陜川郷土史学会会長・李榮基先生 玉田古墳群現地説明の記録


李榮基(リ・ヨンギ)です。歴史に深い理解を示していただきありがとうございます。
今は退職しましたが、中学高校の校長、教育長もやっていました。

玉田古墳群のことですが、日本(の文献?)にも多羅国がみえるそうですね。ここには多羅里があります。
今までは推測でしたが、この古墳が首長墓であることがわかり国があったことが実証されました。

図でごらんいただいているのは、ここから出た遺物です。
甲冑とか鎧とかは特に変わりないですが、他の国に比べて特色あるのはこれらの種類です。
4、5世紀は木槨墓です。5、6世紀は横口も出るし、6世紀第一4半期からは片袖型の古墳が出ました。
時代の流れでもっと墓も大きくなり、副葬品も豊かになりました。
その時代の耳飾、冠、ガラス製品なども出ました。ローマングラスは、加耶時代を通じてここからしか出てません。
軍事的・国家的勢力が、強大化されたのです。
ガラス製品は慶州の天馬塚から出てますが、それとここしか出てません。

玉田古墳群で発掘された遺物を載せた本はあるのですが、大学で制作したその本はあまり作っていません。
大学にありますが私も1冊もらいました。今日は持ってきておりません。数が少ないので残念ながら皆さんにお渡しできません。
本は晋州にある国立の慶尚大学の発掘チームが持ってます。遺物は大学で保存しています。
大学で資料として使うために作られた本ですが、皆さんが時間があればご案内できますが、ここからは2時間ぐらいかかります。

ここからは馬冑も多く出てますし、環頭太刀が1つの古墳から6個くらい出た例もあります。
多羅国の実態を示す古墳です。
車でここに来るとき、先ほど三叉路から左折しましたが左側が多羅里という地名のところです。
玉田では中心勢力がすんでいたのは多羅里です。今は小さい農村になってます。

王の城は、先ほどご覧いただいた展示館の後ろ、村全体が城の中ということになります。
ここから川は見えませんが、新羅では敵から守るために堀を掘りました。
この川は洛東江の支流になります。黄川といいます。
 
どなたの墓かははっきりしていませんが、冠が出れば首長墓と推測されます。
甲冑が出れば王でないにしろ、支配階層の墓ではないかと推測されます。
ここには中小型の古墳が21基、大きな古墳が7基あります。
これからも11基くらい発掘する予定のようですが、盗掘の恐れがありますので、一般には発掘予定は教えてもらえません。

発掘する前は封土は低かったです。
戦争中は文化財も守るような時代ではありませんので、ほとんど盗掘を受けています。
幼いときから刀とか太刀とか外に出ていました。盗掘者がいらないものは捨ててありましたので、拾って遊んだりしたものでした。

1985年、発掘チームが調査した結果、古墳であることがわかりました。
冠の出土などから首長の墓でないかいうことになり、封土をしたのです。
遺物の状態から推し量って大小の封土をしました。
戦争中は荒れ果てたままでした。封土がないので一般にはどこが古墳かわからなかったのです。
発掘されたものはまだ一部分です。
高麗時代には両親を山の中に捨てた時代もありました。

加耶は6人兄弟で、鉄器をもち支配しました。
安羅加耶とか、大加耶とか言っておりますが実はひとつの加耶の国です。
『駕洛国紀』には多羅国が見えますがその国がどこに存在したかはわかりませんでした。この古墳が出たことで推測できました。
新羅特有の山字王冠や、高句麗系の遺物も出ました。高霊の土器もここで出ました。各国との交流が分かります。

皆さんはどちらからいらっしゃいましたか。
今日は知人と飲んでおりまして、準備がなく家にある本を持ってこれませんでした。
興味のある皆さんに、わざわざお越しいただいて感謝しております。

(李先生のお話をガイドさんに通訳いただきました。古墳群の中でのお話は感動的でした。)