高句麗広開土王碑は改竄されたか  by

【はじめに】

 『東アジアの古代文化を考える会』が設立されたのは1972年11月のことだったと、事務局長だった故鈴木武樹氏の『わたしの古代教室』(新人物往来社、1974年)を読み返してわかりました。 

 その年の12月、会のはじめての行事だったという「深大寺周辺の朝鮮遺跡めぐり」を新聞記事で知った私は一市民として参加しました。 その日、現地講師をされた作家の金達寿氏は、私達が気づかなかった日本における古代朝鮮史跡を探る旅を続けておられました。 この金氏の問題提起もまた私には新鮮な驚きを与えてくれました。 この遺跡めぐりに参加して、私は会員になりました。

 鈴木氏は、会の設立目的が日本古代史を市民の手に取りもどすための運動体をつくることにあると考えておられたようです。 会長には、騎馬民族征服王朝説で高名な江上波夫氏が就任されました。 私は学生時代には、江上説は異端の研究としか考えていなかったものですから、会員になった当初は多少違和感がありました。

 『倭から日本へ』(二月社、1973年)というタイトルの本には、江上波夫・金達寿・李進煕・上原和各氏の講演録が収録されています。 『東アジアの古代文化を考える会』の出発点を象徴している最初の出版物ではないでしょうか。 この本を手にしますと、私が古代史への関心を持ち始めた新鮮な問題意識がよみがえってきます。

 1972年という年は沖縄が日本に「返還」された年でもありました。私は沖縄の「返還」が、住民の意志を尊重しない日本政府によるあらたな「併合」ではないかという疑問から、返還反対の運動にも加わっておりました。 「返還」が現実のものとなり、関わっていた組織の問題もあいまってある種の虚脱感にさいなまれていた時期に、李進煕氏の広開土王碑文を再検討した論文(『思想』1972年5月)に出会ったのでした。 私が『東アジアの古代文化を考える会』の会員になったのはこの出会いがもたらしたものだったのだとあらためて思い返しています。 もう30年前になります。

 李進煕氏の論文には、広開土王陵碑の拓本が日本陸軍の酒匂景信によって持ちかえられたこと、さらに後になって日本の陸軍によって碑文そのものが書きかえられているのが真実なのだと書かれてあったのです。 学界ではすでに近代史の中塚明氏が広開土王碑文研究のあり方に疑問を投げかけられておられ、それを受け継ぐ考古学の李先生による提起となったことはあとでわかったのことですが、この論文は私には衝撃でした。

 李氏は日本陸軍による組織的な石灰塗布作戦により碑文は改竄されていると主張されたのですが、『「邪馬台国」はなかった』の著者として古代史に問題提起をされていた古田武彦氏が改竄説を否定する見解を発表され、この論争はかなりセンセーショナルな話題になったと記憶しています。

 若かったころですし、考古学のことなどわかりませんでしたが、『東アジアの古代文化を考える会』の一会員としては、史跡探訪にも参加されておられた李先生には親近感もありその問題提起に充分刺激を与えられたものでした。 学校で習った日本の歴史というのは、仮のものでしかない、と思われたものです。 自らの目と頭で考える、それが大事だ、そう思うようになりました。

 最近、中国社会科学院世界歴史研究所の徐建新氏のお話を受け賜わる機会があり、当時を思い出しました。 徐建新氏の『好太王碑論争と原石拓本』(『古代史研究最前線』新人物往来社,1998年 に所収)という論文も読んでみました。 現段階での研究成果はこの論文に丁寧にまとめられていますので大変参考になります。

 李氏が碑文の編年をつくられた際、石灰拓本とされた水谷拓本は、その後の検討を踏まえ今日では原石拓本とされる意見が通説となっていること、さらに徐建新氏は原石拓本の発見につとめられており、広開土王碑文の研究はあらたな段階を迎えているようです。

 

その1【改竄説とはどんな説だったのでしょう】「酒匂拓本」

 李進煕氏の研究の結論だけをまとめてみます。

  1. 陸軍参謀本部の密偵酒匂景信は1883年碑文の一部を削り取るか、または不明確な箇所に石灰を塗布し改竄したのち双鉤加墨本を作り持ちかえった。(これまで拓本とされていたものは拓本ではないという、中塚論文を継承)
  2. 酒匂の偽造を隠蔽・補強するためさらに1889年か1900年ごろ参謀本部は碑の全面に石灰を塗布した。(「石灰塗布作戦」と李氏は命名)
  3. さらに数年後、参謀本部は双鉤本に間違いがあった箇所に補修を行った。(「第三次加工」)

