2004.9.30 By.T


久留倍遺跡(四日市市)探訪記-1


三滝川


海蔵川(かいぞうがわ又はあくらがわ)


伊香留賀神社

一里塚跡碑
 倉本一宏先生の久留倍遺跡シンポジウムの資料を手に、迹大川(とほがわ)探訪を試みました。
 土地勘のないところを、ドライブマップと首っ引きでガイドをしていただいたのは同行のMさんとKさんです。
 このシンポジウムのことを知ったのは、つい先日のこと、9月19日のシンポジウムだけでも参加しようかと迷っていたんですが、思い切って前日の朝、歯医者の予約をキャンセルして飛び出したんです。
 ですから、事前に計画をしていたMさんたちとは、同行予定ではなかったんですが、せっかくだから久留倍遺跡だけでも見ておこうと思いました。

 2004年9月18日、10時半頃、東京駅発の新幹線に飛び乗りました。
 自由席は満員、たちっぱなしでしたが、車中でにわか勉強しました。
 ところが、事前に待ち合わせていたはずのMさん、Kさんがうまく乗り合わせなかった偶然で、名古屋駅前でばったり、Mさんと遭遇、近鉄四日市駅前でKさんとも合流して、それならとレンタカーを借りて、迹大川(とほがわ)探訪に向かったのでした。


 ここで、倉本先生の資料「壬申の乱と伊勢国」を使わせていただくことになりました。(ご承知のことですが、念のため)

 吉野を脱出したのは672年6月24日(現在の暦では7月24日に相当する) のこと、大海人(のちの天武)に最初から従ったのは草壁皇子・忍壁皇子、そして舎人朴井連雄君・県犬養連大伴・佐伯連大目・大伴連友国・稚桜部臣五百瀬・書首根摩呂・書首智徳・山背部小林・山背部小田・安斗連智徳・調首淡海など20人あまり、それに女嬬(皇子側近の女官)10人あまりであった、という。
 掲示板No.1635で紹介しましたが、この女嬬が草壁皇子の養育のためではないかと、倉本先生は考えておられるようです。

 25日、大山(鈴鹿山地の加太越)を越え、伊勢鈴鹿に到着、国司三宅連石床・介三輪君子首および湯沐令田中臣足麻呂・高田首新家らに迎えられる。
 川曲坂下(鈴鹿市)につくと日が暮れた。う野皇女が疲れたというので少し休息したが、雨がふりそうなので出発、激しい雷雨となり寒さにふるえた。
 三重郡家(四日市采女町付近か?)に着くと、小屋に火を放って冷え切った人々をあたためさせた。山部王・石川王が帰服する(誤報とのちに判明)との報告を受ける。と、こんな展開です。

 そして翌26日の朝を迎えます。
 『書紀』の記述は、「旦於朝明郡迹太川辺望拝天照太神」、とあります。
 またその原資料として採用したと思われる「安斗智徳日記」の記すところによれば、「辰時、於明朝郡(※)迹大川上、而拝礼天照大神。」とあります。(※朝明郡が正しいのですが)

 先に名前を記していますが最初から従軍した舎人・安斗連智徳の日記が採用されています。
 大海人皇子が戦局を展望しつつ、深く拝礼していたというのは、おそらく事実だったのでしょう。
 伊勢神宮が、このころあったのかという問題も指摘されるところですので、拝礼したのは倉本先生がおっしゃるように昇る朝日だったのかもしれませんが、胸中はどんなものだったのでしょうか。
 私は、伊勢に感謝を込めた願いが通じたことから、後の伊勢神宮との深い結びつきができた因縁を感じます。

 さて、この迹大川(とほがわ)とはどこか、については、いくつかの説があったのですが、通説では、朝明川(あさけがわ)とされています。(直木孝次郎『壬申の乱』など)
 ところが、久留倍遺跡の発掘により、久留倍遺跡を朝明郡家と考えると位置の矛盾が生じてきました。
 何故通説が朝明川としていたかというと、朝明郡家を縄生廃寺と見ていたからのようなのですが、今回の探訪では朝明川・縄生廃寺とも時間切れで行けませんでした。
 迹大川の位置を、久留倍遺跡より南側の位置に求めざるを得なくなり、いくつかの説が浮上してきました。
 @三滝川A海蔵川(かいぞうがわ又はあくらがわ)B部田川(へたがわ)、遠保神社C米洗川(よないがわ)D十四川(じゅうしがわ)、実は朝明川説以外にも、こんなに説があったんです。
 有力なのは、@とAですが、海蔵川の方が古道が通っていて可能性は高いようです。
 最初に向かったのは、近鉄四日市を起点に国道1号線を走り、四日市橋が三滝川にかかっていますので、@を探訪。
 次に向かったのが、海蔵川。ここにかかるのが海蔵橋、この橋のたもとには、一里塚があっていかにも古道を思わせます。
 この三ツ谷の一里塚跡碑の説明板には次のように書かれています。
 「東海道の三ツ谷には、かつて一里塚があった。しかし、その場所は、昭和20年代に海蔵川が拡幅された際、川の中に取り込まれてしまった。」

 さらに伊香留賀神社へとレンタカーを走らせます、米洗川は、このあたりです。
 前の二つの川のような大きな川ではないのです。
 糠突山という山があってその頂上に碑を建ててるようですが、パスしました。
 いよいよ久留倍遺跡が近くなってきました。