやわらかな夕陽が、公園内の古墳を、少年が遊ぶビル街の古墳を包みます

 
ボンベルタ駐車場脇の7号墳(32mの円墳) と センタービル横の5号墳(35mの方墳)
ビルと古墳、こういう保存の仕方もあったのだと教えてくれます

麻賀多神社と伝初代印波国造の墳墓

帰り道、台方下平遺跡のすぐ西側の麻賀多神社を訪ねました。
台方のこの神社は、船形の本社の奥宮として、ともに印旛郡内「麻賀多十八社」の惣社です。

この境内には、初代印波国造の伊都許利命(いつこりのみこと)の墳墓と伝承される古墳がありました。
一辺35mの方墳で、公津ヶ原39号墳にリストアップされています。

もうすっかり陽が傾いていましたが、大切に奉られている露出した石棺を拝観できました。
絹雲母片岩の箱式石棺で、文久4年(1864)に大木の根本から発見された鏡と玉も神社に伝えられているそうです。
この地に暮らした人々に、時代を超えて斎き祀られている姿は、感動でした。


麻賀多神社

公津ヶ原39号墳


その後もこの地で営々と生産を支えた在地の子孫たち。
そのうちの一人、近隣384ヶ村の総代名主の木内惣五郎が17世紀に、村民のため身を挺した歴史を、公津の地は今に伝えています。
印旛沼の甚平渡しを橋で越して、八千代へ帰りました。
たくさんの墨書土器を残した八千代の古代人たちも、印旛沼を渡る風とともに享受したであろう新しい時代の波を思いながら・・・