 『広開土王陵碑の研究』(吉川弘文館、1972年)として発表された李氏の研究は、拓本の写しや多くの釈文を資料につけておられます。 これらの拓本を検討し編年された結果、このように結論づけられたのです。 広開土王碑の再検討の出発点になった研究であることは間違いありません。 李氏は碑の発見の経緯を検討され、さらに伝えられた拓本の編年を行った上で、日本陸軍による石灰塗布による改竄が行われたと主張されたのです。

 広開土王の碑文には倭が高句麗と朝鮮半島で戦った記録が書かれているとして、古代における朝鮮半島進出の証拠として、利用されてきた経緯があるわけですから、まさに朝鮮半島に進出を図っていた近代日本の陸軍の仕業という説は、魅惑的でありました。 まして、碑文が「まがい物」だった、といわれればなるほどと思ったのであります。

 私は「まがい物」と表現しましたが、中塚論文ですでに指摘されたことなのですが、史料とされた拓本といわれているのは拓本ではではないのだと、教えていただいたのでした。

 拓本というのは碑をぬらして紙を貼り、墨を染みこませたタンポで叩いて取るもののようです。 酒匂がもちかえったものはそうではなく、碑の上から縁取りしてから墨を塗り拓本らしく見せかけたものだといわれたのです。国立博物館にある拓本は、双鉤加墨本というのだと教えてくれたのです。

 捏造とまではいいきれませんが、拓本と称したら偽称ですね。 釈文の一つと言い換えた方がわかりやすいようです。(徐建新氏の前述論文を参照して下さい)

 私は、この李氏の論文に刺激されながら書かれた論考のいくつかに目を通してみました。 例えば末松保和氏は酒匂本=双鉤加墨本説を検討しておられます。 (『好太王碑文研究の流れ』、『東アジア世界における日本古代史講座3』、学生社、1981年に収録論文) この論文は「酒匂拓本」が拓本でないことを先駆的に指摘された水谷悌二郎氏の説に対する批判となっています。水谷氏の推定は碑文に直接紙をあて、上からなぞって字画を明確にしたうえ、さらに拓本らしく見せるために墨を塗り作り変えるという面倒な作業でできたもの双鉤加墨本とするのですが、末松氏は「酒匂拓本」は原石拓本に朱を入れたものを上からなぞって製作したものであり、末松氏はこれを墨水廓填本と呼ぶのが妥当と指摘されておられます。

 李説には必ずしも有利とならない研究成果がその後も登場します。 しかし私は山尾幸久氏が、「李進煕氏の功績は、研究者が安心して頼っていたヤマト王権の任那支配の基礎を、根本的に再検討せねばならなくしたことにある。」(『古代の日朝関係』塙書房1989年、p190〜191)と、李説の意義を高く評価された上で次のような発言をされていることに注目すべきだと考えています。

 「私は李進煕の推定には賛成しない。 しかし中塚明氏の問題提起や李進煕氏の精力的な研究がなければ、碑文の史料批判の急速な深化はなかったと考える。 史学史上の位置づけにおいてこの点を誤ってはならない。」(同書、p193)

 少しややこしいのです。 古代史上の通説に立ち向かった李氏の研究が、史学史の上では重要性はあるが、改竄説は間違っているらしいです。 今日ではここから考えなければなりません。

 

その2【広開土王碑には何が書かれているのでしょう】


 李氏の改竄説を批判した方ですが、武田幸男氏にしたがって読んでみます。

 第一部は4面ある碑文の第一面冒頭から同6行目末尾まで。ここには高句麗の始祖神話が書かれています。いわば序論に当たります。

 以下が本論になります。 第二部を第一面7行目から第三面8行目15字までとします。広開土王の功績がその年ごとに記載されています。

@とAの間にある文章が問題になりますが、それはあとで検討します。

@永楽5年(395年)王は自ら兵を率いて契丹族の稗麗を撃った。

A永楽6年(396年)王はまた軍を率いて百済を撃ち、空前の大成果をあげた。

B永楽8年(398年)王は兵を粛慎に派遣し撃ち、朝貢させた。

C永楽9年(399年)百済が倭と内通した。王は平壌に下り倭の進出に直面した新羅の救援を決定した。

D永楽10年(400年)王は新羅救援のため五万の兵を派遣し、新羅・任那加羅になどに進み倭を退却させ、また安羅人を撃った。新羅は高句麗に朝貢するようになった。

E永楽14年(404年)倭はまた侵入してきたので王は自ら率いてこれを撃った。

F永楽17年(407年)王は五万の兵を派遣し、(百済)を撃った。(壁面の破損で読みとれないようです)

G永楽20年(420年)王は自ら率いて東扶餘の国都にせまった。

 最後に王がおおよそ撃破したところは、城が64、村は1400と記されています。 このように息子の長寿王は、広開土王の勲功を書き残したのです。

 次に第三部ですが、墓守に関連する記事となります。 碑が設置されている地には太王陵と、将軍塚という2つの候補があり、どちらが広開土王の墓なのか、の論争があり結論は出ていないようですがそれはさておき、広開土王の陵を守るために全土から330家が集められたようです。 それは征服された人々から徴発され代々、その職務に尽くすよう罰則つきで定められたのです。

 ところで私達にとって関心があり、問題となるのは「倭」の登場部分ですね。 それが第二部の@とAの間にある文章です。

「百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。而倭、以辛卯年來、渡□破百殘、□□新羅、以爲臣民」不明文字(□)を含めたこの32文字のことです。

 戦前、戦後を通して日本では、倭が「辛卯年」(391年)に海を渡って朝鮮半島にやってきて百済や新羅を破って「臣民」にした、すなわち支配したのだとの解釈がまかり通っていました。 渡□破の□は碑の断片から「海」と読まれ、□□新羅の□□はまったく読めないにもかかわらず「任那」と読む向きもあったようです。

 要するに、都合よく解釈して四世紀末には大和民族は朝鮮半島に出兵して支配下におさめた歴史的事実があるというわけです。 朝鮮の史学者から反論が出されるまで、当たり前のように受けとめられていたのです。 1960年代に、この文章の主語は高句麗であるとの説などが出されたことが、李説を生み出す背景になったようです。 しかし1980年代になって、中国現地研究者である王健群氏の現地調査にもとづく研究が発表されました。 碑文に石灰が残されていたのははっきりしたですが、それは陸軍による改竄ではなく、石灰を塗ったのは、現地の拓本職人だったと主張されたのです。 

 むしろ今では先入観を排して読み直すことが大事なのだと思います。

 多くの研究者の検討を踏まえますと、次のように読むのが妥当であると思われます。

 百殘(百済のことです)や新羅の民はもともと高句麗に帰属していたものである。 ところが倭が辛卯年(391年)よりこのかた□(王健群釈文では「海」だが、徐建新氏は推測にすぎないとされた)を渡り百殘(百済のことです)や新羅の民を倭に帰属させた。素直に読めば、支配とかでなく、民を掌握する権益は本来高句麗にあったのを、理不尽にも倭は、その権益を侵したのだ。 だから・・・・と続くわけです。

 「この短い碑文には当事者である高句麗のほか、百済・新羅や倭など、東アジアの主要な国がみな一斉に、集中的に登場しているだけでなく、その特殊な性格が的確に理解されるならば、辛卯年条の重要性は従来にもまして再認識されてくるであろう」と武田幸男氏は指摘されています。(『広開土王碑原石拓本集成』p232〜233)

 読みはこれでいいとして、歴史的事実であるかの検討は別にしなければならないのです。 碑文の全文の検討から、この文章が、Aの永楽6年条の記述の前置きとなる文章であるとともに、その後の記述にも関連する“大前置き文”の性格をもつものであると、今日では研究者の意見は一致しているようです。倭が高句麗の本来の権益を侵したという前提は碑文の構成上必要だったというわけです。

 武田幸男氏の指摘を再び引用します。 「碑文は後人が任意の文字を挿入してはじめて文意が通るような、そんな不用意な文章ではない。」(『隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論社、1997年、p312)

 構成がしっかりした碑文であるとの前提で読みましょう、と警められているようです。

 

 

 その3【4世紀〜5世紀の朝鮮半島】 その4 【参謀本部と広開土王碑】 次ページへ